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第八十八話 話し合いの後
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王の勅命が下されたその日、ついに軍部と騎士団との共闘関係が正式に布告された。表向きは円満な調印式だったが、実際にはセレスティアが主導した“話し合い”の延長線上にあったのは誰の目にも明らかだった。異論を唱えようものなら、自身の過去の行動が記録された“あの映像”が所属部署内に流される恐れがある。それゆえ、どの部署も従順なまでに沈黙し、まるで最初から賛同していたかのように整然と受け入れた。
その裏で、セレスティアは今回の調停において協力を申し出てくれた貴族夫人たちへ、直接の謝意を伝えて回った。訪問先のあちこちで、思いがけない言葉を耳にした。「最近、主人が優しくなったの」「あの人、愛人と手を切ったみたい」「家庭での態度が見違えるように丁寧なのよ」――彼女たちがセレスティアに礼を述べる番となっていた。あの映像を目にした後では、ご主人たちの心に何かが変化したのだろう。特に、イオナス公爵をはじめとする四人の貴族家では、家族の強い願いによって、映像の個別上映会が設けられた。その場で娘や姉妹、母の最後の姿を知った者たちは、皆泣き崩れ、言葉もなく映像に見入ったという。
一方で、後方支援局の様子は以前と変わらず、穏やかな空気に包まれていた。そのことにセレスティアは心から安堵した。どれほど過酷な任務を経てきても、戻る場所が変わらぬことほど救いになるものはない。だが私的な心模様には、変化があった。
エリックやエリオット――確かにその優しさには心を動かされる瞬間があったが、どこかで一線が引かれていた。踏み込めない、越えられない、見えない壁のようなものがそこにはあり、自分には愛される資格などないのだと、半ば諦めていた。だからこそ、レオナルドがただの「局長」ではなく「一人の女性」として彼女を見てくれたとき、そのことがどれほど嬉しかったことか。あの瞬間から、感情はもう止められなかった。
ギラン帝国で見聞きした、皇帝と女官の秘めた恋。かつては遠く霞んだ物語のように思えたそれが、今の自分の中にじわじわと広がり始めていた。“恋に落ちる”とは、まさに坂道を転がり落ちるようなものなのだと、ようやく実感を持って理解できたのだった。
だが、レオナルドは新たな任務――第一騎士団での日々に追われており、以前のように会う時間もほとんどなくなっていた。寂しさを抱えながらも、彼の努力を支えたいと、セレスティアは結婚式の準備を後回しにして、自らの仕事に没頭していた。
そんなある日のこと。思いがけず早く業務を終えたセレスティアは、ふと思い立ち、久しぶりに彼の顔を見に行こうと第一騎士団の本部を訪ねた。しかし、すでに彼は寮へと戻っていたと聞かされ、嬉々としてそちらへ向かった。
いつになく胸が高鳴っていた。共に過ごす時間がまた戻ってくるかもしれない――そんな淡い期待を抱え、彼の部屋の扉を軽くノックする。だが、中からは応答がない。不在かと思い、引き返そうとした瞬間、室内から微かな物音が漏れ聞こえた。寝ているのかもしれない――そう思い、そっとドアノブを回すと、鍵はかかっておらず、扉はゆっくりと開いた。
「……レオ?」
部屋の中に踏み入れた瞬間、彼女の視界に映ったのは――信じがたい光景だった。
レオナルドは、衣服を身に付けぬままベッドの上で眠っていた。そして、その隣には、同じく裸のまま寄り添う女性の姿。まるで、夢か幻のように思えた。見間違いであって欲しいと願いながら、セレスティアはそっと後ずさった。だが、その拍子に背中がテーブルにぶつかり、置かれていたグラスが床に落ちて砕けた。
その音で、二人は目を覚ました。レオナルドの瞳がセレスティアを捉えた瞬間、目を見開いた。彼女もまた、セレスティアの姿を見て驚き、そっとレオナルドの腕を掴んだ。その姿にセレスティアは声を上げることもできず、そのまま転移魔法を発動し、部屋から姿を消した。
我に返ったレオナルドは、横にいたのが同僚のミラベルであることに気づき、愕然とした。
「なぜ、お前がここにいる!」怒りの声が響く。
ミラベルは、「自分の部屋だと思っていただけ」と言い訳をしたが、明らかにそれは嘘だった。すべては意図的なもの。セレスティアに“浮気現場”を見せるための罠だったことは、彼にもすぐに察しがついた。
このままでは彼女に深い誤解を与えたままになってしまう――それだけは避けねばならぬと、レオナルドは慌てて衣服を整え、セレスティアの私邸へと駆けつけた。だが、そこでも彼女の姿はなかった。転移で消えたことを告げると、マリエッタに一発、容赦ない平手打ちを食らった。
