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第三章 二人の冷戦編
56.王子は感謝を伝える【N side】
しおりを挟む自分たちの乗る列車の後続車で流血沙汰の騒ぎが怒っていることなど微塵も知らないように、人々はその旅路を楽しんでいるようだった。
打ち付ける雨を物ともせず、ポーカーやチェスに熱中する姿を見ながら、自分の幼少期を振り返る。
強国の王子として生まれて四半世紀と少し、何不自由なく生きて来たと思う。国王の息子という地位や名誉が持つ力は計り知れず、望まなくても人は周囲に集まって来た。初めこそ何の疑いも持たずに接していた彼らを、甘い蜜に群がる蟻のように感じ始めたのはいつからだったか。媚び諂う女たちに嫌気が差して、身分を隠して娼館へ通うという選択を取った。
(憧れるだなんて…よく言える、)
エレン・ロベスピエールに告げられた言葉が、何度も頭の中で浮かんでは消えていた。自分が本当に「何でもかんでも思いのままに操る」ことが出来るのならば、こんな場所に一人で突っ立って居ない。
たった一人の最愛の人さえ大切にすることが出来ない、この愚かな肉体で良ければ喜んで差し出す。綺麗に洗って干して生まれ変われるならば、涙を流して喜ぶだろう。
誰かを抱き締めるには酷く汚い。すべて綺麗にしろ、というリゼッタの言い付けを守るためには一生掛かっても時間は足りない気がした。罪に罪を重ねて生きて来たし、踏み倒した他人の心なんて数知れないのだから。
「遅かったわね」
座席に近付くと、不機嫌そうに目を細められた。
「すみません、少し手間取りました」
「言われた通りに行動したわ…」
言いながら、気掛かりな様子で隣で寝息を立てるカーラを見つめる。兄が既に列車から姿を消し去ったことなど露知らずで眠り続けている彼女が次に目覚めるのは南部の娼館なので、大移動に驚くだろう。
男の楽園、女の地獄とは上手く言ったもので、中には法外な施設も少なくない。比較的規制が甘い自国の南部には、一度迷い込んだ女を死ぬまで扱き使う娼館もまだ僅かに残存していた。自分の私怨のために群衆を扇動して犯罪を起こした兄と、その兄に連れ添って計画に加担した妹。彼らが行き着く終わりとしては相応しいと思える。
「ハンカチは返すわね」
「ありがとうございます。シルヴィアさん」
シルヴィア・バートンは複雑な顔でレースのハンカチを手渡した。特殊な薬品を染み込ませたハンカチは、吸い込むと気絶する優秀な機能を有していた。
「彼女が私の隣に座った時、わざとコインを落としたの。拾ってくれようと屈んだところで口元に押し付けた。これでもう私の役目は終わりのはずよ」
「もちろんです。次の駅で降りてください」
「引ったくりを捕まえて貰った御礼がこんなに高くつくとは思わなかったわ」
薄い紫色の瞳を閉じて疲れたように息を吐く。
「……彼女をどうするつもり?」
「知らない方が良いかと、」
「怖いことを言うのね。リゼッタを痛め付けた人たちを懲らしめるって言うから手を貸したけれど、犯罪は嫌よ?」
「まあ、ギリギリ大丈夫だと思います」
曖昧に笑うと、シルヴィアは疑いを拭い切れない顔を向けたまま、小さなピンク色のハンドバッグから煙草を取り出して火を付けた。煙を逃すために開けた窓からは雨が吹き込んでいる。
この大雨で血液の凝固が遅れるのであれば、もしかするとエレンは死んでしまうかもしれない。リゼッタとの約束を守り切れたか微妙なラインなので気持ちが沈んだ。
「仕事を辞めるって言いに来た時、彼女は自分が襲われたことを私に一言も話さなかったわ」
「………、」
「だから…したたかに生きろ、なんて上から目線でアドバイスした。もう十分に頑張って生きているのに…」
「……そうですね」
「リゼッタには幸せになってほしい。心から…本当に」
涙を溜めた薄紫色の瞳がこちらに向けられた。
「貴方、王子様なんでしょう?一度ぐらい彼女の、本当の王子様に成り切ってよ。大切ならば、手を離さないで」
エレンと自分の会話を聞いていたのか、それともリゼッタから聞いたのか。自国の王子を前にして啖呵を切れるシルヴィアの姿に、心が揺れた。
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