6 / 44
6
しおりを挟む
私は卵まみれの手を洗い、男は濡れたトレーナーのまま洗濯機の蓋を閉め、スイッチを押した。手を洗い終わった私はリビングのテレビの前に戻ったのだが、男はその日は母親が帰宅してくるまでずっと洗面所から出てこなかった。その日、夕方になって帰ってきた母は酒を飲んでいなかったので、私は久々に母親の手料理を食べた。狭いリビングにもキッチンにも三人で一緒に座れるような大きさのテーブルはないため、私はリビングの床に座って、男はキッチンのシンクに立ったまま、母親はキッチンのシンクに小さな椅子を運んで、それぞれ勝手に食べ始め食べ終わる。
母は決して家庭的な人ではなかったのに、なぜだか料理だけはとても上手かった。部屋の片づけも洗濯も娘の世話もなにひとつしない人だったのに、完璧なおふくろの味を作れる人だった。私は今でもそれが不思議で仕方ない。あの人もどうせ、食育という概念がない家で育ったはずなのに、なぜ。
私のいないキッチンからは、一言の話し声も聞こえてはこなかった。9歳まで暮らしたあの家で、私は母とあの男が恋人らしく仲睦まじくしている姿を一度も見たことがない。 それどころか、言葉を交わしているところだって見たことがないくらいだ。私が眠った後や、幼稚園や小学校に行っている間には恋人らしいふるまいをしていたのだろうと思ってはみても、なぜだか二人が寄り添っている姿は想像ができなかった。あの男は私を好きではないのと同じくらいに母のことも好きではないように見えたし、母は酒を飲むとあの男をひどく罵り、殴った。
やくざ、という単語を私が初めて聞いたのは、母が発した彼へ罵声の中であったのだと思う。
私はあの男のことが好きではなかった。それでも、彼がいるとき母の暴力は完全に彼の方に向いたから、その点では彼の来訪を内心望んでいたのかもしれない。
彼はリビングの床に座り、いつもじっと母の暴力を受けていた。苦痛の先にある悟りを求める修行僧か、自然災害を前になにもかもを諦めた農夫みたいな無抵抗。母はいつしか素手ではなく木製のハンガーや未開封のペットボトルで彼を殴るようにさえなり、一度ならず彼は脳震盪らしき症状で倒れもした。それでも彼はなぜだか、うちにやって来ては母に殴られていた。
母は決して家庭的な人ではなかったのに、なぜだか料理だけはとても上手かった。部屋の片づけも洗濯も娘の世話もなにひとつしない人だったのに、完璧なおふくろの味を作れる人だった。私は今でもそれが不思議で仕方ない。あの人もどうせ、食育という概念がない家で育ったはずなのに、なぜ。
私のいないキッチンからは、一言の話し声も聞こえてはこなかった。9歳まで暮らしたあの家で、私は母とあの男が恋人らしく仲睦まじくしている姿を一度も見たことがない。 それどころか、言葉を交わしているところだって見たことがないくらいだ。私が眠った後や、幼稚園や小学校に行っている間には恋人らしいふるまいをしていたのだろうと思ってはみても、なぜだか二人が寄り添っている姿は想像ができなかった。あの男は私を好きではないのと同じくらいに母のことも好きではないように見えたし、母は酒を飲むとあの男をひどく罵り、殴った。
やくざ、という単語を私が初めて聞いたのは、母が発した彼へ罵声の中であったのだと思う。
私はあの男のことが好きではなかった。それでも、彼がいるとき母の暴力は完全に彼の方に向いたから、その点では彼の来訪を内心望んでいたのかもしれない。
彼はリビングの床に座り、いつもじっと母の暴力を受けていた。苦痛の先にある悟りを求める修行僧か、自然災害を前になにもかもを諦めた農夫みたいな無抵抗。母はいつしか素手ではなく木製のハンガーや未開封のペットボトルで彼を殴るようにさえなり、一度ならず彼は脳震盪らしき症状で倒れもした。それでも彼はなぜだか、うちにやって来ては母に殴られていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる