95 / 101
第九十四話 深淵に沈んだ記憶
しおりを挟む
意識の深い淵――それは闇というよりも、どこか温かくも静まり返った場所だった。
エリーはひとり、その闇の中を漂っていた。時間の感覚も、音も匂いもない。けれど、ふとした瞬間、その果てに柔らかな光が浮かび上がった。
光に導かれるように、彼女は足を進めた。そこに現れたのは、一人の中年女性。黒髪に黒い瞳――どこかレオンハルトを思わせる面差しだった。
彼女は疲れ切った表情を浮かべ、よろよろと歩いていたが、突然、崩れるように地面に倒れた。エリーは思わず助けようと手を伸ばしたが、手はその身体をすり抜けるだけで、触れることが叶わなかった。
どうやら、自分はこの場面を「見ているだけ」の存在のようだった。
間もなくして、他の誰かが駆け寄り、声を上げて助けを求めた。その女性は白い箱のような乗り物に乗せられ、次に場面が変わったときには、真っ白な部屋の中にいた。
病室のようだった。女性は目を覚まし、窓の外をじっと見つめたのち、静かに涙をこぼし、再び眠りについた。
やがて訪れたのは、葬送の場面だった。黒い喪服を纏った人々が、白い花で飾られた祭壇の前に立ち尽くし、そこに飾られた遺影に向かって静かに涙を流していた。
嗚咽、ため息、すすり泣き……そのすべてが、胸を締めつけた。
(……ああ、これは、私の……葬式)
そう理解した瞬間、心の奥で封じられていた“前世の記憶”が、一気に洪水のように押し寄せてきた。
他人事のような感覚で、「さようなら、かつての家族」と思った自分に、奇妙な安堵と寂しさが同時に湧いた。
そして、再び場面が切り替わった。
セレスティア=サフィールとしてこの世界に生を受け、浮気を理由に婚約者との関係をなくし、王立学園の特別科に飛び級入学し、後方支援局を立ち上げ、数々の功績を積み重ねていった日々。
ナイラと訪れた異国の地、創造魔法の発現と魔道院の介入、貴族院や王宮での謁見の数々、そして局長として歩んだ後方支援局での日々――。
走馬灯のように次々と浮かぶ記憶のなかで、ただ一点だけがどうしても曖昧だった。
出会ったはずの場面、初めての逢瀬、初めてのキス。全ての場面での婚約者の顔が、モザイクのようにぼやけて見えなかった。それでも、その存在が自分にとってどれほど大切だったのか、心が覚えていた。
“レオナルド”という名に対して、自分の心がどれほど揺れ動いたのか。
愛は本物だった。けれど、ほんの小さなすれ違いと、積み重ねのなさが、絆に亀裂を走らせていた。
そして、記憶の映像は現世へと繋がる――。
サダールへ帰還するつもりで転移した矢先、雪豹に襲われそうになり、焦って再転移した先は、凍った湖の上だった。
あの瞬間の恐怖と寒さ、静寂。
そして、あの出会い――。
……すべてを、思い出した。
自分が誰であり、何を失い、どこから来たのか――。
「……セレス……ティア……」
暖かな声と、柔らかな光に包まれて、彼女はゆっくりとまぶたを開いた。
視界に映ったのは、あの時と変わらぬ鋭くも優しい眼差し。黒髪の青年――レオンハルトが、心配そうに覗き込んでいた。
「……心配……かけたかしら?」
その声に、レオンハルトは少しだけ安堵の色を浮かべ、問いかける。
「ど、どうだ。体調は?」
「えぇ。全て、思い出したの。すっきりしてるわ。……わたくし、どのぐらい倒れていたの?」
その口調と眼差しに、レオンハルトは明らかに“エリー”ではないと悟った。
今、目の前にいるのは、記憶をすべて取り戻した――セレスティア=サフィールその人だった。
「……ああ、約一月ほどだ。今回は長かった……ずっと、ずっと心配していた」
そう言うと、彼は迷いなく彼女をそっと抱きしめた。
その胸の内に滲んでいた恐れと安堵が、静かに伝わってきた。
「……ハルト、心配かけて、ごめんなさい」
セレスティアは彼の背を優しくポンポンと叩き、彼の頭をゆっくりと撫でた。
