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第二章 ヘルゼン伯爵家の悪妻
37 良妻
しおりを挟むはじめは走り書き程度だった日記帳も、今ではかなりの分厚さになっている。ユーリの件があって以降、メモすべき内容は精査するようにした。誰かが拾って中を読んだとしても、違和感を抱かないようにしないと。
目下取り組むべきことは二つ。
ヘルゼン商会の成長と国王の病気の解明。
一つ目についてはユーリも難色を示したけれど、私としては大きな意味がある。商会の運営は父の仕事でもあるから、そのノウハウを身に付けることはいずれ自分の役にも立つと考えているのだ。
実際、私はヘルゼン商会の中で自分の力を試して、ゆくゆくは新しい道を見つけるつもりだった。もちろんイーサンや義母が私の実力を認めてくれたら添い遂げることも考えるつもりだったけれど、現状では難しそうだ。第一、イーサンにはアマンダがいる。
ならば、ヘルゼンを去るときに少しでも自分に資産となるものがあった方が良い。お金や宝石なんかじゃなく、もっとずっと価値があるもので。
「………っ、」
熱心に机に向かって書き物をしていたせいか、頭が痛い。相変わらず胃は重いし、しっかりしないと。立ち止まっている時間はないのだから。
「ジャンヌ様、少し休憩なさってください」
心配そうに声を掛けてくれたのは、メイド長のメルトンだった。ここ数日、ペチュニアが副メイド長のイボンヌを伴って西部へ出掛けているためか、メルトンはいつもより顔色が良い気がする。
他のメイドたちもまた、常に顔色を伺う相手が居ないため、楽しそうに働いていた。屋敷全体の空気が柔らかくなっているようにも感じる。
「ありがとう。なんだか天国みたいですね、こんなに気を遣わないのは久しぶりです」
「ふふっ、おっしゃる通りです。せっかくなので試してみたかった新しい料理にもチャレンジしてみようかと」
「良いですね!私もぜひご一緒したいです」
もちろんです、と優しく微笑むメルトンにお礼を伝えて、私は椅子から立ちあがろうとした。
瞬間、鋭い痛みが身体に走る。
思わず椅子の背を掴んで、目を閉じた。ここ最近、どういうわけか週に一回ぐらいの頻度で耐え切れないような痛みが胃を刺激する。強いストレスが掛かっている自覚はあるけれど、いい加減に薬でも抑えきれない。
(一度受診すべきかしら………)
今までアマンダにもらった薬を継続して飲んでいたが、残りも少ない。ペチュニアが帰って来たらまた自由な時間が減るから、今のうちに病院へ行くべきだろうか。
とりあえず宝石店での仕事を終えてから考えよう、と私は身支度に入った。
ヘルゼン商会を取り仕切るバッカスの信頼を得たのか、最近では店にいる時間についても細かくは聞かれなくなった。最初はきっかり一時間で帰宅しないとペチュニアにうるさく言われていたので、この対応はありがたい。
今日の夕食の支度は朝のうちにメルトンやメイドたちと済ませたから、二時間ほど店に滞在して、三時過ぎに病院へ向かえば受診できるだろう。週末にはハンベルクの祖父母にも会いに行くから、万全の状態にしておかないと。
◇◇◇
「えっと……マリーさんと、」
コリーナ洋裁店の中で、私は自分を観察する挑戦的なヘーゼルの瞳を見つめ返した。忘れたわけではない。ヘルゼンでの晩餐会の日、化粧室で一緒になったヘザーという名前の女だ。
どういうわけかマリーの隣で退屈そうに店を物色するヘザーの姿に私は戸惑った。今日は洋裁店で取り扱ってもらっていたアメジストのネックレスが売れたということで、次に合わせるものを届けに来たのだ。
なぜ、ここにヘザーが?
「あ、ジャンヌさん!ごめんなさい。ジャンヌさんの話をしたらヘザー先輩が是非ともお会いしたいと…… 先輩は最近婚約したばかりで、将来の結婚に向けてジュエリーを見ておきたいそうです」
「ちょっと、そんなにペラペラ喋らないでよ。今日は午後から休みで暇だっただけ。冷やかしに来たの」
「そんなの母の前で言わないでくださいね。帰れって追い返されちゃいますよ」
唇を尖らせて忠告するマリーの横で、ヘザーは腰に手を当てたままでキョロキョロと店内を歩き始める。コリーナは今日も忙しいのか、店を空けてるようだった。
私は宝石店から持って来たネックレスをマリーに手渡して、こそっとヘザーの様子を伺う。晩餐会の日はあんなことを言われたから、てっきり彼女がイーサンの浮気相手なのかと誤解した。
夫の同僚ということで何か声を掛けるべきかと迷っていたら、目の前でブーツを履いた脚が立ち止まった。
「化粧、変えたのね」
「え?」
ヘザーは相変わらず挑むような目で値踏みをするみたいに私を見る。蛇に睨まれたネズミなんかもこういう気持ちなのだろうか、と内心落ち着かない。
しかし、この程度で怯んでいては悪妻は務まらない。第一、彼女は私が戦う相手じゃない。
「………はい。この方が今の私の気分に合っているので、気に入っています。家に居るだけの妻ですが、平和ボケするわけにはいかないので」
ヘーゼルの瞳が丸くなって、瞬きを繰り返した。
「驚いた。そんな風に喋れるなんて」
「どういう意味ですか?」
「屋敷で会った時は、なんて退屈な女なんだろうって思ったの。イーサンの影に隠れているだけの、無難な奥様って感じで」
「………?」
良い風に言われていないのは分かる。だけど不思議と傷付きはしなかった。ヘザーの指摘はもっともで、確かに私はイーサン・ヘルゼンの良き妻であることを目指していたし、それは自分の個性を消すことにも繋がっていたから。
「言い過ぎたって分かってるわ、ごめんなさい。だけど変に良い女ぶってる時より、今の方が似合ってる。何か心境の変化でもあったの?」
私はマリーの方をチラッと見て、ヘザーに向き直る。首を振りながら「特別なことは何も」と微笑んだ。
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