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過去の亡霊
8月31日①
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「奏人さん、ご飯」
寝室のドアをそっと開けた暁斗が、ベッドに近づいてきて優しく言った。
うつらうつらしていた奏人は、ゆっくりと上半身を起こす。もう熱は下がったので、暁斗が自分にこんなに気を遣う必要は無いと思うのだが、世話を焼いてもらうのはちょっと嬉しい。だから、体調のすぐれない人の立ち位置を保持しておくことにする。
激しい緊張を強いられた1時間20分は、奏人の身体と精神を消耗させた。大学の授業が無く休みだった翌日の金曜日、緩く発熱したために、昼前に慌てて内科に走った。感染症ではないとわかったので、暁斗に面倒を見させながら、ゆっくりと週末を送っているというところだ。
当然のことながら、暁斗はそんな奏人を心配していた。早見弁護士事務所で、奏人だけが対面室から出たタイミングで、暁斗も隣の部屋から出てきた。受付の男性は2人を応接ソファに連れて行き、そこでアイスコーヒーを出してくれたが、前回は美味しかったのにその時はコーヒーの味があまりしなかった。それでその時点で、ひどく疲れているという自覚はあった。
暁斗は顔色の良くない奏人を、早見にことわって先に連れて帰ることにした。神崎綾乃は対面室に残された2人の会話を、しばらく隣室のモニターで見ていたが、奏人がその場を去ろうとしたときに部屋から出てきた。
「直ぐに帰りなさい……桂山さんとも話してたんだけれど、あの人は今現在株式会社エリカワの従業員だから、会社を通じて産業医と心療内科医にあたるといいと思うわ」
「……やっぱり診察を受けたほうがいい感じ?」
奏人が訊くと、綾乃は静かに頷いた。
「本人次第だけれど、もう少し楽になれるんじゃないかしら」
綾乃は株式会社エリカワの「相談室」から紹介された社員のカウンセリングなどを、自分のクリニックで受け付けている。須々木の希望にもよるが、綾乃が彼を診察する可能性も高そうだった。
奏人は、井川と話したいから彼を待つと言う綾乃と早見たちに礼を言い、暁斗と共に六本木のビルを後にした。外の空気はむっと暑く、腕にまとわりつく。
奏人の口数が少ないのを見て、暁斗はすぐに帰宅した。彼がよく気がつく人でよかったと、奏人は心からほっとしたのだった。
「食べれそう?」
暁斗はいつも以上に優しい。うん、と短く答えて、奏人はベッドから降りた。
「もうたぶん大丈夫なんだけどね、明日も出勤する」
「無理するなよ、大仕事が終わったあとなんだから」
大仕事。確かにそうだった。何も悪さはしないようになっていたけれど、高校時代から奏人の背中にずっと貼りついていたものが、すうっと剥がれた感じは確かにあった。須々木に言いたいことをある程度言ったとして、これまでの生活が変わるわけでもないのに、このすっきりした感じが思ったより大きいので、奏人は自分でも驚いている。
「ごめんね、この件でほんといろいろ気を遣わせたよね」
キッチンに向かった暁斗の背中に声をかけると、彼は半分振り返る。
「奏人さんに特別気は遣わなかったけど、木曜日はやっぱり緊張したかな」
「あー、ほんとにごめん」
暁斗はにっと笑った。その笑顔が愛おしくて、咄嗟に広い背中に抱きついてしまう。
肋骨を囲む奏人の右腕を、暁斗の大きな手が優しく撫でた。
「俺はあの人がサイコパスで危険な人物だという評価を変える気は無いんだけど」
背中の筋肉を通して響く声に、うん、と奏人は同意する。
「神崎さんが一回だけ……須々木氏が、ちょっと言葉忘れたけど、親がそう言ったから自分もそうしてきてどうこうって言った時、可哀想にって小さく呟いたんだ……ちょっとやっぱり、周囲の人間に恵まれなかったのかもしれないと思った」
奏人はその場面をすぐに思い出すことができた。成果を上げた人間には、自分がどれだけ悔しく腹立たしくても、笑顔でおめでとうと言わなくてはいけない。本当に須々木がそう思って生き続けてきたとしたら、ほとんど悲劇だと思う。
「須々木先輩、お父さんも本人も、きっとプライドが高いんだろうね……だからプライドを守るためにもそういう発想に傾いちゃうし、人は人、自分は自分と思えなくなるんだろうな」
医師の世界も、芸術の世界とは違った意味で争いや妬み嫉みがあると、奏人はかつての顧客から聞いたことがあった。冷静に考えたら馬鹿馬鹿しいんだけどさ、とその外科医は前置きし、男の子のかなとに金出して、ラブホで遊んでるって病院の奴らにバレたら、たぶん終わりだと笑った。そんな彼は今、日本の病院のしがらみを捨てて、海外の医療支援に携わっている。
暁斗は軽く息をついた。背中がふっと緩む。
「俺の少し上の年齢の営業に、福岡支社に異動になったら、左遷されたって勝手に決めつけてた人いたなぁ……送別会するだろ、酔っぱらってきたらみんな俺を馬鹿にしてるくせにって喚いてた」
