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第十章
私を呼んで 7 彼女も同じ香り?
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「さあ、百数えたわよ!」
玄関で数を数えていたポーレットは少し大きめの声で告げる。本当は足音で二階への階段を上ったのは分かっていたが、わざとらしく一階を探す。
「この大きな壷の後ろかしら? まあ、違ったわ!」
二階まで届くように、声を張り上げる。
使用人たちはポーレットのわざとらしい演技を微笑ましく見守っていた。
「きっと二階ね!」
また大きめの声を上げ、階段を上がっていく。二階に上がって、さてどこだろうと見回して驚いた。書斎の扉が開いている・・・。こんな事は初めてだしフランシスの姿も見当たらない。書斎にいるのは間違いないだろう。小走りで書斎の前まで駆け寄った。
開け放たれた扉をノックしながら声をかけ、中を覗き込む。
「旦那様。フランシス様?」
部屋には誰もいないように見える。すると、笑い声がクスクスと聞こえてきた。
「フランシス様・・・? 失礼いたします」
ポーレットは書斎に入って、クスクス声を辿っていった。その声はバルコニーから聞こえてくる。ガラス戸を開けて外に出ると――
「見つかったあ!」
「見つかる前に言ってしまうのかい?」
ポーレットが驚いて振り返ると、カイトがフランシスを片手に抱いて、扉横の壁に寄り掛かっていた。ポーレットは一瞬何と言えばいいか分からず。
「見つけた・・・」
と言った後に、自分が適していない言葉を発した事に気付く。
「だ、旦那様! お仕事中に申し訳ありませんでした! さあ、フランシス様、いらして下さい」
ポーレットが両手を伸ばすと、フランシスは手を伸ばしてポーレットに移ろうとしたが、カイトが少し身体を引いてそれを留めた。
「フランシス、少しだけお部屋で待っていてくれないか?」
「うん」
カイトが下におろすと、フランシスが部屋の中に駆けていった。
「旦那様・・・?」
カイトが真っ直ぐにポーレットと視線を合わせて謝罪の言葉を口にした。
「ポーレット、この間はすまなかった。もう二度とあんな真似はしないから許してほしい」
`ああ、カイトだ ‘ 普通の領主だったら謝りもしないだろう。中には気に入った使用人に手をつける者もいる。
私の大好きな真っ直ぐなカイト――
「貴方の謝罪を受け入れます」
ポーレットは優雅に微笑んだ。そして、すぐにはっとする。今は姫ではない――
カイトも少し驚いた顔をしている。
「す、すいません! 大変失礼な事を申しました!」
「いや、君は・・・」
「ねぇ、まだぁ」
フランシスが顔を出す。
「あ、ああ待たせたね」
「旦那様もかくれんぼをしよう?」
「ごめん、今日は仕事があるから、また今度」
フランシスの顔が少し陰った。いつも父親に言われている台詞だ。そして、その約束は果たされた事がない。カイトはその事をすぐに察した。
「次に来る時に前もって連絡をくれたら、予定を空けておくよ」
「ほんとに・・・?」
「ああ、約束をする」
フランシスが嬉しそうにニッコリとした。開け放たれた書斎の入り口からノックの音がする。
「旦那様ベイジルでございます! ポーレットはこちらにおりますでしょうか?」
ポーレットが慌ててバルコニーから中に入り、後からフランシスを抱っこしたカイトが入ってきた。
「お仕事中に申し訳ありません。お客様方がもうお帰りになるので、フランシス様をお連れしに参りました」
「それなら私が連れていこう。さあポーレット、君も一緒に」
「はい、旦那様」
ポーレットが後に付き従う。玄関を出ると、リディスと残っているのは侯爵夫人だけだった。カイトが下ろすとすぐに母親の許へ駆け寄った。
「お母様!」
「フランシス、楽しかった?」
「うん! とっても!」
「さあ、馬車に乗って。もう、帰るわよ」
「お母様、僕お願いがあるの」
フランシスがスカートを引っ張ると、侯爵夫人が屈み込んだ。フランシスがこちらを見ながら何か囁いている。侯爵夫人は少し困り顔で姿勢を直した。
「ツェーンドルフ伯爵、折り入ってお願いがあるのですが」
「何でしょう? グナイハウゼン侯爵夫人」
「ポーレットを・・・私共にお譲り頂けないかしら?」
「ポーレットを?」
「ええ、いきなりで申し訳ないのだけど、フランシスは人見知りが激しくて、今までに乳母以外に懐いた事がないの。なのにその乳母が辞めてしまって、ほとほと困り果てていたの。他の人に、懐いたのはこれが初めてで、今も『一緒に来てほしい』って・・・是非お願いできないかしら?」
リリアーナは内心焦った。フランシスは可愛いし、大変嬉しい申し出ではあるがカイトから離れてしまったら、ここに来た第一の目的、思い出してもらう事ができなくなる。
