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第1章 幼馴染編
44、運命の日 / 本当に俺のこと好きなのな?
しおりを挟む一瞬何が起こっているのか分からなかった。
雪に覆われた真っ白い駐車場で、ぼんやりした灯りに照らされて、黒いセーターのアイツがユラリと立っている。
目の前をチラチラ横切る雪のせいで視界は悪いけれど、アイツの足元に何かがあるのに気付いて目を凝らした。
最初はそれが、 首根っこを掴まれた犬か何かに見えた。
ギョッとして、1歩だけ前に進んでもう一度じっくり見てみたら、それが他でもないたっくんだと分かり、一瞬で心臓が凍りついた。
ブルッと身震いしたのは、寒さのせいだけではない。
たっくんはしんしんと積もり続けている雪の上に膝を折り、アイツに髪を掴まれて、なすすべもなくダランとしている。
その姿はまるで、狩で仕留められて両耳を掴まれている野ウサギか、使い古されたボロ雑巾のようだ。
ーー なに……コレ……。
「たっくん! 」
ちゃんとした声になっていなかったかも知れない。
唇がわなわなと震えて、声帯がギュッと締められたようになっていたから。
それでもようやく絞り出したその叫び声を聞き取ったのか、右手でたっくんの髪を掴んでいる男が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
水色のパジャマ姿で青い絵本をギュッと抱きしめて、ぐしゃぐしゃの泣き顔で立ち尽くしている私に気付くと、アイツが心底嬉しそうに口角を吊り上げて笑った。
大粒の牡丹雪が降りしきる中、そこには生まれて初めて見る、本物の悪魔が立っていた。
「……っ、小夏っ! ……帰れ! 」
私に向かって必死に訴える、喉から振り絞るような悲痛な叫び声にたじろいだけれど、たっくんを置いて逃げるのだけは絶対に嫌だと思った。
ついさっき読んでいた『雪の女王』を思い出す。
このままじゃ、たっくんが悪魔に連れ去られてしまう。
私が止めなきゃ!
勇気を出して一歩前に進もうとした時、横の方から「今すぐ出てって! 今すぐどこかに行きなさいよ! 」という絶叫が聞こえた。
そのとき初めて、たっくんの家の玄関の前に穂華さんが立っていることに気付いた。
茶色いざっくりしたセーターにチェックの巻きスカート。
アイツに引っ張られたのか、セーターから片方の肩が出て、まとめた髪も乱れて顔に掛かっている。
「アンタなんかもういらない! 出てけ! 出てけ~っ! 」
両手を固く握り締め、体を折って何度も叫んでいる。
「クソがっ! 」
駐車場に響き渡る穂華さんの叫び声に目を吊り上げ、アイツがたっくんから手を離した。
「お前が家に来いって俺を引っ張り込んだんだろうがっ! 今さらいい母親ぶってんじゃねえよ! 」
今度は穂華さん目掛けて速足でズンズン近付いていく。
アイツの左足にしがみついたたっくんを足蹴にして、その手をダンッ! と踏みつける。
「あんた、拓巳に何すんのよ! やめなさいよっ! 」
それは、たまたま玄関前に出されて並んでいたビールの空き瓶。
穂華さんは周囲をキョロキョロ見回して、たまたま置かれていたその茶色い空き瓶を見つけると、そのうちの1本を手に取って、右手で振り上げながらアイツに向かって行った。
「ア゛ーーーーーーッ! 」
声にならない叫び声を上げながら、穂華さんが走り出す。
こんな時なのに、その足に履いているピンクのスリッパを見て、『あっ、 穂華さんのお気に入りのモコモコしたやつだ』と思った。
そして私も、そのスリッパを追い掛けるように走り出していた。
それは、全てがスローモーションみたいだった。
チラチラと雪の粒に遮られる視界の中、アイツが穂華さんの手を捻り上げてビール瓶を奪う。
奪い取ったビール瓶は、そのままアイツの手によって地面に叩きつけられると、ガチャン! という音と共に、鋭利な刃物になった。
飛び散った破片が、地面に横たわっているたっくんの額をスッと掠めていく。
パックリと切れたそこから、たっくんの顔を2分割するようにスーッと赤い線が伸びていき、雫になって、ポタリと落ちた。
ーー たっくん!
そこからどう動いたのかは、よく覚えていない。
「あ゛ーーーーーーっ! 」
私はとにかく無我夢中でアイツの腕に飛びつき、力任せに噛みついていた。
「うわっ! なんだよ、コイツ! 」
アイツがビール瓶を振り回し、その切っ先が私の目の前を通過した途端、左のこめかみが焼けるように熱くなる。
そして次の瞬間、視界に映ったのは、鮮やかな赤。
血が出ている……と気付いたのは、雪の上にポツポツと赤い水玉模様が出来た時。
「小夏! 」
バタンと車のドアを閉める音と共に、母の叫び声が聞こえてきた。
遠くの方でパトカーと救急車のサイレンの音がして、徐々に近付いてくる。
アイツがビール瓶を放り投げて、どこかに走って行った。
でも今は、アイツのことなんてどうでもいい。
「たっくん…… 」
私は息も絶え絶えになりながら、地面を這いずってたっくんの元に向かった。
「…… たっくん」
雪の上に横向きに寝そべっているたっくんに、覆い被さるようにして顔を覗き込む。
彼はかろうじて薄目を開けると、ゆっくり私の顔に片手を伸ばした。
私の左頬をそっと撫で、次にその指先がこめかみに近づいたところでピタリと止める。
「…… 小夏……ごめんな、また守れなかったな…… 」
「ううん、大丈夫だよ」
「お前……なんで約束守んないの? 」
「……ごめんなさい」
「お前……本当に俺のこと好きなのな? 」
私がコクコクと頷くのを見届けると、泣き笑いの表情をしながらそっと目を閉じて、力尽きたように手を下ろした。
「たっくん! 」
たっくんの額からは、尚も糸のような赤い線が続き、最後に雫となって、白い雪に染み込んでいく。
たっくんの血の上に、私の流した血がポタポタ落ちて、それは重なり混ざり合いながら、雪の上にいくつも赤い水玉模様を作った。
落ちては広がるその染みが、本当に本当に鮮やかな赤で……それはなんだか雪に咲く花のようで、とても綺麗だと思った。
「小夏! 小夏っ! 」
母親のぬくもりと、私の名を呼ぶ声に安心したのか、私は瞼の裏に赤い花の残像を映しながら、そのまま意識を手放した。
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