美里

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大人の人を泣かせてしまったことに、夕は衝撃を受けた。正確にはその頃藤はまだ16歳で、大人と呼べる歳ではなかったが、9つの夕から見れば立派な大人に見えたのだ。
 「どうしたの、藤!?」
 焦って握りしめた手を揺さぶると、彼は涙を拭わないまま、俯きがちに笑って見せてくれた。
 「驚かせてしまって、申し訳ありません。」
 そう言って、藤は夕と視線を合わせた。切れ長の両目は、今にも溶けてしまいそうにうるんでいた。
 「……私は、ずっとここにはいられないでしょうから、いつかは帰りたいと思います。」
 「ずっと、いられないの? なんで?」
 噛みつくように問い返す子供に、藤は、言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
 「……いつか、旦那様が私を必要としなくなるときが、来るでしょうから。」
 幼い夕には、藤が言う事の意味は分からなかった。ただ、藤の妖精がいつかどこかに消えてしまうと、それだけを理解して、彼の華奢な両手を握り締めた。
 「どこに、行くの? 俺、会いに行っていい?」
 藤はふわりと微笑むと、夕の手をきゅっと握り返してくれた。
 「来てくれますか? 私に会いに。」
 「行くよ。だから、どこに行くか教えてよ。」
 必死に幼い舌をもつれさせる夕を、藤は優しく頷いて安心させてくれた。
 「私の故郷に帰るんです。……遠いところですよ。海の近くの小さな港町です。……ここからバスに乗って、終点まで行くと、赤い駅舎があります。そこから電車に乗って、はじめに海が見えた駅で降りて下さい。そこが、私の生まれた場所です。」
 「バスに乗って終点まで行って、赤い駅から電車に乗って、海が見えたら降りればいいんだね?」 
 「はい。」
 復唱までしたその道順を、どうして今まで忘れていたのだろう。
 とにかくその後すぐに、藤は夕の手をそっと離し、さあ、もう帰らないと、と、夕を母屋に返した。
 夕は、聞いたばかりの道順を、何度も復唱しながら母屋に戻った。その後その道順を紙に鉛筆で書いた記憶すらある。
 なぜ、それを今日の今日まで忘れていたのか。
 夕は、陽子の肩を掴んだ。
 「両方だ。」
 「え?」
 「海の近くの故郷の村だよ。」
 「思い出したんですね?」
 陽子は、白い歯を見せて、にっと笑った。
 「よかった。ここまで来て退散なんて、ちょっとできないですからね。」
 

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