愛じゃなくても

美里

文字の大きさ
16 / 24

しおりを挟む
玄関のドアを開け、そこで一度立ち止まる。
 七瀬の靴がなかった、靴脱ぎに投げ出されていたスニーカーも、靴箱にしまっていた革靴も、サンダルも、一足もなかった。章吾より2センチ小さい七瀬の靴は、きれいに姿を消していた。
 どくん、と心臓が鳴るのを手のひらで抑え込む。
 こんなところで怯んでいては仕方がない。リビングもキッチンも洗面所も寝室も、どこもかしこもきれいに片付けられていることくらい分かっていた。
 七瀬の痕跡。
 スニーカーを履いた七瀬と通った大学も、革靴を履いた七瀬と記念日に行ったちょっといいレストランも、サンダルを履いた七瀬と行った秋の初めの海も、靴と一緒に記憶まで消えてしまいそうで怖かった。
 深く息をつき、鼓動を収めて、章吾は靴脱から短い廊下へ入る。右手に台所とは言えないような規模のシンクがあり、そこからは一人分の食器類が消えていた。左手の洗面所からは、七瀬が愛用していたシャンプーとトリートメントが消えてた。歯ブラシは両方ともなくなっていて、新品のそれが洗面台に立てかけられていた。
 執拗に七瀬の匂いを抹消しようとする手際に、また心臓がうるさくなる。
 リビングからも、寝室からも、七瀬のものはきれいに姿を消していた。服も、教科書も、パソコンも、リュックサックも、ヘッドホンも、本も、なにもかもがなくなっていた。
 章吾の動悸は、今度は違う意味で止まらなくなる。
 ここまで七瀬の痕跡が消えても、なおも残る彼の匂い。
 一緒に選んだ青いカーテンや、七瀬がよく勝手に着ていた紺色のパーカー。七瀬が折ったビニール傘や、誕生日にくれた銀のピアス。共用していたリップクリームや、交代で講義に出て取っていたノート。
 それらがまだ濃密に、七瀬の匂いを漂わせていた。
 「……めし。」
 一人の部屋で、ぽつんと呟く。
 飯当番は七瀬だった。飯と洗濯が七瀬で、掃除と洗い物が章吾。
 冷蔵庫を開けると、七瀬が作り置いていたはずの惣菜も姿を消していた。
 「……なんで。」
 なんで、ここまで。
 呟いて、冷蔵庫を閉める。食欲なんて、もとからなかった。ただ、なにか普段の生活と同じことをして、現実感を取り戻したかっただけで。
 そのままシャワーも浴びなければ服も着替えず、章吾はダブルベッドに身を投げた。
 眠れないのは分かっていたけれど、眠りたかったのだ、どうしても。一度眠ってしまえば少しは気持ちが整理されるような気がして。






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 【エールいただきました。ありがとうございます】 【たくさんの“いいね”ありがとうございます】 【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

あなたと過ごせた日々は幸せでした

蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。

薄紅の檻、月下の契り

雪兎
BL
あらすじ 大正十年、華やかな文明開化の影で、いまだ旧き因習が色濃く残る帝都。 没落しかけた名家に生まれた“Ω(オメガ)”の青年・白鷺伊織は、家を救うため政略的な「番(つがい)」として差し出される運命にあった。 しかし縁談の相手は、冷酷無慈悲と噂される若き実業家であり“α(アルファ)”の当主・九条鷹司。 鉄道・銀行事業で財を成した九条家は、華族でもありながら成り上がりと蔑まれる存在。 一方の伊織は、旧華族の矜持を胸に秘めながらも、Ωであるがゆえに家族から疎まれてきた。 冷ややかな契約婚として始まった同居生活。 だが、伊織は次第に知ることになる。 鷹司がΩを所有物としてではなく、一人の人間として尊重しようとしていることを。 発情期を巡る制度、番契約を強制する家制度、そして帝都に広がる新思想。 伝統と自由のはざまで揺れながら、二人は「選ばされた番」から「自ら選ぶ伴侶」へと変わっていく——。 月明かりの下、交わされるのは支配ではなく、誓い。 大正浪漫薫る帝都で紡がれる、運命を超える愛の物語。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

処理中です...