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第6話 暫しの別れー舞台裏
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リノベラナ国――。
テストニア帝国から海を越えて二日。マリアンヌは、留学先として名目上選ばれたこの国へ無事到着していた。
もちろんこれは、あくまでもマリアンヌとして“セリーヌ皇女”が輿入れするためのアリバイ工作に過ぎない。
だが、どんなに完璧な計画でも、わずかなほころびが致命傷になる。
そのとき万が一疑念が浮かんでも、「マリアンヌ皇女は他国で留学中」と印象付けておけば、容易に詮索されることはない――そのための下準備だった。
現地では、すでに一軒家が用意されていた。
一軒家と言っても、伯爵家が王都に持つ居宅跡であり、庭付きの広々とした屋敷である。
これもまた、皇女が滞在する場所として過不足なく、それでいて過剰な注目を集めないように選ばれたものだった。
リノベラナ王城での公式な挨拶も済ませ、皇女の留学という体裁は一応整った。
その足で屋敷へと戻り、顔見せとしての三日間を過ごす。この三日間は“これから三年間の留学生活が始まる”という印象を残すべき時間――マリアンヌは、この後母国へと舞い戻り、“セリーヌ王女”としてシンホニア国へ向かうことになる。
慌ただしい往復。だが――やるしかない。
あらかじめ仕込んでおいた目撃者や訪問者たちによって、マリアンヌは“確かにリノベラナに滞在している”という情報が少しずつ流布されていく。
そのすべてを確認した上で、マリアンヌは帝国に転移で戻った。
皇族たちにとって、転移はもはや特別な技術ではない。
皇帝の血を引く者なら、自身の魔力で自由に空間を超えることができる。
転移陣の助けを借りるのは、血の繋がりのない者たちだけだった。
マリアンヌは、テストニア帝国に戻るとすぐに“セリーヌ”としての身支度を整えた。
そして、出立前日、皇帝アルバトロスと皇后マリアベルに謁見し、最後の挨拶へ向かった。
この日、シンホニア国の宰相ベルリアも、皇女の迎えと様子を確認するために帝国を訪れていた。
マリアンヌは堂々と、しかししなやかにスカートの裾を摘み、深くカーテシーをした。
「テストニア帝国アルバトロス皇帝、マリアベル皇后へご挨拶申し上げます。
わたくし、セリーヌは明日、愛すべき帝国を離れ、シンホニア国へ輿入れいたします。
長らく育てていただき、ありがとうございました。
この身をもって、テストニアとシンホニアの架け橋となれるよう、精一杯努めさせていただきます」
その言葉に、皇帝はゆっくりと頷いた。
「セリーヌ。そなたは二国の未来を背負っておる。
式には儂も参るつもりだ。だが、何か不都合があれば、すぐに申せ。
娘が不当に扱われるようなことがあれば――その時は、儂が出る」
その厳しくも温かい言葉に、マリアンヌは目を伏せ、小さく息をついた。
「お父様……ありがとうございます。
わたくし、お父様とお母様のように、ただ一人の伴侶を大切にする方へ嫁げること、幸せに思います。
もう……心残りはございませんわ」
そう言って顔を上げた彼女の頬を、ひとすじの涙が静かに伝った。
その涙が、演技か、真心か――それを見極められる者は、そこにはいなかった。
一方、シンホニア国の宰相ベルリアは、言葉少なに皇女の一挙手一投足を見つめていた。
この穏やかな笑みをたたえた王女――その内に、どれほどの意思が宿っているのか。
美しく、気品に満ちた姿に、マリアベル皇后の面影を重ねながらも、どこか底知れぬものを感じていた。
少なくとも、もし何かあれば、このテストニア帝国はただちに動くだろう。
そう確信させるには、十分すぎる光景だった。
するとマリアンヌが、ベルリアに向き直り、柔らかな声音で話しかけた。
「シンホニア国までの道中、お迎えいただき感謝いたします。
わたくし、他国へ出るのは初めてですので……
ぜひ、道中に貴国のことなど、いろいろ教えていただけましたら嬉しく思います」
にこりと微笑んだその姿は、どこまでも“セリーヌ”そのものであった。
「こちらこそ、セリーヌ皇女様をお迎えする光栄にあずかり、身に余る思いです。
どうか道中、つつがなくお過ごし頂けますよう、お仕えいたします」
ベルリアは深く頭を下げた。
その瞬間、自身の中に芽生えかけたわずかな疑念が、いったん霧散していった。
マリアンヌはその場に留まる両親を見渡し、優しく会釈した。
「これより、皇太子様と皇太子妃様に、別れのご挨拶に伺ってまいります。
それでは……御前、失礼いたします」
そう言って、彼女は背を向けた。
けれども、扉を出たあと、ほんのわずかに表情が緩んだ。
“セリーヌ”を演じることには、もう慣れたはずだったのに。
ふと込み上げてきたのは、可笑しさなのか、寂しさなのか。
足を止めたマリアンヌは、静かな回廊の窓辺に立ち、遠く広がる帝都の風景を見下ろした。
高く澄んだ空。風に揺れる街の旗。人々の喧騒。
「――しばらくは見納めね」
そうつぶやいて、目を細める。
この場所に戻ってくるのは三年後。
たった三年。けれど、きっとその間に、すべてが変わってしまう気がしてならなかった。
「今日も、空は……青いわね」
