その掌にこいねがう

月灯

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本編

23. 祐

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 逃げたところでどうにもならないのはわかっている。
 上着も財布もスマホもあの部屋に置いてきてしまった。セーフワードの理由も言わずに逃げ出したこともちゃんと謝る必要がある。いずれにしろ一度は戻らなければいけない。
 だが、どうしてもあの場にいられなかった。身一つで雑踏の中を進みながら、遥はぐらぐらする頭を押さえる。頭の芯がすうっと冷えるような感覚は、貧血のときのそれによく似ていた。

 ……セーフワード、久しぶりに使った。

 そもそも使った回数自体が多くない。ふらふら行きずりのDomとプレイしていた頃は何度か危ない奴と当たって使っていたが、その程度だ。セーフワードを使えばしばらくの間Domの支配は切れ、Subに手出しができなくなる。そのときに話せばわかる相手もいたし、問答無用で逃げたときも、まぁ少ないながらあった。とはいえ、藤木の店に通うようになってからは長らく使っていない。
 まさか、それを祐に使うことになるとは。

「……どうしよ」

 本当に、どうしよう。
 遥はついてきていない。それだけを定期的に確認しながら、半ば走るように人混みを押し抜ける。気付けば藤木の店の近くまで来ていた。いったんそこで落ち着くか、と考えて首を振る。
 自分が情けなくて仕方なかった。きっと今頃祐は困惑している。そして事情を知ったら自分勝手な事情で振り回した遥に幻滅するだろう。いや、そもそも祐の想い人に嫉妬したと言えるだろうか。自分に振り向いてもらえないことに我慢ならなかった、と。
 言えない。言えるわけがない。
 想いを告げてパートナーでいられなくなるくらいなら、隠したほうがいい。祐が遥を大事にしてくれているのは確かなのだから、それで満足する。してみせる。
 急に胸が苦しくなって、遥は大きく息を吸い込んだ。引きつれるような音すらさせて肺を満たしたのに、息苦しさは去ってくれない。むしろどんどんひどくなる。
 遥は足の向きを変え、路地に入った。人が多い大通りにいるから酸素が足りないのかもしれない。だが状態は変わらず、むしろ頭がズキズキ痛み始める始末だ。
 なぜこんなに。

「う」

 とうとう立ち止まり、遥は壁に手をついた。閉店した店内は暗く、薄暗い該当にショーウィンドウがぼんやり照らされている。横を見ると、真っ黒なガラスに己の顔が映っていた。生気のない白さだ。そして視線の先、ガラスについた手が震えている。
 ……あ、これ。
 がくりと膝が折れる。しゃがみ込んで呻きながら、遥は不調の正体にようやく気づいた。Dropの前兆だ。

「薬……」

 慌てて上着を探ろうとして、祐の部屋に置いてきたことを思い出した。鞄も同様に。しまった、まずい。
 焦る間にも、どんどん体温が下がっていく。
 一度座り込んだ下半身は鉛のように重く、もはや立ち上がることすらできそうにない。胸を潰されたような息の苦しさと、叩きつけるような頭の痛み。加えてそれらから逃避するように重くなる目蓋と朦朧とする思考に、遥はいやだと口の中で呟いた。足元までなにかが来ている。それはゆっくりと上って、底のない深みへ引きずり込もうとしていた。いやだ。落ちたくない。
 誰か。誰か。……祐。
 あの端正な顔が困惑と悲しみに歪むのを思い出し、胸に切りつけるような痛みが走る。ごめんなさい、と遥はうわごとのように言った。ごめんなさい、許して、ごめんなさい。すてないで。
 ……たすけて。

「――遥?」

 そのとき、聞き覚えのある声がした。
 誰だろう。顔を上げて確かめようとするが、身体が重い。

「遥!」

 駆け寄ってきた誰かに肩を掴まれる。顔を持ち上げられ、身体を支えられた。大きな掌が首筋に触れる。冷たい、と呟く声が遠くに聞こえた。
 男の声だ。まだ若い。絶対に知っているはずなのに、思い出せない。

「遥、遥。きこえるか」
「……あ……」

 くそ、どこかに連れて、いやパートナーは、と苛立った声が聞こえる。遥のせいだ。遥がそんな声を出させている。そう思うとますます気が塞ぐ。
 誰かは遥に向き直り、顔を覗き込んだ。

「遥、俺がわかるか」
「……ゆ、う……」

 遥の答えに誰かは舌打ちした。Dropか。苦々しい声の直後、温かいものが遥を包む。Glareだ。
 ただ。

「遥、薬は持っているか」
「……ぅ、……ゃな……」
「なんだって?」
「ゆう……じゃ、なぃ……」
「は?」

 慣れ親しんだあの温もりと違う。遥の求めるものではない。いま遥を抱き留めているのは祐ではない。
 むりやり心へ入り込もうとするGlareに、腹の底から拒否感が湧き上がった。これが遥を落ち着かせようとしているのはわかっている。だがだめだった。もはや生理的な嫌悪に近い。ちがうのだ。これじゃない。ほしいのは――そこまで考えて、遥の意識は闇に飲み込まれた。
 最後に、焦ったように名前を呼ぶ声が聞こえた、気がした。


***



 自分の身体すら見えないほど真っ暗な中に、遥は独りいた。寒くて、息苦しい。
 スペースに入ったときはひたすら幸せに満たされていた。頭のてっぺんまで砂糖漬けにされて、息をするたび多幸感が湧き起こるような感覚。祐になにもかも支配されて、手を繋がれたまま揺蕩っていた。だがここは真逆だ。独りどろどろの沼に飲み込まれて手足を絡められているような。冷たい氷を浮かべた海のなかに沈められたような。これらはただの心象風景なのかもしれない。だがとにかく苦しくて、冷たくて、痛かった。ここにいたらきっと、遠からず死んでしまうに違いない。
 ――祐。
 少しでも孤独を紛らしたくて呼んでも、返る言葉はない。独りだ。誰も来ないし、遥も抜け出せない。

「祐、祐」

 ……来るわけないよ。
 不乱に名を呼んでいると、囁く声がした。意地悪く歪んで、語尾のひび割れた響きだ。

 考えてもみなよ、あんなひどい態度を取っておいて助けてもらえると思ってるの? 祐にはお前なんかよりずっと大事な相手がいるんだよ。

 囁く声は、もっともらしい言葉を並べて遥を詰った。痛いところを的確に突いては開いた傷口を抉る。そうして傷口から真っ赤な血と涙を滴らせるのを眺めてはにやにやと笑った。

「祐……祐、」

 ……恋さえしなければ、一生大事にしてもらえたのにね。
 また囁かれる。
 そうだ。首輪を渡しながら、祐は一生だと言った。だがあの誓いはパートナーとしてでしかない。ダイナミクスの契約と恋愛は併存する。DomとSub間で性的な関係を持ちながら、一方で別に婚姻関係を営むことだって少なくない。すべては二人の契約内容次第だ。遥と祐は互いの恋愛関係について縛り合っていない。すなわち相手が別の誰かを想っていたところで、責める権利も縋る権利もない。
 だから、遥にできることは恋心を隠して傍に居続けるか、あるいはパートナーごと解消するかだ。
 一度はパートナーの関係で満足すると決めた。だが、いざできるかと言われると。

「祐、祐……ゆう」

 だが祐の名を呼ぶのはやめられなかった。祐、祐、祐。壊れた機械のように繰り返す遥を声は嗤う。あるいは憐れんでいるのかもしれない。
 ……本当、ばかだなぁ。
 ぐっと足首を掴まれさらに深いところへ引きずり込まれた。遥は苦しさがさらに増して、意識が遠くなる。
 これ以上深くなったら、だめだ。もう。

「ゆう、」

 必死で足掻いて、手を伸ばした。だがもがいた指先はなにも掴まない。冷え冷えとした沼の水が掌中をすり抜けるだけだ。そうしているうちにも遥はどんどん沈んでいく。闇の密度が濃くなり、身体に重たくまとわりついた。身体を動かすのすらもうままならない。指先の感覚ももう朧だ。闇に混じって、溶けていく。
 それでも、遥は祐の名を呼んだ。こんな状況になってなお祐が恋しかった。馬鹿馬鹿しさに笑うしかない。祐こそが希望で救いであり、しかしそれ以上に絶望をもたらす。

「ゆぅ……、ん」

 ふと遥は振り返った。
 いま、遠くで声が聞こえた、気がした。気のせいかもしれない。恋しさがもたらした幻聴かもしれない。けれどその声は、よく知っているもののような気がした。
 名前を呼ぶのを中断し、遥は耳を澄ませる。もしかしてと希望が疼く。それをねじ伏せようとする闇ともつれ合いながら、遥は息を詰めた。

 ――遥さん!

 今度こそ聞こえた。
 知っている。この声は、確かに知っている。

「祐、ゆう」

 がむしゃらに手を伸ばした。振り払われるのかもしれない。冷たい眼差しを向けられるのかもしれない。嘲笑が返るかもしれない。
 それでもいい。どうせ沈むなら、祐自身に息の根を止められたい。

「ゆう、ゆう」

 ――遥さん、遥さん……!

 声はまだ遠い。いくつも膜を隔てたようにくぐもっている。声がする方向へと、ひたすら遥は闇を蹴っては掻いた。
 
「祐、祐……!」

 不意に温かいものが指先に触れた。それはみるみるうちに体積を増やし、遥を包み込む。そのまま強い力で引き上げられた。

「遥さん」
「……祐」
「戻ってきて、遥さん。お願い」

 耳許で響いた声に、ようやく身体の輪郭を取り戻した気がした。
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