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29 経験則
しおりを挟む「ジャンヌ、今から帰るのか?」
クレモルンの屋敷を去ろうとする私を呼び止めたのは、仕事から帰ってきた父ダフマンだった。
アマンダとの会話の末、私はヘルゼンへの帰宅を一日早めることにした。心配そうな顔をする従姉妹には「用事を思い出した」と伝えて、父には置き手紙を残して帰るつもりだった。
これ以上ここに居ても意味がない。
安心できる場所だった屋敷は、疑いを生む場所に変わった。前向きな考え方をしようといろいろな可能性を考慮したけれど、母の形見というイヤリングを他人がイーサンの部屋で落としたとは考え難い。
つまり、あれはアマンダのもの。
姉妹のように育った私の従姉妹、アマンダ・ベスの持ちものに違いないのだ。
「はい、お父様。いつまでもクレモルンに居てはお義母様たちも心配されます。それに、週末にはイーサンが戻りますから準備をしないと」
「ジャンヌ……これは私の経験に基づくアドバイスだが、」
「………?」
私は黙って父の顔を見上げた。
目元には深い皺がより、隈が目立つ。
「味方を作っておくべきだ。ヘルゼンの屋敷でも良いし、屋敷の外でも良い。まったく異なる環境に身を置くのは、お前が思っている以上にお前の負担になっているだろう」
「………そうですね」
「そんな時、本音で話すことができる相手が居れば心強い。まぁ、私自身も今は募集中なんだが」
乾いた声で笑おうとしたようだが、上手く出来ていなかった。バッカス・ヘルゼンの下で働くことは相当な神経を使うはずだ。母亡き今、父の本当の心はいったいどこにあるのだろう。
「お父様も、何かあったら私に話してください。ケリーでも良いですし、」
「アマンダがときどき晩酌に付き合ってくれるんだよ。あの子は意外と酒に強くてね」
「それは……安心ですね」
私は苦い気持ちで相槌を打つ。
「今からヘルゼンに行くなら野菜を少し貰ってくれないか?ルバーブが随分と育っていて、うちでは到底食べきれないんだよ」
「ルバーブですか?」
そんなものが屋敷の庭で育てられているとは知らず、私は驚きつつ聞き返した。しかし、ペチュニアはお得意先でしか仕入れないから、持って帰ったところでお気に召すか分からない。
私が丁寧に断ると、父ダフマンは残念そうに肩を落とした。
「アマンダが学校で使うと言って苗を買ってきたんだが大きくなり過ぎてね。必要になったらいつでも取りに来てくれ。ヘルゼン商会が野菜の販売でも始めてくれたら良いんだが」
冗談とも本気とも取れる願いをぼやいて、ダフマンは「また会おう」と手を振ってくれた。私はトランクを片手に右手を振り返す。
ヘルゼンの屋敷に着く頃には、時計はおそらく八時を回っているだろう。どんな顔でペチュニアに会えば良いのか。きっと何か小言を言われるに違いない。
(どうすれば………)
死に戻ってから今に至るまで、イーサンの浮気の事実は頭の隅にあったものの、どこか夢の中のような気持ちでいた。二度目の人生で何かが変わるような淡い期待すらあった。
あの日、宿舎の夫の部屋に居たのはアマンダだったのだろうか?
目を閉じて声の主を想像する。
高い女の声だったことは覚えている。親密そうな空気感、気を許した夫の優しい声。私の死を願うという呪いの言葉も。
「すみません、ロゼリア騎士団の宿舎まで」
通り掛かったタクシーを呼び止めて、私は後部座席に乗り込んだ。
慎重に進めなければいけない、という当初の誓いが揺らぐほどにはショックを受けていた。証拠を揃えて離縁に向かおうという計画性も薄れて、ただ、真実を確かめたいという強い気持ちが身体を突き動かす。
アマンダを部屋に呼んだの?
それはいつ?二人っきりで居たの?
はぐらかされたらどうしようとか、そんな悩みすら吹き飛ぶぐらい冷静ではなかった。
初めは、結婚を破談にするつもりだった。
イーサン本人にもそう伝えたし、父親にも自分の意思を表明した。だけど、私は結果としてヘルゼン伯爵家に嫁入りした。それは父の気持ちを汲んだから。アマンダの夢を叶えたいと思ったから。
ただ、本当のことを知りたい。
二人が私を騙しているのかどうか。それだけを素直に教えてほしいと思う。もしも私が邪魔者であるなら、潔く身を引く覚悟はある。
最悪の結末を回避できれば、それで良い。
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