今度は、私の番です。

宵森みなと

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第九十四話 深淵に沈んだ記憶

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意識の深い淵――それは闇というよりも、どこか温かくも静まり返った場所だった。
エリーはひとり、その闇の中を漂っていた。時間の感覚も、音も匂いもない。けれど、ふとした瞬間、その果てに柔らかな光が浮かび上がった。
光に導かれるように、彼女は足を進めた。そこに現れたのは、一人の中年女性。黒髪に黒い瞳――どこかレオンハルトを思わせる面差しだった。

彼女は疲れ切った表情を浮かべ、よろよろと歩いていたが、突然、崩れるように地面に倒れた。エリーは思わず助けようと手を伸ばしたが、手はその身体をすり抜けるだけで、触れることが叶わなかった。
どうやら、自分はこの場面を「見ているだけ」の存在のようだった。

間もなくして、他の誰かが駆け寄り、声を上げて助けを求めた。その女性は白い箱のような乗り物に乗せられ、次に場面が変わったときには、真っ白な部屋の中にいた。
病室のようだった。女性は目を覚まし、窓の外をじっと見つめたのち、静かに涙をこぼし、再び眠りについた。

やがて訪れたのは、葬送の場面だった。黒い喪服を纏った人々が、白い花で飾られた祭壇の前に立ち尽くし、そこに飾られた遺影に向かって静かに涙を流していた。
嗚咽、ため息、すすり泣き……そのすべてが、胸を締めつけた。

(……ああ、これは、私の……葬式)

そう理解した瞬間、心の奥で封じられていた“前世の記憶”が、一気に洪水のように押し寄せてきた。
他人事のような感覚で、「さようなら、かつての家族」と思った自分に、奇妙な安堵と寂しさが同時に湧いた。

そして、再び場面が切り替わった。

セレスティア=サフィールとしてこの世界に生を受け、浮気を理由に婚約者との関係をなくし、王立学園の特別科に飛び級入学し、後方支援局を立ち上げ、数々の功績を積み重ねていった日々。

ナイラと訪れた異国の地、創造魔法の発現と魔道院の介入、貴族院や王宮での謁見の数々、そして局長として歩んだ後方支援局での日々――。

走馬灯のように次々と浮かぶ記憶のなかで、ただ一点だけがどうしても曖昧だった。
出会ったはずの場面、初めての逢瀬、初めてのキス。全ての場面での婚約者の顔が、モザイクのようにぼやけて見えなかった。それでも、その存在が自分にとってどれほど大切だったのか、心が覚えていた。

“レオナルド”という名に対して、自分の心がどれほど揺れ動いたのか。
愛は本物だった。けれど、ほんの小さなすれ違いと、積み重ねのなさが、絆に亀裂を走らせていた。

そして、記憶の映像は現世へと繋がる――。
サダールへ帰還するつもりで転移した矢先、雪豹に襲われそうになり、焦って再転移した先は、凍った湖の上だった。
あの瞬間の恐怖と寒さ、静寂。
そして、あの出会い――。

……すべてを、思い出した。
自分が誰であり、何を失い、どこから来たのか――。

「……セレス……ティア……」

暖かな声と、柔らかな光に包まれて、彼女はゆっくりとまぶたを開いた。
視界に映ったのは、あの時と変わらぬ鋭くも優しい眼差し。黒髪の青年――レオンハルトが、心配そうに覗き込んでいた。

「……心配……かけたかしら?」

その声に、レオンハルトは少しだけ安堵の色を浮かべ、問いかける。

「ど、どうだ。体調は?」

「えぇ。全て、思い出したの。すっきりしてるわ。……わたくし、どのぐらい倒れていたの?」

その口調と眼差しに、レオンハルトは明らかに“エリー”ではないと悟った。
今、目の前にいるのは、記憶をすべて取り戻した――セレスティア=サフィールその人だった。

「……ああ、約一月ほどだ。今回は長かった……ずっと、ずっと心配していた」

そう言うと、彼は迷いなく彼女をそっと抱きしめた。
その胸の内に滲んでいた恐れと安堵が、静かに伝わってきた。

「……ハルト、心配かけて、ごめんなさい」

セレスティアは彼の背を優しくポンポンと叩き、彼の頭をゆっくりと撫でた。

「もう……きっと、もう倒れたりはしないわ」

「“きっと”って、なんだ。“絶対”に、だろう。……もう二度と、エリー――いや、セレスティア嬢を失うかと思うようなこと、言うな」

その声には、今まで以上に深い想いが込められていた。

けれどセレスティアは、くすりと笑みを浮かべてこう答えた。

「そんなに気負わなくて大丈夫よ。無理して“セレスティア”と呼ばなくてもいいわ。“エリー”で……今まで通りで構わないの」

その返答に、レオンハルトの眉がわずかに下がった。

「……もう少し、休め。俺はここにいる」

「ありがとう……呼び覚ましてくれて」

そう言って、セレスティアは再び目を閉じた。
けれどその表情は、もう以前のような空白ではなく、確かな温もりと穏やかな安堵を湛えていた。

レオンハルトは、そっと彼女の手を握り直し、静かに囁いた。

「……おかえり」

このとき、彼の心に、もう一つの確信が芽生えつつあった――たとえ彼女が何者であれ、この手は、もう二度と離したくはないのだと。
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