夏の扉が開かない

穂祥 舞

文字の大きさ
41 / 58
3 7月下旬

朝凪の如き夜明け

しおりを挟む
 エアコンは止まっているようだった。部屋の中が十分冷えているからだろう。泰生はそっと首を上げて、カーテンの外がほんのわずかに明るくなってきたのを確かめる。
 毎日朝から晩まで暑いのに、夜明け前に少し涼しくなるなんて、信じられなかった。足元に追いやられたタオルケットを足の指で掴んで持ち上げ、腕を伸ばして胸元まで引き上げた。
 今日から実質、夏休みだ。レポートの提出もテストも、無事に終わった(たぶん)。塚﨑ゼミの夏休みの宿題は自由研究で、実地研修もしくは3冊以上の本を読み、後期授業の初めの日にレポートを提出することになっている。
 塚﨑の許でゼミ生は主に東アジア史を学んでいるので、実地研修に行く者はまずいない。泰生も、加太には行くがモンゴルに行く予定は無かった。まあお盆までに一度、大学の図書館で本を漁らなくてはいけないだろう。
 とても静かだった。昨日と一昨日、想定外のことにばたばたした反動のように思えた。
 泰生は管弦楽団の入部届を、7月29日に書くように三村から言われた。何でもこの日は、この一年の中で最高レベルの開運日なのだという。斉藤が弾いているコントラバスのクララ(かつて女子部員のためにこの小ぶりな楽器の購入を訴えた卒業生が名づけたらしく、その名が脈々と伝えられているそうだ)も、メンテナンスのために、29日に楽器屋に引き渡すと決まっていた。やっぱりこのパートおかしいわと泰生は思ったが、いわゆるお日柄が良い日に入部するのは悪くないと思うことにした。
 泰生が今までできなかったのは、大きな音を出すことではなく、良い響きをどの弦でも均一に出すということだった。ボーイングも確かに弱かったのだが、もしかしたら、松脂を使いこなせていなかったせいもあるかもしれないと、三村と斉藤から指摘を受けた。三村から借りた上等の松脂は、泰生が弾くことになったコントラバスと相性が良いのか、30分弓を動かすうちに、自分の耳で聴いていてもわかるくらい音が変わってきた。出費が痛いけれど、あの松脂がいいかもしれない。まあ、他に金を使う場所も無いのだから、いいだろう。
 喫茶淡竹は、予想外にてきぱき動いた泰生を、夏休みの臨時アルバイトとして雇うことにした。パートタイマーの木村さんの体調がいつ戻るかわからないということと、もうひとりのアルバイトである岡本が、来週からお盆明けまで、和歌山に帰省するからだった。
 淡竹の店長のもりは、もちろん大学を卒業するまで続けてくれてもいいと言ってくれている。後期になれば、3回生である泰生も岡本も就職活動の準備が始まり、管弦楽団の定期演奏会が近づくと練習の日数が増えてくるので、淡竹の仕事を2人で分担すればいいと森は提案した。実際はそんなに上手く運ばないだろうが、クラブに入ればどっちみち、拘束時間や日数の多いアルバイトはできないので、淡竹でのんびりやってみようと考えている。
 泰生は目を閉じたまま、深呼吸する。夏の朝のこの涼やかな静けさは、これから自分の生活が変わる、嵐の前のものなのだろうか。
 たったの3週間で、いろいろなことが起こった。本当なら、キャンパスが変わった春に経験しなくてはいけなかったことが、後ろ倒しでやってきただけかもしれない。それでも、嫌な感じはしなかった。新しいアルバイトも管弦楽団も、期待感のほうが大きい。ついでに、8年ぶりの家族旅行も。
 カーテンから洩れてくる光が少し強くなり、雀の鳴き声が聞こえた。セミが鳴き始めるまで、もう少し眠ろうと思う。今日は10時から、淡竹で仕事だ。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】指先が触れる距離

山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。 必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。 「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。 手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。 近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。

こじらせ女子の恋愛事情

あさの紅茶
恋愛
過去の恋愛の失敗を未だに引きずるこじらせアラサー女子の私、仁科真知(26) そんな私のことをずっと好きだったと言う同期の宗田優くん(26) いやいや、宗田くんには私なんかより、若くて可愛い可憐ちゃん(女子力高め)の方がお似合いだよ。 なんて自らまたこじらせる残念な私。 「俺はずっと好きだけど?」 「仁科の返事を待ってるんだよね」 宗田くんのまっすぐな瞳に耐えきれなくて逃げ出してしまった。 これ以上こじらせたくないから、神様どうか私に勇気をください。 ******************* この作品は、他のサイトにも掲載しています。

処理中です...