たっくんは疑問形 〜あなたと私の長い長い恋のお話〜

第1章 幼馴染編

28、ここで泣いてもいい？

　5月も終わりに近付いた、ある日の夕方。
　1人で留守番をしていたら、仕事を終えた母がたっくんを連れて帰ってきた。

「あっ、たっくん！ 」

　たっくんは今日ここで一緒に宿題をしていて、 2時間ほど前に隣の部屋に帰ったばかりだ。

　また来てくれたのは嬉うれしいので大喜びで立ち上がったけど、普通じゃない様子に気付いて足を止めた。


　雨も降ってないのに、たっくんの髪がぐっしょり濡れている。
　よく見たら、髪だけじゃなく顔も。
　そして着ているTシャツの肩には黄色っぽい染しみもある。

ーーそれに……どうしてだろう、なんだかお酒の匂いがするような……。

　なんて言えばいいのか分からなくて立ち尽くしていたら、たっくんは母に連れられてお風呂場に行ってしまった。

　何があったのかは分からない。
　だけど、良くないことが起こっているのだということだけは分かる。

　酷《ひど》く嫌な胸騒ぎがして、心臓がグニュッと捻ねじれた気がした。


「小夏、今日はたっくん、うちに泊まらせるからね。お母さんはちょっとお隣に行ってくる」

　いつになく厳しい表情をした母を見送って、これはいよいよ大変なことになっているのだと確信した。

　さらに胸がザワつく。

　ふと、さっきたっくんが立っていた辺りを見ると、ダイニングテーブルの上に見慣れた絵本があるのに気付いた。


ーー 『雪の女王』だ……。

　それは母がクリスマスプレゼントでたっくんに贈った絵本。
　私たちはその絵もお話もとても気に入って、私が持っている『人魚姫』と交互に、何度も何度も読み返している。

ーー今日も一緒に読むつもりで持ってきたのかな。


　テーブルに近付き絵本を手に取ろうとしたけれど、表紙を見た途端、ギョッとした。

「嫌いやっ！ 」

　思わず引っ込めたその手を口に当て、もう一度恐おそる恐る、絵本の表紙を覗き込んでみる。

　薔薇ばらの花に囲まれた真ん中で、男の子と女の子が夢見るように同じ方向を見ている……
　その男の子の左目が黒く焼け焦こげて、真っ暗な穴になっている。 

　瞬間的に、 駐車場でタバコをくゆらす『涼ちゃん』の顔が思い浮かんだ。

　勇気を出して震ふるえながら手を伸ばしてみると、絵本の表紙がベタついて湿しめっている。

　表紙をめくってみると、紙が濡れて多少フニャッとはなっていたけれど、焼け焦げは中まで届いていなかった。
　ハードカバーなのが幸いして、被害は表紙だけで留とどまっているようだ。
 

「アイツだよ」

　不意に声がして顔を上げると、肩からタオルを掛けたたっくんが立っていた。

「本…… アイツにやられたんだ」

　たっくんはタオルで髪を拭きながら私の隣に来ると、焼け焦げた部分を人差し指で触りながら、

「アイツ……狂ってるよ」

　絞しぼり出すように低い声で言った。

　言いながら、指先についた黒い煤すすを親指で擦こすって、ジッと見つめる。

「小夏……ごめんな。今度この本をお前に貸すって言ってたのに……こんなんじゃ、もう…… 」

　たっくんは鼻からフッと息を吐いて、両手で目元をグッと押さえた。


「ごめん、俺……ここで泣いてもいい？ 」


「もう俺さ……自分の家じゃ泣けないんだよ」


　たっくんはそう言って、肩を震わせた。

　震えるたっくんを見ながら、何も出来ない自分が悔しくて、私も一緒に泣いた。