「大変申し訳ないのですが、彼女は親友から頼まれた大切なお嬢さんで、他家にお譲りすることはできないんです」
侯爵夫人は溜息をついた。
「そうなの・・・分かったわ。残念だけど仕様がないわね」
フランシスが見るからにしゅんと肩を落としている。
「もし良かったら、来週の水曜日に遊びにいらっしゃいませんか? ポーレットを馬車に乗せて迎えにやらせますから、フランシスだけでも構いません。いかがでしょうか?」
侯爵夫人がフランシスを見ると、嬉しそうに瞳をキラキラさせて大きく頷いている。
「ありがとうございます。ツェーンドルフ伯爵」
侯爵夫人も息子の笑顔を見て嬉しそうだ。
二人が乗った馬車を見送った後にリディスもほっとしていた。ポーレットは珍しくベイゼルが気に入った娘だ。綻びの事も知っているし、二人にはこの世界を修復する手伝いをさせたい。
でも・・・カイトは何故あんな嘘を・・・? リディスがカイトに目を向けると、その疑問にカイトが答えた。
「君が首にしないでと言っていたし、ベイゼルに前の主人に特別に頼まれたと聞いていたから、断ったのだが・・・それにフランシスはきっとこれからポーレットに会いによく遊びに来るだろう。侯爵家と懇意になるチャンスではないのかい?」
「確かにその通りね」
自分の考えすぎだわ、と二人並んで屋敷に入った。
リリアーナも胸を撫で下ろす。カイトの傍を離れずに済んだし、今のところ怪しまれてもいない。でもこのままでは駄目だ。思い出してもらう為に何か行動しなければ。
次の日は日曜日で、教会へ行った後に村の香水屋に足を運んだ。化粧品や、装飾品なども置いてあって、女性に人気のお店である。そこですずらんの香水を買おうとした。一週間分のお給金を頂いたのだが、香水は高級品。量り売りで少量から買えるが、それでもほんの少しお金が足りなかった。
しょんぼりしているポーレットを見て、店の主人が店内をキョロキョロと見回す。他にお客が居ないのを確認すると、『内緒だよ』と、小瓶に1/4オンス(7.5ml)入れて、手持ちのお金だけで売ってくれた。
「ありがとう――」
ポーレットの嬉しそうな顔を見て、店の主人も大いに照れる。
グリセルダ達とカフェで待ち合わせをしていたが、お金がなくなってしまったので、`お腹が痛い ‘ と断りに行く。本当のことを言ったら、奢ってくれようとするだろう。そうなったら彼女達に申し訳ない。メイドのお給金は決して多くはないのだから。
屋敷に帰ると、霧吹きの容器に水を入れ、すずらんの香水もほんの少し入れ、ハンカチに吹き付けてアイロンをかけた。すずらんはカイトの好きな香りだ。思い出すきっかけになるかもしれないし、忙しく仕事をしているカイトが心癒されればと思って買ってきた。
月曜日、ポーレットは書斎の掃除を終わらせた後に、机の上にハンカチと`ありがとうございました ‘ と書いたメモを添えて置いた。本当はカードを買いたかったのだが、香水を買ってお金がなくなってしまったので、メモ帳で代用する。
カイトは朝食後、すぐ書斎に向かった。水曜日にフランシスが来る。できれば約束どおり、一緒に遊ぶ時間を作りたい。そのためには少しでも仕事を片付けておかなければ。書斎に入り、まっすぐに机へと向かう。椅子に座ろうとすると白いハンカチが目に入った。
(これはあの時の・・・)
ポーレットが泣いた時に自分が差し出したハンカチだ。手に取ると、良い香りがほんのりとカイトを包んだ。
それはすずらんの香りで自分の好きな香りでもある。メモ帳には綺麗な文字で`ありがとうございました ‘ とだけ書いてあった。その一言だけなのも控えめで好感がもてる。 カイトはハンカチをポケットにしまった。
火曜日、ポーレットは書斎の掃除をしていた。最後にやり残しはないか点検していたところで、扉が開いて閉じる音がした。視線を向けるとカイトが扉を背にして、こちらを見ている。
「おはようポーレット」
「おはようございます。旦那様」
ポーレットは一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに笑顔で挨拶を返した。
「もう掃除は終わりました」
掃除道具を持って部屋を出ようとすると、肘を掴んで止められた。
「待ってくれ。これのお礼が言いたかったんだ」
カイトがポケットからハンカチを取り出した。
「ありがとう。綺麗にアイロンをかけてくれて、香りも、私の好きな香りだ」
「お気に召して頂けたなら何よりです」
ポーレットが嬉しそうに笑顔を見せた。
「すずらんの香水は君が普段使っているのかい?」
「いいえ、以前は使っていたこともあるのですが、高いので今は使っておりません。でも、まだ残っているから、なくなるまでは使おうと思っています」
「という事は、君はわざわざこのハンカチのために買ってきたのか? 給金では足りなかっただろう?」
しまった、このことを言うつもりはなかったのに。押し付けがましく思われないだろうか?