「もう……きっと、もう倒れたりはしないわ」
「“きっと”って、なんだ。“絶対”に、だろう。……もう二度と、エリー――いや、セレスティア嬢を失うかと思うようなこと、言うな」
その声には、今まで以上に深い想いが込められていた。
けれどセレスティアは、くすりと笑みを浮かべてこう答えた。
「そんなに気負わなくて大丈夫よ。無理して“セレスティア”と呼ばなくてもいいわ。“エリー”で……今まで通りで構わないの」
その返答に、レオンハルトの眉がわずかに下がった。
「……もう少し、休め。俺はここにいる」
「ありがとう……呼び覚ましてくれて」
そう言って、セレスティアは再び目を閉じた。
けれどその表情は、もう以前のような空白ではなく、確かな温もりと穏やかな安堵を湛えていた。
レオンハルトは、そっと彼女の手を握り直し、静かに囁いた。
「……おかえり」
このとき、彼の心に、もう一つの確信が芽生えつつあった――たとえ彼女が何者であれ、この手は、もう二度と離したくはないのだと。
エリーはひとり、その闇の中を漂っていた。時間の感覚も、音も匂いもない。けれど、ふとした瞬間、その果てに柔らかな光が浮かび上がった。
光に導かれるように、彼女は足を進めた。そこに現れたのは、一人の中年女性。黒髪に黒い瞳――どこかレオンハルトを思わせる面差しだった。
彼女は疲れ切った表情を浮かべ、よろよろと歩いていたが、突然、崩れるように地面に倒れた。エリーは思わず助けようと手を伸ばしたが、手はその身体をすり抜けるだけで、触れることが叶わなかった。
どうやら、自分はこの場面を「見ているだけ」の存在のようだった。
間もなくして、他の誰かが駆け寄り、声を上げて助けを求めた。その女性は白い箱のような乗り物に乗せられ、次に場面が変わったときには、真っ白な部屋の中にいた。
病室のようだった。女性は目を覚まし、窓の外をじっと見つめたのち、静かに涙をこぼし、再び眠りについた。
やがて訪れたのは、葬送の場面だった。黒い喪服を纏った人々が、白い花で飾られた祭壇の前に立ち尽くし、そこに飾られた遺影に向かって静かに涙を流していた。
嗚咽、ため息、すすり泣き……そのすべてが、胸を締めつけた。
(……ああ、これは、私の……葬式)
そう理解した瞬間、心の奥で封じられていた“前世の記憶”が、一気に洪水のように押し寄せてきた。
他人事のような感覚で、「さようなら、かつての家族」と思った自分に、奇妙な安堵と寂しさが同時に湧いた。
そして、再び場面が切り替わった。
セレスティア=サフィールとしてこの世界に生を受け、浮気を理由に婚約者との関係をなくし、王立学園の特別科に飛び級入学し、後方支援局を立ち上げ、数々の功績を積み重ねていった日々。
ナイラと訪れた異国の地、創造魔法の発現と魔道院の介入、貴族院や王宮での謁見の数々、そして局長として歩んだ後方支援局での日々――。
走馬灯のように次々と浮かぶ記憶のなかで、ただ一点だけがどうしても曖昧だった。
出会ったはずの場面、初めての逢瀬、初めてのキス。全ての場面での婚約者の顔が、モザイクのようにぼやけて見えなかった。それでも、その存在が自分にとってどれほど大切だったのか、心が覚えていた。
“レオナルド”という名に対して、自分の心がどれほど揺れ動いたのか。
愛は本物だった。けれど、ほんの小さなすれ違いと、積み重ねのなさが、絆に亀裂を走らせていた。
そして、記憶の映像は現世へと繋がる――。
サダールへ帰還するつもりで転移した矢先、雪豹に襲われそうになり、焦って再転移した先は、凍った湖の上だった。
あの瞬間の恐怖と寒さ、静寂。
そして、あの出会い――。
……すべてを、思い出した。
自分が誰であり、何を失い、どこから来たのか――。
「……セレス……ティア……」
暖かな声と、柔らかな光に包まれて、彼女はゆっくりとまぶたを開いた。