アメリカに2回留学した奏人は、こういうところにも、日本社会の独特の不寛容性を感じてしまう。出る杭は打たれ、転落した者は更に足蹴にされるため、みんないつも何かに怯えている。
寝室のドアをそっと開けた暁斗が、ベッドに近づいてきて優しく言った。
うつらうつらしていた奏人は、ゆっくりと上半身を起こす。もう熱は下がったので、暁斗が自分にこんなに気を遣う必要は無いと思うのだが、世話を焼いてもらうのはちょっと嬉しい。だから、体調のすぐれない人の立ち位置を保持しておくことにする。
激しい緊張を強いられた1時間20分は、奏人の身体と精神を消耗させた。大学の授業が無く休みだった翌日の金曜日、緩く発熱したために、昼前に慌てて内科に走った。感染症ではないとわかったので、暁斗に面倒を見させながら、ゆっくりと週末を送っているというところだ。
当然のことながら、暁斗はそんな奏人を心配していた。早見弁護士事務所で、奏人だけが対面室から出たタイミングで、暁斗も隣の部屋から出てきた。受付の男性は2人を応接ソファに連れて行き、そこでアイスコーヒーを出してくれたが、前回は美味しかったのにその時はコーヒーの味があまりしなかった。それでその時点で、ひどく疲れているという自覚はあった。
暁斗は顔色の良くない奏人を、早見にことわって先に連れて帰ることにした。神崎綾乃は対面室に残された2人の会話を、しばらく隣室のモニターで見ていたが、奏人がその場を去ろうとしたときに部屋から出てきた。
「直ぐに帰りなさい……桂山さんとも話してたんだけれど、あの人は今現在株式会社エリカワの従業員だから、会社を通じて産業医と心療内科医にあたるといいと思うわ」
「……やっぱり診察を受けたほうがいい感じ?」
奏人が訊くと、綾乃は静かに頷いた。
「本人次第だけれど、もう少し楽になれるんじゃないかしら」
綾乃は株式会社エリカワの「相談室」から紹介された社員のカウンセリングなどを、自分のクリニックで受け付けている。須々木の希望にもよるが、綾乃が彼を診察する可能性も高そうだった。
奏人は、井川と話したいから彼を待つと言う綾乃と早見たちに礼を言い、暁斗と共に六本木のビルを後にした。外の空気はむっと暑く、腕にまとわりつく。
奏人の口数が少ないのを見て、暁斗はすぐに帰宅した。彼がよく気がつく人でよかったと、奏人は心からほっとしたのだった。
「食べれそう?」
暁斗はいつも以上に優しい。うん、と短く答えて、奏人はベッドから降りた。
「もうたぶん大丈夫なんだけどね、明日も出勤する」
「無理するなよ、大仕事が終わったあとなんだから」
大仕事。確かにそうだった。何も悪さはしないようになっていたけれど、高校時代から奏人の背中にずっと貼りついていたものが、すうっと剥がれた感じは確かにあった。須々木に言いたいことをある程度言ったとして、これまでの生活が変わるわけでもないのに、このすっきりした感じが思ったより大きいので、奏人は自分でも驚いている。
「ごめんね、この件でほんといろいろ気を遣わせたよね」
キッチンに向かった暁斗の背中に声をかけると、彼は半分振り返る。
「奏人さんに特別気は遣わなかったけど、木曜日はやっぱり緊張したかな」
「あー、ほんとにごめん」
暁斗はにっと笑った。その笑顔が愛おしくて、咄嗟に広い背中に抱きついてしまう。
肋骨を囲む奏人の右腕を、暁斗の大きな手が優しく撫でた。
「俺はあの人がサイコパスで危険な人物だという評価を変える気は無いんだけど」
背中の筋肉を通して響く声に、うん、と奏人は同意する。
「神崎さんが一回だけ……須々木氏が、ちょっと言葉忘れたけど、親がそう言ったから自分もそうしてきてどうこうって言った時、可哀想にって小さく呟いたんだ……ちょっとやっぱり、周囲の人間に恵まれなかったのかもしれないと思った」
奏人はその場面をすぐに思い出すことができた。成果を上げた人間には、自分がどれだけ悔しく腹立たしくても、笑顔でおめでとうと言わなくてはいけない。本当に須々木がそう思って生き続けてきたとしたら、ほとんど悲劇だと思う。
「須々木先輩、お父さんも本人も、きっとプライドが高いんだろうね……だからプライドを守るためにもそういう発想に傾いちゃうし、人は人、自分は自分と思えなくなるんだろうな」
医師の世界も、芸術の世界とは違った意味で争いや妬み嫉みがあると、奏人はかつての顧客から聞いたことがあった。冷静に考えたら馬鹿馬鹿しいんだけどさ、とその外科医は前置きし、男の子のかなとに金出して、ラブホで遊んでるって病院の奴らにバレたら、たぶん終わりだと笑った。そんな彼は今、日本の病院のしがらみを捨てて、海外の医療支援に携わっている。
暁斗は軽く息をついた。背中がふっと緩む。
「俺の少し上の年齢の営業に、福岡支社に異動になったら、左遷されたって勝手に決めつけてた人いたなぁ……送別会するだろ、酔っぱらってきたらみんな俺を馬鹿にしてるくせにって喚いてた」
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