「あ、あの、お店のご主人がおまけしてくれたのです。足りなかったけど、他にお客さんがいなくて、内緒でって・・・」
下を向いてしまったポーレットにカイトが優しく言い添えた。
「いいや、私が言わせたのだから」
カイトはポケットから財布を取り出すと、金貨を一枚取り出してポーレットの手の平に置いた。
「これからは君にハンカチを洗ってもらうから、そのすずらんの香りで仕上げてくれ。この金貨は香水代だ」
「これだと、一番大きいボトルでもお釣りがきてしまいます!」
「あとは君の手間賃で正当に受け取るべきものだ」
「でも・・・」
「お願いだ」
真摯な目で見つめられて、どぎまぎして目を伏せる。
「かしこまりました」
ほんのりと頬を赤らめて、ポーレットは退室した。
彼女が退室してくれて助かった――
カイトは椅子に座ると、溜息をついた。まさか自分のハンカチのために、給金を使い果たすとは・・・彼女と距離を置こうとしているのに、惹かれるような良い面ばかりを知ることとなる。
頬を赤らめたポーレットは大変愛らしく、腕の中に抱きすくめたくなった。
先日も侯爵夫人の頼みを断ったのは、リディスでもベイジルのためでもない、単に自分が手放したくなかっただけだ。
`もう二度とあんな真似はしない ‘ そう言った舌の根も乾かない内に・・・
おまけに自分は既婚者で、こんな想いは封じ込めなければいけない。
カイトはハンカチを机の上に出すと、何とはなしにそれを見つめた。
彼女も同じ香りがするのだろうか――
明日は水曜日、フランシスが遊びに来る。
#この作品における表現、文章、言葉、またそれらが持つ雰囲気の転用はご遠慮下さい。
玄関で数を数えていたポーレットは少し大きめの声で告げる。本当は足音で二階への階段を上ったのは分かっていたが、わざとらしく一階を探す。
「この大きな壷の後ろかしら? まあ、違ったわ!」
二階まで届くように、声を張り上げる。
使用人たちはポーレットのわざとらしい演技を微笑ましく見守っていた。
「きっと二階ね!」
また大きめの声を上げ、階段を上がっていく。二階に上がって、さてどこだろうと見回して驚いた。書斎の扉が開いている・・・。こんな事は初めてだしフランシスの姿も見当たらない。書斎にいるのは間違いないだろう。小走りで書斎の前まで駆け寄った。
開け放たれた扉をノックしながら声をかけ、中を覗き込む。
「旦那様。フランシス様?」
部屋には誰もいないように見える。すると、笑い声がクスクスと聞こえてきた。
「フランシス様・・・? 失礼いたします」
ポーレットは書斎に入って、クスクス声を辿っていった。その声はバルコニーから聞こえてくる。ガラス戸を開けて外に出ると――
「見つかったあ!」
「見つかる前に言ってしまうのかい?」
ポーレットが驚いて振り返ると、カイトがフランシスを片手に抱いて、扉横の壁に寄り掛かっていた。ポーレットは一瞬何と言えばいいか分からず。
「見つけた・・・」
と言った後に、自分が適していない言葉を発した事に気付く。
「だ、旦那様! お仕事中に申し訳ありませんでした! さあ、フランシス様、いらして下さい」
ポーレットが両手を伸ばすと、フランシスは手を伸ばしてポーレットに移ろうとしたが、カイトが少し身体を引いてそれを留めた。
「フランシス、少しだけお部屋で待っていてくれないか?」
「うん」
カイトが下におろすと、フランシスが部屋の中に駆けていった。
「旦那様・・・?」
カイトが真っ直ぐにポーレットと視線を合わせて謝罪の言葉を口にした。
「ポーレット、この間はすまなかった。もう二度とあんな真似はしないから許してほしい」
`ああ、カイトだ ‘ 普通の領主だったら謝りもしないだろう。中には気に入った使用人に手をつける者もいる。
私の大好きな真っ直ぐなカイト――
「貴方の謝罪を受け入れます」
ポーレットは優雅に微笑んだ。そして、すぐにはっとする。今は姫ではない――
カイトも少し驚いた顔をしている。
「す、すいません! 大変失礼な事を申しました!」
「いや、君は・・・」
「ねぇ、まだぁ」
フランシスが顔を出す。
「あ、ああ待たせたね」
「旦那様もかくれんぼをしよう?」
「ごめん、今日は仕事があるから、また今度」
