金魚の庭

美里

文字の大きさ
5 / 44

しおりを挟む
男は料理ができなかったし、家には備蓄の食料など一切なかったので、私が腹が減っていると答えた場合、彼は来た道をそのまま引き返してコンビニでパンかおにぎりか何かしらを買ってきた。私は好き嫌いが多かったので、ほとんどの場合パンの中身やおにぎりの具を残したが、男がそれを食べさせようとしたことはなかった。あの人も多分、食育という概念のない家出育ったのだろう。来る途中にコンビニに寄ってきた方が手間が省けただろうと思うが、男は一度もそうはしなかった。今思うと、私から離れたかったのだと思う。離れて、本当にあの子供の面倒を見るのか自問自答して、それで結局はいつも戻ってきていたのだと思う。あの人は決して、子供も私も好きではなかった。
 私がものを食べている間、男は必ずと言っていいほど洗濯機を回していた。掃除をしているのは見たことがないのだが、洗濯は好きだったらしい。きちんと色別、素材別に分けた洗濯物を、銘々に最適なモードや洗剤で洗い上げては干していた。男が時々買ってくるワンピースやスカートの繊細なリボンやレースは、何度洗われても買ってきたばかりの時と同じシルエットを保っていたほどだ。だから私の母親がアル中であるという事実は、近所にも学校にも広まらなかったのだろう。それが私にとって幸運だったのか不運だったのかは、今になってもよく分らない。
 私が初めて男の背中の刺青を視認したのも、彼が洗面所で洗濯機を回しているときだった。その日男が買ってきたのは卵サンドで、卵が嫌いだった私はその卵サンドの卵サンドたる部分をスプーンですっかり削り取って食べていたのだが、そのスプーンを握っていた手もすっかり卵まみれになってしまったために、洗面所まで手を洗いに行ったのだ。 私が洗面所の擦り硝子を開けて中を覗いた時、男は身に着けていた黒いトレーナーを脱いで洗濯機に入れようとしていた。私の視界はすっかり金魚と流水紋と菊の花で埋め尽くされたのである。
 ドアに手をかけたまま唖然とする私に気が付いた男は、黙ったまま半分濡れたトレーナーを着直した。厚い布地に染み込んだ水が男の足もとまで滴っていた。私はどうしていいのか分からないまま、洗面台の前に立った。男はやはり黙ったまま、私用の赤いプラスチックの踏み台をセットしてくれた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

初体験の話

東雲
恋愛
筋金入りの年上好きな私の 誰にも言えない17歳の初体験の話。

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...