せめて今夜の薬指

美里

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緑雨は当然のように俺の部屋にいた。こんなにうつくしい身体と顔を持つ男には、俺の狭い1Kなんて似合わないはずなのに、緑雨はなぜだか俺の部屋にすっきりとはまっていた。
 「おかえり。」
 緑雨が言った。
 俺は自分の感情をどう片付けていいのか分からなくて、靴脱ぎで固まってしまった。
 背後で重い音をさせてドアが締まる。その音が、俺を拘束している気がした。もう、この男からは逃げられないと。
 「ただいまって、言ってくれないの?」
 部屋の一番奥に押し込めたベッドに腰掛け、長い脚を組んだ緑雨が、ゆっくりと立ち上がってこちらに歩み寄ってくる。
 ただいま。
 言おうとして開けた口が空振りする。慣れていない台詞過ぎて、上手く言葉が出てこない。
 ただいま、なんて誰かに言ったのはいつぶりだろうか。もう、思い出せない。
 俺の中身を全部見透かすような目をした緑雨は、ちょっと笑って俺の耳元で囁いた。
 「慣れてないんだね。」
 ぎこちなく、俺は頷く。満員電車の雑踏以外で、こんなに誰かに側に寄られたのだって、いつぶりだか分からなかった。
 かわいい、と、緑雨は色素の薄い目を細めた。
 かわいいなんて、俺には全く似つかわしくない言葉だ。
 驚いて、俺は身を固くした。
 驚いて、ではないかもしれない。多分俺は、警戒したのだ。緑雨にとって俺が何でもない存在だと分かっているから、彼が俺の中に入ってくるのが怖かった。
 ただいま。
 大急ぎで口にした言葉は、その恐怖への誤魔化しだった。
 それさえ知っているような目で俺を見つめる緑雨は、笑ったままの唇で俺にキスをした。
 「酒の匂いがする。葛西さんのとこに行ってきたの?」
 酒の匂い。
 そんなのが分かるくらい近くに緑雨がいると思うと、自分の汗の匂いやら口臭やらが急に気になってくる。目の前に立つ緑雨からは、存在が希薄になるほどなんの匂いもしないから、なおさら。
 でも、確かに昨夜の緑雨の肌からは、甘い香りが漂っていたのに。
 そんなことを思い出して、俺は思わず緑雨の胸を押しのけた。
 セックスするくらい密着しないと香らない香水の匂い。
 それがあまりに緑雨らしくて。
 なに、どうしたの、と、緑雨が俺の手首をつかむ。
 「葛西さんは、俺のこと追い出せって言ったでしょ?」
 ひっそりと笑う緑雨は、どこか寂しげに見えた。
 これが緑雨のいつもの手なのだろう。
 分かっていても、それ以上緑雨に抵抗はできなくて、腕を引かれるままに部屋の奥に導かれる。
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