フランシスの顔が少し陰った。いつも父親に言われている台詞だ。そして、その約束は果たされた事がない。カイトはその事をすぐに察した。
「次に来る時に前もって連絡をくれたら、予定を空けておくよ」
「ほんとに・・・?」
「ああ、約束をする」
フランシスが嬉しそうにニッコリとした。開け放たれた書斎の入り口からノックの音がする。
「旦那様ベイジルでございます! ポーレットはこちらにおりますでしょうか?」
ポーレットが慌ててバルコニーから中に入り、後からフランシスを抱っこしたカイトが入ってきた。
「お仕事中に申し訳ありません。お客様方がもうお帰りになるので、フランシス様をお連れしに参りました」
「それなら私が連れていこう。さあポーレット、君も一緒に」
「はい、旦那様」
ポーレットが後に付き従う。玄関を出ると、リディスと残っているのは侯爵夫人だけだった。カイトが下ろすとすぐに母親の許へ駆け寄った。
「お母様!」
「フランシス、楽しかった?」
「うん! とっても!」
「さあ、馬車に乗って。もう、帰るわよ」
「お母様、僕お願いがあるの」
フランシスがスカートを引っ張ると、侯爵夫人が屈み込んだ。フランシスがこちらを見ながら何か囁いている。侯爵夫人は少し困り顔で姿勢を直した。
「ツェーンドルフ伯爵、折り入ってお願いがあるのですが」
「何でしょう? グナイハウゼン侯爵夫人」
「ポーレットを・・・私共にお譲り頂けないかしら?」
「ポーレットを?」
「ええ、いきなりで申し訳ないのだけど、フランシスは人見知りが激しくて、今までに乳母以外に懐いた事がないの。なのにその乳母が辞めてしまって、ほとほと困り果てていたの。他の人に、懐いたのはこれが初めてで、今も『一緒に来てほしい』って・・・是非お願いできないかしら?」
リリアーナは内心焦った。フランシスは可愛いし、大変嬉しい申し出ではあるがカイトから離れてしまったら、ここに来た第一の目的、思い出してもらう事ができなくなる。
「大変申し訳ないのですが、彼女は親友から頼まれた大切なお嬢さんで、他家にお譲りすることはできないんです」
侯爵夫人は溜息をついた。
「そうなの・・・分かったわ。残念だけど仕様がないわね」
フランシスが見るからにしゅんと肩を落としている。
「もし良かったら、来週の水曜日に遊びにいらっしゃいませんか? ポーレットを馬車に乗せて迎えにやらせますから、フランシスだけでも構いません。いかがでしょうか?」
侯爵夫人がフランシスを見ると、嬉しそうに瞳をキラキラさせて大きく頷いている。
「ありがとうございます。ツェーンドルフ伯爵」
侯爵夫人も息子の笑顔を見て嬉しそうだ。
二人が乗った馬車を見送った後にリディスもほっとしていた。ポーレットは珍しくベイゼルが気に入った娘だ。綻びの事も知っているし、二人にはこの世界を修復する手伝いをさせたい。
でも・・・カイトは何故あんな嘘を・・・? リディスがカイトに目を向けると、その疑問にカイトが答えた。
「君が首にしないでと言っていたし、ベイゼルに前の主人に特別に頼まれたと聞いていたから、断ったのだが・・・それにフランシスはきっとこれからポーレットに会いによく遊びに来るだろう。侯爵家と懇意になるチャンスではないのかい?」
「確かにその通りね」
自分の考えすぎだわ、と二人並んで屋敷に入った。
リリアーナも胸を撫で下ろす。カイトの傍を離れずに済んだし、今のところ怪しまれてもいない。でもこのままでは駄目だ。思い出してもらう為に何か行動しなければ。
次の日は日曜日で、教会へ行った後に村の香水屋に足を運んだ。化粧品や、装飾品なども置いてあって、女性に人気のお店である。そこですずらんの香水を買おうとした。一週間分のお給金を頂いたのだが、香水は高級品。量り売りで少量から買えるが、それでもほんの少しお金が足りなかった。
しょんぼりしているポーレットを見て、店の主人が店内をキョロキョロと見回す。他にお客が居ないのを確認すると、『内緒だよ』と、小瓶に1/4オンス(7.5ml)入れて、手持ちのお金だけで売ってくれた。
「ありがとう――」
ポーレットの嬉しそうな顔を見て、店の主人も大いに照れる。
グリセルダ達とカフェで待ち合わせをしていたが、お金がなくなってしまったので、`お腹が痛い ‘ と断りに行く。本当のことを言ったら、奢ってくれようとするだろう。そうなったら彼女達に申し訳ない。メイドのお給金は決して多くはないのだから。
