夏の扉が開かない

穂祥 舞

文字の大きさ
7 / 58
1 7月上旬

蚊が飛ぶ教室にて②

しおりを挟む
 その時、右耳の傍でぷうん、と嫌な音がした。泰生は首を右に振り向け、後頭部の辺りから黒い小さなものがふわっと飛んだのを確認した。

「蚊がおるわ、そっち行ったで……あっ」

 泰生が岡本のほうを向くと、蚊はサンドウィッチを持つ岡本の手の甲に止まろうとしていた。反射的に泰生は腕を伸ばし、岡本の右手を叩く。ぺちっと軽い音がしたのと、ひえっと岡本が叫んだのがほぼ同時だった。

「怖いって!」
「ごめん、思いきりしばいた」

 岡本は辛うじてサンドウィッチを取り落とさず堪えていた。泰生の攻撃を逃れた細い足を持つ虫は、今度はこちらに向かって飛んでくる。泰生は蚊を視界から外さないよう、その姿に集中した。

「ちょ、真剣過ぎひんか」

 岡本が言い終わらないうちに、泰生は飛来してきたものを両手で思いきり挟んだ。ぱん! と高い音が鳴り、教室の中にいた他の学生が一斉にこちらを見た。
 泰生が合わせた手を開くと、蚊は右手の手根部でぺったんこになっていた。誰の血も吸っていない。よっしゃ、と満足感から思わず呟くと、岡本がぷっと笑った。

「集中力と反応すごいな、何かスポーツしてたん?」

 泰生は購買部でもらった紙ナプキンで、蚊の死骸を拭き取った。こんなことで持ち上げられると、照れくさいというか、ほとんど居たたまれない。

「ううん、俺は運動音痴……最近まで楽器やってたけど」
「楽器?」

 岡本はサンドウィッチを頬張りながら、明らかに興味を示してきた。うっかり口にしてしまったものの、楽器の話はあまりしたくないので、泰生はうどんを啜ってごまかそうとした。自分が麺をずるずる言わせる音だけがして、微妙に気まずい。

「……何?」
「え? 何やってたんかなぁと思ってる……」

 岡本の探るような視線に、まあ当たり前か、とも思う。楽器に触っている人間の割合なんて、この大学の中で、いや、日本社会全体を見てもそんなに多くはない。音楽に興味が無くても、楽器をやっていると相手が口にすれば、何をやっているんですかと社交辞令的に問うだろう。

「あー、吹部でコントラバス弾いてた」

 泰生がそう答えて、空になったプラスチックの容器を机に置いた時、岡本がにたりと笑ったような気がした。ちらっと目だけで彼を窺うと、ペットボトルの紅茶をぐびぐび飲んで、何となくニヤついている。
 キモいなと泰生が思った時、岡本は口を開いた。

「キャンパス変わったから吹部辞めたっちゅうこと?」
「……そうや、移動すんのしんどかったし」

 泰生が警戒しつつ言うと、ははーん、と岡本はよくわからない声を上げてから、晴れやかな笑顔になって泰生を見た。

「あのな、俺チェロ弾きなんやけど」
「は?」
「オケで弾かへん? 練習すぐそこでやってんで」

 岡本の言葉に泰生は固まった。その時感じたものは、絶望に近かった。
 楽器やってる人間、近いとこにおった。しかも俺と同じく、デカい弦楽器。……これ、詰むやつか。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】指先が触れる距離

山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。 必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。 「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。 手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。 近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。

こじらせ女子の恋愛事情

あさの紅茶
恋愛
過去の恋愛の失敗を未だに引きずるこじらせアラサー女子の私、仁科真知(26) そんな私のことをずっと好きだったと言う同期の宗田優くん(26) いやいや、宗田くんには私なんかより、若くて可愛い可憐ちゃん(女子力高め)の方がお似合いだよ。 なんて自らまたこじらせる残念な私。 「俺はずっと好きだけど?」 「仁科の返事を待ってるんだよね」 宗田くんのまっすぐな瞳に耐えきれなくて逃げ出してしまった。 これ以上こじらせたくないから、神様どうか私に勇気をください。 ******************* この作品は、他のサイトにも掲載しています。

処理中です...