視界に映ったのは、あの時と変わらぬ鋭くも優しい眼差し。黒髪の青年――レオンハルトが、心配そうに覗き込んでいた。
「……心配……かけたかしら?」
その声に、レオンハルトは少しだけ安堵の色を浮かべ、問いかける。
「ど、どうだ。体調は?」
「えぇ。全て、思い出したの。すっきりしてるわ。……わたくし、どのぐらい倒れていたの?」
その口調と眼差しに、レオンハルトは明らかに“エリー”ではないと悟った。
今、目の前にいるのは、記憶をすべて取り戻した――セレスティア=サフィールその人だった。
「……ああ、約一月ほどだ。今回は長かった……ずっと、ずっと心配していた」
そう言うと、彼は迷いなく彼女をそっと抱きしめた。
その胸の内に滲んでいた恐れと安堵が、静かに伝わってきた。
「……ハルト、心配かけて、ごめんなさい」
セレスティアは彼の背を優しくポンポンと叩き、彼の頭をゆっくりと撫でた。
「もう……きっと、もう倒れたりはしないわ」
「“きっと”って、なんだ。“絶対”に、だろう。……もう二度と、エリー――いや、セレスティア嬢を失うかと思うようなこと、言うな」
その声には、今まで以上に深い想いが込められていた。
けれどセレスティアは、くすりと笑みを浮かべてこう答えた。
「そんなに気負わなくて大丈夫よ。無理して“セレスティア”と呼ばなくてもいいわ。“エリー”で……今まで通りで構わないの」
その返答に、レオンハルトの眉がわずかに下がった。
「……もう少し、休め。俺はここにいる」
「ありがとう……呼び覚ましてくれて」
そう言って、セレスティアは再び目を閉じた。
けれどその表情は、もう以前のような空白ではなく、確かな温もりと穏やかな安堵を湛えていた。
レオンハルトは、そっと彼女の手を握り直し、静かに囁いた。
「……おかえり」
このとき、彼の心に、もう一つの確信が芽生えつつあった――たとえ彼女が何者であれ、この手は、もう二度と離したくはないのだと。
473
あなたにおすすめの小説
ドレスが似合わないと言われて婚約解消したら、いつの間にか殿下に囲われていた件
ぽぽよ
恋愛
似合わないドレスばかりを送りつけてくる婚約者に嫌気がさした令嬢シンシアは、婚約を解消し、ドレスを捨てて男装の道を選んだ。
スラックス姿で生きる彼女は、以前よりも自然体で、王宮でも次第に評価を上げていく。
しかしその裏で、爽やかな笑顔を張り付けた王太子が、密かにシンシアへの執着を深めていた。
一方のシンシアは極度の鈍感で、王太子の好意をすべて「親切」「仕事」と受け取ってしまう。
「一生お仕えします」という言葉の意味を、まったく違う方向で受け取った二人。
これは、男装令嬢と爽やか策士王太子による、勘違いから始まる婚約(包囲)物語。
見るに堪えない顔の存在しない王女として、家族に疎まれ続けていたのに私の幸せを願ってくれる人のおかげで、私は安心して笑顔になれます
珠宮さくら
恋愛
ローザンネ国の島国で生まれたアンネリース・ランメルス。彼女には、双子の片割れがいた。何もかも与えてもらえている片割れと何も与えられることのないアンネリース。
そんなアンネリースを育ててくれた乳母とその娘のおかげでローザンネ国で生きることができた。そうでなければ、彼女はとっくに死んでいた。
そんな時に別の国の王太子の婚約者として留学することになったのだが、その条件は仮面を付けた者だった。
ローザンネ国で仮面を付けた者は、見るに堪えない顔をしている証だが、他所の国では真逆に捉えられていた。
【完結】身代わりに病弱だった令嬢が隣国の冷酷王子と政略結婚したら、薬師の知識が役に立ちました。
朝日みらい
恋愛
リリスは内気な性格の貴族令嬢。幼い頃に患った大病の影響で、薬師顔負けの知識を持ち、自ら薬を調合する日々を送っている。家族の愛情を一身に受ける妹セシリアとは対照的に、彼女は控えめで存在感が薄い。
