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第一章 合縁奇縁
第二十九話 極楽浄土◆閻魔視点
しおりを挟む極楽浄土に蓮の花。
穢れなき魂が辿り着く安息の地。
毎日毎日飽きるぐらいの人間が冥界には送り込まれて来るけれど、地獄に行く人間なんてのは五人に一人ぐらいの割合であって、ほとんどの人間は極楽へと流れる。
聞いた話によると極楽でも多少のカーストはあるようだが、それは死後に請け負う仕事の種別や負荷が変わるぐらいのもので、地獄のように階層間における大幅な差は無いらしい。
三途の川から来たからか、極楽の門を潜ってすぐに地獄との落差に眩暈がした。
青々とした空には穏やかな雲が浮かび、地上には至るところに温泉が沸いている。薄い衣を羽織った何人かの女の群れがキャッキャとはしゃぎながら近くを通り過ぎて行った。
(いつ来ても呑気そうな場所だな……)
同じ冥界とは思えないぐらい、極楽と地獄は異なる。
そりゃあまあ、生前に悪事を働いたか、それとも善行を積んだかの差なのだから仕方がないのだけれど。終わらない苦痛の中を耐え続ける地獄の亡霊たちがこの極楽の様子を見たら、きっと涙を流して己の人生を後悔するに違いない。
「わぁ、君の方から新年の挨拶に来てくれるなんてどういうことだい?もしかして明日は雪かな?」
気が抜けるような明るい声に振り返る。
視線の先には、太陽の光に透ける白髪に同じく真っ白の着物を着た男が立っていた。この長髪にやけ面を見るのも実に何年振りだろう。出来れば見たくはなかったのに。
「元気そうだな…御影、」
「うん。相変わらず僕は元気だよ。酔妃がよく働いてくれてね。右腕としては申し分ない。君のところは?」
「こっちは常に人手不足だ」
「酔妃を貸してあげたいけど、ごめんね。君が義母に抱く淡い恋心は知ってるからそれは出来ないや」
「お前、死にたいのか?」
滅相もない、と大袈裟に両手を広げて目をグルンッと回すと御影はおどけた表情を作った。
こういうところが嫌いだ。
極楽の長との会話はいつだって雲を突くような感覚で、何を聞いてものらりくらりと誤魔化されている気がする。それどころか、こっちが踏み込まれたくない境界線を、御影という男はいとも簡単に突破して来るのだ。
脳裏に浮かぶ酔妃の姿を、頭を振ることで追い出した。御影が適当に言った言葉に乗せられては、それこそ彼の思う壺。こうやって相手の心を引っ掻き回すのが趣味なので困る。
「………一条小春は何処に?」
本題に斬り込むと、御影は唇の端を上げた。
知らない風ではないその様子に血の気が引く。
「連れて来てあげるね。ちょっと待ってて」
そう言うと、御影は指をパチンと鳴らした。
強い風と共に現れたのは変わらない姿の黒髪の女。世間一般では義母と呼ばれる属性にある彼女が、こうして極楽で御影のもとで働いているのは、自分への当て付けなのではないかと思うこともある。
表情のない酔妃と一瞬だけ絡んだ視線はすぐに外れた。細い二本の腕に抱かれた人間へと目は移る。腹から下を赤く濡らしたその身体が誰のものか、最初は気付かなかった。顔の半分は潰れて、残り半分も出血でよく見えない。
しかし、微かに鼻腔をくすぐるのは知っている匂い。
「………小春…?」
自分でも驚くぐらい、漏れ出た声は小さかった。
酔妃が床に置いた身体はダラリと脱力して動く気配はない。鬼たちを揶揄う時の鈴の音のような声はもう聞こえない。不満を言う時に細められる茶色い双眼が今は見えない。
閉じた瞼はもう二度と開かない。
それは、彼女がすでに息絶えていることを示すには十分。
「内臓が何個か破裂しててね。急いで連れて来たからまだ綺麗にする前なんだ。ちょっとビックリしちゃったかな?」
「……死因は?」
「見ての通り、事故死。突っ込んできたトラックと正面衝突で即死だよ。脱衣婆が言うには子供を庇ったとかだって」
「御影、この女は俺が引き取る」
「っはは!本気かい?」
芝居じみた笑い声が頭に響いた。
「知り合いなんだ。死ぬ前に会ったことがある」
「聞いてるよ。君が勝手に招き入れた人間だろう?でもさぁ、閻魔。いくら君とはいえど、公私混同は良くない」
「…………」
「この子はどれだけ遡っても真っ当に生きた善人だ。君の一存で地獄に呼ぶなんて出来っこない」
職権濫用も大概に、と笑顔で釘を刺す御影の隣では酔妃が冷ややかな目でこちらを見下ろしていた。
地面に伸びる小さな手を取ってみる。血が通っていない手のひらはただただ冷たい。読み取れない表情から、小春が最後に思ったことを推測しようとした。
きっと一瞬だったのだろう。
痛みも苦しみも、本当に一瞬。
その刹那の間に彼女の命は永遠に失われた。
「俺は、この女と契約している」
「はぁ?なにを……?」
疑わしそうに顔を顰める御影は、もうこの時間を無駄と考えているのか遠くを見ながら言葉を返す。美しい極楽の景色の中で、血塗れで横たわる小春の姿だけが悪夢のようだ。
背中に手を差し入れて抱き上げると、思ったよりもはるかに軽くて驚いた。べっとりと纏わりつく赤いシミからは錆びた鉄の匂いがする。
「冥婚の契りを交わしていたんだ。一条小春は俺が嫁として貰い受ける。極楽の帳簿からは消してくれ」
呆気に取られたように口を開いたまま固まる御影に向かって、深く頭を下げた。気まぐれで結んだ契約がこんな場所で役立つとは思わなかった。
この行いは天に背くことなのだろうか。
今はまだ、答えは分からないけれど。
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