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その気持ちは発熱のせい?
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月曜日に取引先に顔を出した時、フロアに人が少なかったので、有給休暇取得を奨励中なのかと思った。俺がそう尋ねると、マスクをした担当者は、笑顔で恐ろしいことを言った。
「先週からこの課、インフルパンデミックなんです……今日岩井さんに来てもらうの、お断りするほうがよかったかなぁ」
そして金曜日の朝、俺は発熱した。病名も確定していないのに、家族は俺を、死に至る病を撒き散らす者のように扱った。
「わーっ絶対インフルエンザだよ! 私明日からテストなんだから近寄らないで!」
「あらまあ……ご飯は部屋の前に持ってくから、中で食べてよ」
「台所に入るな、とりあえず池田医院に電話しろ、発熱外来やってるから」
妹と母と父から順番に言われて、俺は部屋に戻り、会社に欠勤の連絡をした。そして、家族で行きつけにしている池田医院に連絡を取った。13時に来てくださいと言われた。
家族全員が仕事に出たのを確かめてから、洗面所で身繕いをして、俺は徒歩5分の場所にある池田医院に向かった。この診療所は、午前中の診察が一段落着く頃に、完全予約制で熱のある患者を診てくれるのだ。
ここに来るのは高校生の時以来だから、十数年ぶりだ。しかし頭がくらくらして、ノスタルジーに浸る余裕は無い。
磨りガラスの嵌った古びた扉を開けると、消毒液の匂いがした。マスクをしてぐったりしている患者が、待合室に距離を取って2人座っていた。俺もスリッパに履き替え、その仲間に加わる。
しばらくすると、看護師が俺を呼んだ。弱々しい返事しかできなかった。軽くふらつきながら診察室に入ると、そこに座っていたのは、俺のよく知るおじさん先生ではなかった。
顔の下半分はマスクに隠れているが、銀縁の眼鏡の奥の目は涼やかで、眉もきりりとしていてなかなかのイケメンだ。一体何者?
若い医師の名札は「池田」だった。彼は電子カルテを見ながら俺に確認する。
「岩井さん……今朝38度の発熱、鼻水が少し出て、他に症状はありますか?」
「あー……ちょっと喉が痛いかもです」
失礼、と言いながら医師は手を伸ばしてきて、首のリンパ節を少し冷たい指先でぐりぐりと撫でた。痛いのだが、俺はそこ辺りが緩く性感帯なので、場違いにも背中がむずむずしてしまう。
すぐに感染症の簡易検査がおこなわれた。医師が長い指をゴム手袋に入れる様子さえ、何故かエロいというのか、妙に絵になる。
看護師に頭を押さえられ、医師は長い綿棒を俺の右の鼻の奥に挿し入れた。刺すような痛みにびくっとしてしまったが、微妙に痛気持ちいいような気もした。
15分ほど結果待ちをして、再び診察室に入ると、医師はあっさりと宣告した。
「インフルエンザA型ですね、お薬出しますからしっかり飲んで、身体を休めましょう」
すっぱり言いながらも、優しい話し方だ。そうだ、休もう休もう……と納得しかけたが、ふと来週に大事な会議があることを思い出す。
「あっ、あの、熱が下がってたら来週火曜って出勤してもいいですか?」
咄嗟に口にした俺に対して、医師は空気を一変させた。優しく爽やかだったのに、鋭く威圧的な視線の一撃を、俺に見舞ったのだ。
「私の口からは絶対休めとは言えないんですよ、でも保菌期間が1週間程度って話は聞いたことありますよね?」
眼鏡の奥の目がぎらりと光ったような気がした。有無を言わせない口調に、思わず背筋を伸ばして、はい、としか答えられない。
医師は続ける。
「岩井さんが自覚として元気になっていても、周りの人に大迷惑をかける可能性が高いということは、覚えておいてください」
「あっ、はい、1週間休みます……」
俺がすごすごと白旗を上げると、医師はマスクの上の目を優しく笑いの形にした。
「そうなさってください、万が一急変したらためらわず救急車を呼んでくださいね、お大事に」
その後薬を処方され、ゆっくりと歩いて帰った。一番に仕事から戻った母は、それなりに心配してくれていると見えて、俺の好きな焼きプリンを部屋に持ってきてくれた。
母に訊いてみる。
「なぁ、池田医院に俺のちょっと上くらいの先生いたんだけど」
母は扉越しに答えた。
「ああ、若先生初めてだった? 長男さんよ、大先生お年だから診察の日数減らしてて、もうすぐ若先生が継ぐんじゃないかな」
やはり息子か。おじさん先生と、あまり似てなかったけれど。
「来週出勤していいかって訊いたら、微妙に叱られた」
「そりゃあんたが悪いわ、ブラック企業で働く社畜みたいなこと言って」
母の笑い声が遠ざかる。
俺は若先生に叱られたのを全く不愉快には思っていなかった。ちょっと色気があって優しいのに、豹変したのが印象的だったのだ。
あ、痺れたって感じだな。だって社会人になってから、誰もはっきりと叱ってくれないから。うん、痺れた。
何考えてんだと自分に突っ込みながら、俺は盆の上に置かれたプリンのシール蓋を開けた。また池田医院に用事ができないかななどとぼんやり思うのは、発熱のせいなのか、よくわからなかった。
