愛じゃなくても

美里

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玄関のドアを開け、そこで一度立ち止まる。
 七瀬の靴がなかった、靴脱ぎに投げ出されていたスニーカーも、靴箱にしまっていた革靴も、サンダルも、一足もなかった。章吾より2センチ小さい七瀬の靴は、きれいに姿を消していた。
 どくん、と心臓が鳴るのを手のひらで抑え込む。
 こんなところで怯んでいては仕方がない。リビングもキッチンも洗面所も寝室も、どこもかしこもきれいに片付けられていることくらい分かっていた。
 七瀬の痕跡。
 スニーカーを履いた七瀬と通った大学も、革靴を履いた七瀬と記念日に行ったちょっといいレストランも、サンダルを履いた七瀬と行った秋の初めの海も、靴と一緒に記憶まで消えてしまいそうで怖かった。
 深く息をつき、鼓動を収めて、章吾は靴脱から短い廊下へ入る。右手に台所とは言えないような規模のシンクがあり、そこからは一人分の食器類が消えていた。左手の洗面所からは、七瀬が愛用していたシャンプーとトリートメントが消えてた。歯ブラシは両方ともなくなっていて、新品のそれが洗面台に立てかけられていた。
 執拗に七瀬の匂いを抹消しようとする手際に、また心臓がうるさくなる。
 リビングからも、寝室からも、七瀬のものはきれいに姿を消していた。服も、教科書も、パソコンも、リュックサックも、ヘッドホンも、本も、なにもかもがなくなっていた。
 章吾の動悸は、今度は違う意味で止まらなくなる。
 ここまで七瀬の痕跡が消えても、なおも残る彼の匂い。
 一緒に選んだ青いカーテンや、七瀬がよく勝手に着ていた紺色のパーカー。七瀬が折ったビニール傘や、誕生日にくれた銀のピアス。共用していたリップクリームや、交代で講義に出て取っていたノート。
 それらがまだ濃密に、七瀬の匂いを漂わせていた。
 「……めし。」
 一人の部屋で、ぽつんと呟く。
 飯当番は七瀬だった。飯と洗濯が七瀬で、掃除と洗い物が章吾。
 冷蔵庫を開けると、七瀬が作り置いていたはずの惣菜も姿を消していた。
 「……なんで。」
 なんで、ここまで。
 呟いて、冷蔵庫を閉める。食欲なんて、もとからなかった。ただ、なにか普段の生活と同じことをして、現実感を取り戻したかっただけで。
 そのままシャワーも浴びなければ服も着替えず、章吾はダブルベッドに身を投げた。
 眠れないのは分かっていたけれど、眠りたかったのだ、どうしても。一度眠ってしまえば少しは気持ちが整理されるような気がして。






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