屋敷に帰ると、霧吹きの容器に水を入れ、すずらんの香水もほんの少し入れ、ハンカチに吹き付けてアイロンをかけた。すずらんはカイトの好きな香りだ。思い出すきっかけになるかもしれないし、忙しく仕事をしているカイトが心癒されればと思って買ってきた。
月曜日、ポーレットは書斎の掃除を終わらせた後に、机の上にハンカチと`ありがとうございました ‘ と書いたメモを添えて置いた。本当はカードを買いたかったのだが、香水を買ってお金がなくなってしまったので、メモ帳で代用する。
カイトは朝食後、すぐ書斎に向かった。水曜日にフランシスが来る。できれば約束どおり、一緒に遊ぶ時間を作りたい。そのためには少しでも仕事を片付けておかなければ。書斎に入り、まっすぐに机へと向かう。椅子に座ろうとすると白いハンカチが目に入った。
(これはあの時の・・・)
ポーレットが泣いた時に自分が差し出したハンカチだ。手に取ると、良い香りがほんのりとカイトを包んだ。
それはすずらんの香りで自分の好きな香りでもある。メモ帳には綺麗な文字で`ありがとうございました ‘ とだけ書いてあった。その一言だけなのも控えめで好感がもてる。 カイトはハンカチをポケットにしまった。
火曜日、ポーレットは書斎の掃除をしていた。最後にやり残しはないか点検していたところで、扉が開いて閉じる音がした。視線を向けるとカイトが扉を背にして、こちらを見ている。
「おはようポーレット」
「おはようございます。旦那様」
ポーレットは一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに笑顔で挨拶を返した。
「もう掃除は終わりました」
掃除道具を持って部屋を出ようとすると、肘を掴んで止められた。
「待ってくれ。これのお礼が言いたかったんだ」
カイトがポケットからハンカチを取り出した。
「ありがとう。綺麗にアイロンをかけてくれて、香りも、私の好きな香りだ」
「お気に召して頂けたなら何よりです」
ポーレットが嬉しそうに笑顔を見せた。
「すずらんの香水は君が普段使っているのかい?」
「いいえ、以前は使っていたこともあるのですが、高いので今は使っておりません。でも、まだ残っているから、なくなるまでは使おうと思っています」
「という事は、君はわざわざこのハンカチのために買ってきたのか? 給金では足りなかっただろう?」
しまった、このことを言うつもりはなかったのに。押し付けがましく思われないだろうか?
「あ、あの、お店のご主人がおまけしてくれたのです。足りなかったけど、他にお客さんがいなくて、内緒でって・・・」
下を向いてしまったポーレットにカイトが優しく言い添えた。
「いいや、私が言わせたのだから」
カイトはポケットから財布を取り出すと、金貨を一枚取り出してポーレットの手の平に置いた。
「これからは君にハンカチを洗ってもらうから、そのすずらんの香りで仕上げてくれ。この金貨は香水代だ」
「これだと、一番大きいボトルでもお釣りがきてしまいます!」
「あとは君の手間賃で正当に受け取るべきものだ」
「でも・・・」
「お願いだ」
真摯な目で見つめられて、どぎまぎして目を伏せる。
「かしこまりました」
ほんのりと頬を赤らめて、ポーレットは退室した。
彼女が退室してくれて助かった――
カイトは椅子に座ると、溜息をついた。まさか自分のハンカチのために、給金を使い果たすとは・・・彼女と距離を置こうとしているのに、惹かれるような良い面ばかりを知ることとなる。
頬を赤らめたポーレットは大変愛らしく、腕の中に抱きすくめたくなった。
先日も侯爵夫人の頼みを断ったのは、リディスでもベイジルのためでもない、単に自分が手放したくなかっただけだ。
`もう二度とあんな真似はしない ‘ そう言った舌の根も乾かない内に・・・
おまけに自分は既婚者で、こんな想いは封じ込めなければいけない。
カイトはハンカチを机の上に出すと、何とはなしにそれを見つめた。
彼女も同じ香りがするのだろうか――
明日は水曜日、フランシスが遊びに来る。
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