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第3章 過去編 side 拓巳
39、和倉十蔵
しおりを挟む和倉十蔵が俺たちのいる温泉旅館に来たのは、7月初めの暑い時期だった。
彼は名古屋在住の会社社長で、中部地区でアウトレットショップを3店舗展開しているということだった。
今回はその社員を伴っての慰安旅行ということで、総勢60名近くの団体客に裏方は大忙しで、俺も玄関にスリッパを並べたり大広間に御膳や座布団を並べるのに駆り出されていた。
和倉が母さんを気に入ったというのは、宴会の時の様子ですぐに分かった。
料理を運んで来た母さんに『心付け』をそっと手渡したり、目の前に座らせてお酒をしきりに勧めていたから。
それに翌日も廊下でわざわざ呼び止めて話し掛けたていたし、何より母さんを見る時の惚けた表情がそれを物語っていた。
そういう客は特に珍しくもない。
たった1泊2日だけ関わる相手だと、俺は特に気にも留めていなかった。
だけど、翌月のお盆の時期にも1人で2泊していき、9月にもまた来た時にこれは今までの客とは違うぞ…… と感じた。
これはもう母さんに完全にハマっている。
そしてそのうちに、和倉が旅館に来ると母さんが連れ立って出掛けて行くようになり、秋の終わり頃には、彼が俺への手土産まで持参するようになっていた。
一度母さんに聞いたことがある。
「和倉さんとどうして付き合ってるの? 全然母さんのタイプじゃないじゃん」
母さんがそれまで付き合ってきたのは、分かりやすい『遊び人風のイケメン』で、母さんよりも背が高くてひょろっとしている男ばかりだった。
小太りで、髪が少し薄くなっていて、母さんがハイヒールを履いたら見下ろすことになる和倉は、どう見てもそれに当てはまらない。
すると母さんはフッと鼻で笑って、面倒くさそうにこう答えた。
「う~ん……だってあの人、結婚して欲しいって土下座しながらダイヤの指輪を差し出してくるんだもの。ちょうど仲居の仕事もキツイと思ってたとこだったし、向こうに行ったら家事も何もしないで好きなようにしてていいって言うし…… 」
そうなんだ。最初からそこには愛情も尊敬も何も無かった。
つまり母さんは、仲居の仕事に疲れて辞めたいと思っていた時にタイミングよく求婚されて、今の暮らしから逃れるために目の前の『好条件』に飛びついただけだったんだ。
そこからはもうあっという間で、年末には和倉が娘の朝美を連れて旅館に泊まりに来て顔合わせして、1月の終わりには俺たちが名古屋の和倉家に泊まりに行って…… 。
俺が春休みになるのを待って母子で名古屋に引っ越すと、母さんは和倉十蔵と入籍し、俺は和倉拓巳になった。
紺色のリュックを背負って玄関に立った俺を、満面の笑顔の朝美が出迎えた。
「拓巳くん、いらっしゃい、待ってたわ。仲良くしましょうね! 」
差し出された右手を俺が握ると、朝美はそこに左手も添えて、ギュッと力を込めた。
3月終盤の、うららかな春の午後だった。
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