ある日、リリスは両親から突然「妹の代わりに隣国の王子と政略結婚をするように」と命じられる。結婚相手であるエドアルド王子は、かつて幼馴染でありながら、今では冷たく距離を置かれる存在。リリスは幼い頃から密かにエドアルドに憧れていたが、病弱だった過去もあって自分に自信が持てず、彼の真意がわからないまま結婚の日を迎えてしまい――
手作りお菓子をゴミ箱に捨てられた私は、自棄を起こしてとんでもない相手と婚約したのですが、私も含めたみんな変になっていたようです
珠宮さくら
恋愛
アンゼリカ・クリットの生まれた国には、不思議な習慣があった。だから、アンゼリカは必死になって頑張って馴染もうとした。
でも、アンゼリカではそれが難しすぎた。それでも、頑張り続けた結果、みんなに喜ばれる才能を開花させたはずなのにどうにもおかしな方向に突き進むことになった。
加えて好きになった人が最低野郎だとわかり、自棄を起こして婚約した子息も最低だったりとアンゼリカの周りは、最悪が溢れていたようだ。
【完結】竜人が番と出会ったのに、誰も幸せにならなかった
凛蓮月
恋愛
【感想をお寄せ頂きありがとうございました(*^^*)】
竜人のスオウと、酒場の看板娘のリーゼは仲睦まじい恋人同士だった。
竜人には一生かけて出会えるか分からないとされる番がいるが、二人は番では無かった。
だがそんな事関係無いくらいに誰から見ても愛し合う二人だったのだ。
──ある日、スオウに番が現れるまでは。
全8話。
※他サイトで同時公開しています。
※カクヨム版より若干加筆修正し、ラストを変更しています。
悪役令嬢に転生しましたが、行いを変えるつもりはありません
れぐまき
恋愛
公爵令嬢セシリアは皇太子との婚約発表舞踏会で、とある男爵令嬢を見かけたことをきっかけに、自分が『宝石の絆』という乙女ゲームのライバルキャラであることを知る。
「…私、間違ってませんわね」
曲がったことが大嫌いなオーバースペック公爵令嬢が自分の信念を貫き通す話
…だったはずが最近はどこか天然の主人公と勘違い王子のすれ違い(勘違い)恋愛話になってきている…
5/13
ちょっとお話が長くなってきたので一旦全話非公開にして纏めたり加筆したりと大幅に修正していきます
5/22
修正完了しました。明日から通常更新に戻ります
9/21
完結しました
また気が向いたら番外編として二人のその後をアップしていきたいと思います
存在感と取り柄のない私のことを必要ないと思っている人は、母だけではないはずです。でも、兄たちに大事にされているのに気づきませんでした
珠宮さくら
恋愛
伯爵家に生まれた5人兄弟の真ん中に生まれたルクレツィア・オルランディ。彼女は、存在感と取り柄がないことが悩みの女の子だった。
そんなルクレツィアを必要ないと思っているのは母だけで、父と他の兄弟姉妹は全くそんなことを思っていないのを勘違いして、すれ違い続けることになるとは、誰も思いもしなかった。
【完結】転生地味悪役令嬢は婚約者と男好きヒロイン諸共無視しまくる。
なーさ
恋愛
アイドルオタクの地味女子 水上羽月はある日推しが轢かれそうになるのを助けて死んでしまう。そのことを不憫に思った女神が「あなた、可哀想だから転生!」「え?」なんの因果か異世界に転生してしまう!転生したのは地味な公爵令嬢レフカ・エミリーだった。目が覚めると私の周りを大人が囲っていた。婚約者の第一王子も男好きヒロインも無視します!今世はうーん小説にでも生きようかな〜と思ったらあれ?あの人は前世の推しでは!?地味令嬢のエミリーが知らず知らずのうちに戦ったり溺愛されたりするお話。
本当に駄文です。そんなものでも読んでお気に入り登録していただけたら嬉しいです!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる