水面に月

美里

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 彬から電話があったのは、家について、ソファにひっくり返り、煙草に火をつけた瞬間だった。もちろんこれまで彬から着信なんか、あったためしはない。佐原は、スマホのディスプレイに浮かぶ彬のアイコンを、なにかの間違いじゃないかと驚きながら凝視し、それから慌てて電話を取った。
 「彬? どうした。」
 『……。』
 電話の向こうで、彬は沈黙していた。その背後に、街の雑踏が聞こえる。もういつもならとうに家についている時間なのに、と思えばおのずと電話の理由に見当はついた。
 「相方と、なにかあった?」
 自分の発した言葉の語尾が、わずかに掠れているのが分かる。これは、醜い期待だ。沈黙していてなおわかるくらい弱っている彬に、もしかしたら、今なら付け込めるのではないかと。だって、いつもなら硬く佐原を跳ね返す、彬の無感情が、今日は確実に崩れている。
 「今、どこ?」
 『……外。』
 「それは分かるけど、具体的に。」
 『……駅。』
 短い言葉だけを吐き出す彬の声は、微かに震え、佐原を頼るような色さえあった。いつでもつっぱって佐原を突き放す彬とは別人みたいだ。
 『おっさん、』
 「ん?」
 『家、行っていい?』
 「家?」
 動揺した。彬の口からそんな台詞が出るとは思っていなかったので。
 家って、俺の家? 行っていいって、お前が一人で? 来るってこと? ここに? 
 佐原の無言の間を、彬はどう取ったのだろうか。ぷつん、と、向こうから電話が切れた。あっさり置き去りにされた佐原は、あっけにとられたまま、それでも電話を掛け直した。自分でも信じられないくらい焦って、指が空回りする。何回コールしたか、焦りすぎてよく分からなかった。かなり長い時間がかかったような気がしたが、とにかく、彬は電話に出た。一つ息をつき、自分を落ち着かせてから慎重に言葉を紡ぐ。今の彬は、いつもに勝って、まさに手負いの野良猫状態だ。
 「まだ、駅にいる?」
 『……いる。』
 佐原は、焦りが拭えないままの唇で、最寄駅を彬に教えた。彬がいるのであろう、彼の最寄り駅から、電車で一本。15分もかからない。
 「来れるか?」
 『……馬鹿にすんな。』
 いつもの憎まれ口にも、やはり常のキレと冷ややかさが足りない。電車乗る、と言って彬が電話を切る。佐原は物言わぬ板になったスマホを握ったまま、火をつけたまま右手の指に挟みっぱなしだった煙草を口に咥え、急いで家を出た。ここから最寄までは、5分程度。彬より早く到着するのは確実なのに、気持ちが急いて仕方がなかった。
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