その後、彼はサフィール家にて事情を説明し、しばらくの間、家族と共に滞在することとなったが――セレスティアは、その日を境に、どこからともなく姿を消してしまった。
まるで、風のように。
沈黙のまま、誰のもとにも帰らずに――
その裏で、セレスティアは今回の調停において協力を申し出てくれた貴族夫人たちへ、直接の謝意を伝えて回った。訪問先のあちこちで、思いがけない言葉を耳にした。「最近、主人が優しくなったの」「あの人、愛人と手を切ったみたい」「家庭での態度が見違えるように丁寧なのよ」――彼女たちがセレスティアに礼を述べる番となっていた。あの映像を目にした後では、ご主人たちの心に何かが変化したのだろう。特に、イオナス公爵をはじめとする四人の貴族家では、家族の強い願いによって、映像の個別上映会が設けられた。その場で娘や姉妹、母の最後の姿を知った者たちは、皆泣き崩れ、言葉もなく映像に見入ったという。
一方で、後方支援局の様子は以前と変わらず、穏やかな空気に包まれていた。そのことにセレスティアは心から安堵した。どれほど過酷な任務を経てきても、戻る場所が変わらぬことほど救いになるものはない。だが私的な心模様には、変化があった。
エリックやエリオット――確かにその優しさには心を動かされる瞬間があったが、どこかで一線が引かれていた。踏み込めない、越えられない、見えない壁のようなものがそこにはあり、自分には愛される資格などないのだと、半ば諦めていた。だからこそ、レオナルドがただの「局長」ではなく「一人の女性」として彼女を見てくれたとき、そのことがどれほど嬉しかったことか。あの瞬間から、感情はもう止められなかった。
ギラン帝国で見聞きした、皇帝と女官の秘めた恋。かつては遠く霞んだ物語のように思えたそれが、今の自分の中にじわじわと広がり始めていた。“恋に落ちる”とは、まさに坂道を転がり落ちるようなものなのだと、ようやく実感を持って理解できたのだった。
だが、レオナルドは新たな任務――第一騎士団での日々に追われており、以前のように会う時間もほとんどなくなっていた。寂しさを抱えながらも、彼の努力を支えたいと、セレスティアは結婚式の準備を後回しにして、自らの仕事に没頭していた。
そんなある日のこと。思いがけず早く業務を終えたセレスティアは、ふと思い立ち、久しぶりに彼の顔を見に行こうと第一騎士団の本部を訪ねた。しかし、すでに彼は寮へと戻っていたと聞かされ、嬉々としてそちらへ向かった。
いつになく胸が高鳴っていた。共に過ごす時間がまた戻ってくるかもしれない――そんな淡い期待を抱え、彼の部屋の扉を軽くノックする。だが、中からは応答がない。不在かと思い、引き返そうとした瞬間、室内から微かな物音が漏れ聞こえた。寝ているのかもしれない――そう思い、そっとドアノブを回すと、鍵はかかっておらず、扉はゆっくりと開いた。
「……レオ?」
部屋の中に踏み入れた瞬間、彼女の視界に映ったのは――信じがたい光景だった。
レオナルドは、衣服を身に付けぬままベッドの上で眠っていた。そして、その隣には、同じく裸のまま寄り添う女性の姿。まるで、夢か幻のように思えた。見間違いであって欲しいと願いながら、セレスティアはそっと後ずさった。だが、その拍子に背中がテーブルにぶつかり、置かれていたグラスが床に落ちて砕けた。
その音で、二人は目を覚ました。レオナルドの瞳がセレスティアを捉えた瞬間、目を見開いた。彼女もまた、セレスティアの姿を見て驚き、そっとレオナルドの腕を掴んだ。その姿にセレスティアは声を上げることもできず、そのまま転移魔法を発動し、部屋から姿を消した。
我に返ったレオナルドは、横にいたのが同僚のミラベルであることに気づき、愕然とした。
「なぜ、お前がここにいる!」怒りの声が響く。
ミラベルは、「自分の部屋だと思っていただけ」と言い訳をしたが、明らかにそれは嘘だった。すべては意図的なもの。セレスティアに“浮気現場”を見せるための罠だったことは、彼にもすぐに察しがついた。
このままでは彼女に深い誤解を与えたままになってしまう――それだけは避けねばならぬと、レオナルドは慌てて衣服を整え、セレスティアの私邸へと駆けつけた。だが、そこでも彼女の姿はなかった。転移で消えたことを告げると、マリエッタに一発、容赦ない平手打ちを食らった。
その後、彼はサフィール家にて事情を説明し、しばらくの間、家族と共に滞在することとなったが――セレスティアは、その日を境に、どこからともなく姿を消してしまった。
まるで、風のように。
沈黙のまま、誰のもとにも帰らずに――
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