観音通りにて・姉

美里

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 「まおー、まおー、」
 与えられた四畳半のドアの前で、猫の子でも呼ぶみたいに貴子が真央を呼んでいる。
 「なに、姉ちゃん。」
 真央は素直にドアを開けた。姉ちゃん、という呼び名はここ数か月のもの。酔っぱらってちょっと呼んでみたら、案外口になじんだので続いている。はじめてそう呼んだとき、ワインを相当飲んでいた貴子は、一瞬きょとんと首を傾げた後、酔いも冷めたみたいに胸を手で押さえた。そんなふうに呼ばれたことはなかったから、と。じゃあ、弟にはなんて呼ばれてたの、と、真央が訊くと、貴子、と彼女は答えた。そのときの表情は、ちょっと驚くほど艶っぽくて、真央は彼女が弟の話をしているのだよな、と、確かめたくなったほどだった。
 「ご飯作ったのよ。今日は観音通りに立つの?」
 「どうしようかなぁ。今日は風が強いし、昨日割と稼ぎがよかったし……。」
 「立たないのね。」
 紅を塗らずとも赤い唇をいたずらっぽく笑わせて、貴子が真央の手を引いた。リビングのテーブルの上には、貴子お得意のハンバーグが用意されている。
 「わあ、うまそう。」
 真央は喜んで食卓に着いた。貴子のハンバーグは、真央に子供の頃を思いださせる。わりに裕福な家庭で、それなりにかわいがられて育ちもした真央の好物は母の作るハンバーグだった。男とつきあっていることがばれて以来は、ハンバーグを作ってくれることはなくなったのだけれど。
 「いただきます。」
 箸を持つ前に手を合わせた真央を、貴子は目を細めて見守っている。
 「不思議ね。真央って、たまにいい家の子みたいなときある。」
 「まあまあいい家の子だったからじゃない?」 
 「そうなの?」
 「父親は公務員だったよ。」
 家のことを思い出すのは、まだ少し痛みが伴う。13歳から疎外され続けてきた『家族』は、今でも真央の泣き所だ。誤魔化すみたいに、貴子さんは? と訊きかえしてみると、彼女は困ったように眉を寄せ、少し笑った。
 「全然いい家じゃあ、なかったわね。」
 真央は、それ以上突き詰めることは誰のためにもならない気がして、美味しい、美味しい、とハンバーグを食べることに専念した。
 食事を終えると、貴子は片づけたリビングテーブルの上で、丹念に化粧をする。家庭的で面倒見のいい『姉ちゃん』の顔が、だんだんに観音通りの娼婦の顔に変わっていくさまは一種の手品みたいで、何度見ても見飽きることはない。
 「じゃあ、行って来るわね。」
 化粧を終え、金色の小さなショルダーバッグを赤いワンピースの肩に下げた貴子は、軽く手を振って部屋を出ていく。真央は、それをアパートの出口まで見送って行った。
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