*初出 2026.1.10 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「インフルエンザ」「欠勤」
インフルエンザ、これを書いたときはA型が流行っていたのですが、今はB型が多いようです。どうぞ皆さま、ご自愛ください……。
「先週からこの課、インフルパンデミックなんです……今日岩井さんに来てもらうの、お断りするほうがよかったかなぁ」
そして金曜日の朝、俺は発熱した。病名も確定していないのに、家族は俺を、死に至る病を撒き散らす者のように扱った。
「わーっ絶対インフルエンザだよ! 私明日からテストなんだから近寄らないで!」
「あらまあ……ご飯は部屋の前に持ってくから、中で食べてよ」
「台所に入るな、とりあえず池田医院に電話しろ、発熱外来やってるから」
妹と母と父から順番に言われて、俺は部屋に戻り、会社に欠勤の連絡をした。そして、家族で行きつけにしている池田医院に連絡を取った。13時に来てくださいと言われた。
家族全員が仕事に出たのを確かめてから、洗面所で身繕いをして、俺は徒歩5分の場所にある池田医院に向かった。この診療所は、午前中の診察が一段落着く頃に、完全予約制で熱のある患者を診てくれるのだ。
ここに来るのは高校生の時以来だから、十数年ぶりだ。しかし頭がくらくらして、ノスタルジーに浸る余裕は無い。
磨りガラスの嵌った古びた扉を開けると、消毒液の匂いがした。マスクをしてぐったりしている患者が、待合室に距離を取って2人座っていた。俺もスリッパに履き替え、その仲間に加わる。
しばらくすると、看護師が俺を呼んだ。弱々しい返事しかできなかった。軽くふらつきながら診察室に入ると、そこに座っていたのは、俺のよく知るおじさん先生ではなかった。
顔の下半分はマスクに隠れているが、銀縁の眼鏡の奥の目は涼やかで、眉もきりりとしていてなかなかのイケメンだ。一体何者?
若い医師の名札は「池田」だった。彼は電子カルテを見ながら俺に確認する。
「岩井さん……今朝38度の発熱、鼻水が少し出て、他に症状はありますか?」
「あー……ちょっと喉が痛いかもです」
失礼、と言いながら医師は手を伸ばしてきて、首のリンパ節を少し冷たい指先でぐりぐりと撫でた。痛いのだが、俺はそこ辺りが緩く性感帯なので、場違いにも背中がむずむずしてしまう。
すぐに感染症の簡易検査がおこなわれた。医師が長い指をゴム手袋に入れる様子さえ、何故かエロいというのか、妙に絵になる。
看護師に頭を押さえられ、医師は長い綿棒を俺の右の鼻の奥に挿し入れた。刺すような痛みにびくっとしてしまったが、微妙に痛気持ちいいような気もした。
15分ほど結果待ちをして、再び診察室に入ると、医師はあっさりと宣告した。
「インフルエンザA型ですね、お薬出しますからしっかり飲んで、身体を休めましょう」
すっぱり言いながらも、優しい話し方だ。そうだ、休もう休もう……と納得しかけたが、ふと来週に大事な会議があることを思い出す。
「あっ、あの、熱が下がってたら来週火曜って出勤してもいいですか?」
咄嗟に口にした俺に対して、医師は空気を一変させた。優しく爽やかだったのに、鋭く威圧的な視線の一撃を、俺に見舞ったのだ。
「私の口からは絶対休めとは言えないんですよ、でも保菌期間が1週間程度って話は聞いたことありますよね?」
眼鏡の奥の目がぎらりと光ったような気がした。有無を言わせない口調に、思わず背筋を伸ばして、はい、としか答えられない。
医師は続ける。
「岩井さんが自覚として元気になっていても、周りの人に大迷惑をかける可能性が高いということは、覚えておいてください」
「あっ、はい、1週間休みます……」
俺がすごすごと白旗を上げると、医師はマスクの上の目を優しく笑いの形にした。
「そうなさってください、万が一急変したらためらわず救急車を呼んでくださいね、お大事に」
その後薬を処方され、ゆっくりと歩いて帰った。一番に仕事から戻った母は、それなりに心配してくれていると見えて、俺の好きな焼きプリンを部屋に持ってきてくれた。
母に訊いてみる。
「なぁ、池田医院に俺のちょっと上くらいの先生いたんだけど」
母は扉越しに答えた。
「ああ、若先生初めてだった? 長男さんよ、大先生お年だから診察の日数減らしてて、もうすぐ若先生が継ぐんじゃないかな」
やはり息子か。おじさん先生と、あまり似てなかったけれど。
「来週出勤していいかって訊いたら、微妙に叱られた」
「そりゃあんたが悪いわ、ブラック企業で働く社畜みたいなこと言って」
母の笑い声が遠ざかる。
俺は若先生に叱られたのを全く不愉快には思っていなかった。ちょっと色気があって優しいのに、豹変したのが印象的だったのだ。
あ、痺れたって感じだな。だって社会人になってから、誰もはっきりと叱ってくれないから。うん、痺れた。
何考えてんだと自分に突っ込みながら、俺は盆の上に置かれたプリンのシール蓋を開けた。また池田医院に用事ができないかななどとぼんやり思うのは、発熱のせいなのか、よくわからなかった。
*初出 2026.1.10 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「インフルエンザ」「欠勤」
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