もう一度、深く息を吸って、振り返る。
さあ、“セリーヌ”としての物語が、今始まる――。
テストニア帝国から海を越えて二日。マリアンヌは、留学先として名目上選ばれたこの国へ無事到着していた。
もちろんこれは、あくまでもマリアンヌとして“セリーヌ皇女”が輿入れするためのアリバイ工作に過ぎない。
だが、どんなに完璧な計画でも、わずかなほころびが致命傷になる。
そのとき万が一疑念が浮かんでも、「マリアンヌ皇女は他国で留学中」と印象付けておけば、容易に詮索されることはない――そのための下準備だった。
現地では、すでに一軒家が用意されていた。
一軒家と言っても、伯爵家が王都に持つ居宅跡であり、庭付きの広々とした屋敷である。
これもまた、皇女が滞在する場所として過不足なく、それでいて過剰な注目を集めないように選ばれたものだった。
リノベラナ王城での公式な挨拶も済ませ、皇女の留学という体裁は一応整った。
その足で屋敷へと戻り、顔見せとしての三日間を過ごす。この三日間は“これから三年間の留学生活が始まる”という印象を残すべき時間――マリアンヌは、この後母国へと舞い戻り、“セリーヌ王女”としてシンホニア国へ向かうことになる。
慌ただしい往復。だが――やるしかない。
あらかじめ仕込んでおいた目撃者や訪問者たちによって、マリアンヌは“確かにリノベラナに滞在している”という情報が少しずつ流布されていく。
そのすべてを確認した上で、マリアンヌは帝国に転移で戻った。
皇族たちにとって、転移はもはや特別な技術ではない。
皇帝の血を引く者なら、自身の魔力で自由に空間を超えることができる。
転移陣の助けを借りるのは、血の繋がりのない者たちだけだった。
マリアンヌは、テストニア帝国に戻るとすぐに“セリーヌ”としての身支度を整えた。
そして、出立前日、皇帝アルバトロスと皇后マリアベルに謁見し、最後の挨拶へ向かった。
この日、シンホニア国の宰相ベルリアも、皇女の迎えと様子を確認するために帝国を訪れていた。
マリアンヌは堂々と、しかししなやかにスカートの裾を摘み、深くカーテシーをした。
「テストニア帝国アルバトロス皇帝、マリアベル皇后へご挨拶申し上げます。
わたくし、セリーヌは明日、愛すべき帝国を離れ、シンホニア国へ輿入れいたします。
長らく育てていただき、ありがとうございました。
この身をもって、テストニアとシンホニアの架け橋となれるよう、精一杯努めさせていただきます」
その言葉に、皇帝はゆっくりと頷いた。
「セリーヌ。そなたは二国の未来を背負っておる。
式には儂も参るつもりだ。だが、何か不都合があれば、すぐに申せ。
娘が不当に扱われるようなことがあれば――その時は、儂が出る」
その厳しくも温かい言葉に、マリアンヌは目を伏せ、小さく息をついた。
「お父様……ありがとうございます。
わたくし、お父様とお母様のように、ただ一人の伴侶を大切にする方へ嫁げること、幸せに思います。
もう……心残りはございませんわ」
そう言って顔を上げた彼女の頬を、ひとすじの涙が静かに伝った。
その涙が、演技か、真心か――それを見極められる者は、そこにはいなかった。
一方、シンホニア国の宰相ベルリアは、言葉少なに皇女の一挙手一投足を見つめていた。
この穏やかな笑みをたたえた王女――その内に、どれほどの意思が宿っているのか。
美しく、気品に満ちた姿に、マリアベル皇后の面影を重ねながらも、どこか底知れぬものを感じていた。
少なくとも、もし何かあれば、このテストニア帝国はただちに動くだろう。
そう確信させるには、十分すぎる光景だった。
するとマリアンヌが、ベルリアに向き直り、柔らかな声音で話しかけた。
「シンホニア国までの道中、お迎えいただき感謝いたします。
わたくし、他国へ出るのは初めてですので……
ぜひ、道中に貴国のことなど、いろいろ教えていただけましたら嬉しく思います」
にこりと微笑んだその姿は、どこまでも“セリーヌ”そのものであった。
「こちらこそ、セリーヌ皇女様をお迎えする光栄にあずかり、身に余る思いです。
どうか道中、つつがなくお過ごし頂けますよう、お仕えいたします」
ベルリアは深く頭を下げた。
その瞬間、自身の中に芽生えかけたわずかな疑念が、いったん霧散していった。
マリアンヌはその場に留まる両親を見渡し、優しく会釈した。
「これより、皇太子様と皇太子妃様に、別れのご挨拶に伺ってまいります。
それでは……御前、失礼いたします」
そう言って、彼女は背を向けた。
けれども、扉を出たあと、ほんのわずかに表情が緩んだ。
“セリーヌ”を演じることには、もう慣れたはずだったのに。
ふと込み上げてきたのは、可笑しさなのか、寂しさなのか。
足を止めたマリアンヌは、静かな回廊の窓辺に立ち、遠く広がる帝都の風景を見下ろした。
高く澄んだ空。風に揺れる街の旗。人々の喧騒。
「――しばらくは見納めね」
そうつぶやいて、目を細める。
この場所に戻ってくるのは三年後。
たった三年。けれど、きっとその間に、すべてが変わってしまう気がしてならなかった。
「今日も、空は……青いわね」
もう一度、深く息を吸って、振り返る。
さあ、“セリーヌ”としての物語が、今始まる――。
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