月の砂漠のかぐや姫

くにん

文字の大きさ
198 / 361

月の砂漠のかぐや姫 第196話

しおりを挟む
「・・・・・・殿。・・・・・・羽磋・・・・・・。羽磋・・・・・・殿・・・・・・」
 羽磋の耳に自分の名を呼ぶ声が届きました。
 それは、遠い遠い草原の彼方から朝もやを透して微かに届く声のようでもあり、自分の耳元で叫ばれる大きな声のようでもありました。
 また、それは、朝露が木の葉から地面に落ちた時に生じる穏やかな音のようでもあり、急流が滝から落下する時に生じる激しい音のようでもありました。
 羽磋は、ひどく疲れていました。この声に意識を向けることさえもが億劫に感じられました。
 彼は薄暗い水中を漂っていました。目を瞑ったままで赤子のように体を丸め、泳ぐこともせずに、ただゆらゆらと漂っていました。もちろん、彼の身体そのものが水中にあるのではありません。外の世界から遮断された彼の心が、無意識という水の中を漂っていたのでした。
 このまま眠っていたい。もう誰にも会いたくない。はっきりとした形にはなっていないもののその様な思いが、彼をぐるりと包み込んで動けなくしていました。彼の内側と言えば、もう疲れたよ、そんな気持ちが彼の身体の隅々までを満たしていました。
 でも、その声の主は、彼を放っておいてはくれませんでした。
「羽磋殿、羽磋殿! しっかりしてください、羽磋殿っ!」
 再び聞こえた声は先ほどのようなあやふやなものではなく、もっとはっきりと羽磋の耳に届きました。それは男性の声で、とても大きな声でした。また、何かを非常に心配しているような緊迫した叫び声でした。
「ああ、この声・・・・・・。そう言えば、さっきの声もこの声だったような・・・・・・。どこかで聞いたことがあったような・・・・・・」
 羽磋の心がぷるんと震えました。その小さな震えは、彼を包み込んでいる形のない思いに働きかけて、その縛りをわずかに緩めました。
 さらに、どこからか加えられる力によって、羽磋の身体は激しく揺さぶられていました。身体・・・・・・、そう、身体です。羽磋は、自分に身体があることを思い出しました。
 羽磋は身体に力を込めました。丸めていた背筋を伸ばし、両手を広げました。すると、先ほどまで彼の身体をきつく包んでいた「眠っていたい、誰にも会いたくない」というような思いが、ぷつんぷつんと千切れて、無意識の水の中へと散らばっていきました。
 軽くなった身体は、羽磋の心の内側にも刺激を与えました。
「そうだ、そうだよ。俺は眠ってはいられないんだ。行かなくちゃいけないんだ」
 ゴボォ、ゴボボォ・・・・・・。
 羽磋の口から灰色の泡が吐き出され、幾つもの筋となって無意識の水の底に沈んでいきました。それは、再び活動を始めた羽磋の心が身体の内側から追い出した、「疲れた」、「もう嫌だ」という、鉛のように重い気持ちの数々でした。
「羽磋殿、羽磋殿おっ!」
 羽磋を呼ぶ声は、その灰色の泡が沈んでいった底の方ではなく、うっすらとした明りが見える上の方から聞こえてきていました。羽磋は、沈んでいく自分の暗い気持ちの方を一瞥すると、気持ちを切り替えるように勢いよく上に顔の向きを変え、その明りの方へと昇っていきました。


 そこは、不思議な空間でした。その空間では、ねっとりとした濃密な闇が、霧の中で光る月の光のような淡い青い光によって、壁の際や天井のすぐ下にまで押しやられていました。
 砂岩の壁に囲まれたその空間は、少なくとも数百頭の羊を囲っておけるほどの広さがありました。天井も砂岩でできているようでしたが、一部にとても高くなっているところがあるかと思えば、他の所ではとても低いところまで飛び出していたりと、複雑な形をしていました。
 そして、空間の下部は、少しの地面と多くの水面で占められていました。地面はやはり砂岩でできていました。水面の下にどこまでの深さがあるのかはわかりませんが、それがとてもたくさんの水を蓄えているのは、その広さから明らかでした。暗闇に隠された壁際の一部から川が流れ込んできているようで、その水面には常に波紋が一定方向へ走っていました。
 この川は、祁連山脈を源とするあの川でした。祁連山脈から湧き出す水を集めながら東から西に主に地中を流れ、ヤルダンの手前で地表に顔を出して交易路が刻まれた崖のすぐ下を走り、ヤルダンを支える台地の中へとまた流れ込んでいったあの川です。そう、交易路から落下した羽磋や王柔たちを下流へ押し流したあの川です。
 つまり、この上下左右を砂岩で囲まれた空間は、ヤルダンの地下に形成されている大きな空洞なのでした。
 交易路の崖下の狭い個所を水しぶきを立てながら激しく下り、岩壁にぽっかりと空いた大きな穴の中に流れ込んだ後には滝の様に大きく落下をした川の流れは、ここではずいぶんと大人しくなっていました。とりたてて大きな音を立てるでもなく静かに空洞の中の池を満たし、また何処かへと流れ出していました。
 いま、この空洞の中の空気を震わしているのは、別の音でした。
 それは、池の脇でしゃがみ込んでいる長身の男が、地面に置かれている何かに向って叫ぶ声でした。
「羽磋殿、羽磋殿っ! 目を開けてください、羽磋殿っ」

しおりを挟む
感想 43

あなたにおすすめの小説

断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜

深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。 処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。 なぜなら彼女は―― 前世で“トップインフルエンサー”だったから。 処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。 空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。 タイトルは―― 『断罪なう』。 王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。 すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、 国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。 そして宣言される、前代未聞のルール。 支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。 処刑台は舞台へ。 断罪はエンタメへ。 悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。 これは、 処刑されるはずだった悪役令嬢が、 “ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。 支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、 それとも――自由か。

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します

namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。 マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。 その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。 「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。 しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。 「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」 公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。 前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。 これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。

【完結】番としか子供が産まれない世界で

さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。 何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。 そんなニーナが番に出会うまで 4話完結 出会えたところで話は終わってます。

【完結】領主の妻になりました

青波鳩子
恋愛
「私が君を愛することは無い」 司祭しかいない小さな教会で、夫になったばかりのクライブにフォスティーヌはそう告げられた。 =============================================== オルティス王の側室を母に持つ第三王子クライブと、バーネット侯爵家フォスティーヌは婚約していた。 挙式を半年後に控えたある日、王宮にて事件が勃発した。 クライブの異母兄である王太子ジェイラスが、国王陛下とクライブの実母である側室を暗殺。 新たに王の座に就いたジェイラスは、異母弟である第二王子マーヴィンを公金横領の疑いで捕縛、第三王子クライブにオールブライト辺境領を治める沙汰を下した。 マーヴィンの婚約者だったブリジットは共犯の疑いがあったが確たる証拠が見つからない。 ブリジットが王都にいてはマーヴィンの子飼いと接触、画策の恐れから、ジェイラスはクライブにオールブライト領でブリジットの隔離監視を命じる。 捜査中に大怪我を負い、生涯歩けなくなったブリジットをクライブは密かに想っていた。 長兄からの「ブリジットの隔離監視」を都合よく解釈したクライブは、オールブライト辺境伯の館のうち豪華な別邸でブリジットを囲った。 新王である長兄の命令に逆らえずフォスティーヌと結婚したクライブは、本邸にフォスティーヌを置き、自分はブリジットと別邸で暮らした。 フォスティーヌに「別邸には近づくことを許可しない」と告げて。 フォスティーヌは「お飾りの領主の妻」としてオールブライトで生きていく。 ブリジットの大きな嘘をクライブが知り、そこからクライブとフォスティーヌの関係性が変わり始める。 ======================================== *荒唐無稽の世界観の中、ふんわりと書いていますのでふんわりとお読みください *約10万字で最終話を含めて全29話です *他のサイトでも公開します *10月16日より、1日2話ずつ、7時と19時にアップします *誤字、脱字、衍字、誤用、素早く脳内変換してお読みいただけるとありがたいです

帰って来た勇者、現代の世界を引っ掻きまわす

黄昏人
ファンタジー
ハヤトは15歳、中学3年生の時に異世界に召喚され、7年の苦労の後、22歳にて魔族と魔王を滅ぼして日本に帰還した。帰還の際には、莫大な財宝を持たされ、さらに身につけた魔法を始めとする能力も保持できたが、マナの濃度の低い地球における能力は限定的なものであった。しかし、それでも圧倒的な体力と戦闘能力、限定的とは言え魔法能力は現代日本を、いや世界を大きく動かすのであった。 4年前に書いたものをリライトして載せてみます。

「最高の縁談なのでしょう?なら、かわってあげたら喜んでくれますよね!」

みっちぇる。
恋愛
侯爵令嬢のリコリスは20歳。立派な嫁きおくれである。 というのも、義母がなかなかデビューさせてくれないのだ。 なにか意図を感じつつも、周りは義母の味方ばかり。 そん中、急にデビュタントの許可と婚約を告げられる。 何か裏がある―― 相手の家がどういうものかを知り、何とかしようとするリコリス。 でも、非力なリコリスには何も手段がない。 しかし、そんな彼女にも救いの手が……?

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

処理中です...