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第三話
20.
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結局、試合は日本が1-0で勝ちきった。
ざわめきをひしめかせながら観衆が一斉に帰途に就く。その人波に押されながら駅を目指している最中で、「ねぇ」と栞が袖を引いた。
「せっかく勝ったんだからさぁ、電話くらいしてあげれば?」
すぐ前を行く万智ちゃんと庄司の試合内容の語り口が飛び飛びで耳に届く。視界の端で、栞が身に纏っている青いユニフォームの裾が揺れる。
暗闇で見える由もないが、そこには折原が記したサインがあるのだなと思うと変な感じだった。
「そうだな」
「へ? 本気で?」
「本気でって。栞がしろって言ったんだろ」
「まぁ、そうなんだけど。佐野がそんな素直に頷くとは思わなかったって言うか、なんて言うか」
逡巡した後、栞がこてんと首を傾げた。
「どういう心境の変化って、聞いてもいい、のかな?」
「たいしたことじゃないけど」
食い下がる栞に、小さく苦笑する。
そう、本当にたいしたことじゃないのだ。
「ただ、いつまでも俺があのころに固執してんのも変な話だって、ようやく思っただけ。思った……っつうか思えたっつうか」
「そう、なんだ?」
「うん、そう。だってそもそもおかしいだろ。何年も前にちょっと一緒にプレーしたことがあるってだけで、そのころの面影ばっかり追ってるって」
折原は、あのころの折原じゃない。
今の俺を見てよ、と折原は言ったけれど、確かにそうだった。中高生だった頃、同じ時間を過ごしていた後輩は、もういない。
だからこれは俺の意識の問題なのだ、本当に。
「いつまでも過去の栄光にしがみついてんのも、みっともねぇし」
自嘲した俺を慰めるつもりだったのか、栞は「そう言うんじゃないと思うけどなぁ」と呟いた。
「まぁ佐野がそう思いたいんだったら、あたしはなんとも言えないけど。でも」
「え、なに? 悪い、聞こえなかった……」
「―――だねって言ったの。余計なお世話だと思うんだけど、ごめんね。お節介で」
話を終わらすように笑った栞が、腕を強く引く。
「ほら早く行かないと庄司たちとはぐれちゃうよ! 佐野、急いで!」
分かった、と応じようとした瞬間、ポケットに入れていた携帯が震えた。取り出した先に表示された名前に一瞬息を呑む。
……なんで今、かけてきてんの、おまえ。
驚愕と、躊躇いと、隠しきれない嬉しさとが綯い交ぜになったまま、「悪い」と栞に声をかける。
「ちょっと、電話。悪ぃけど、庄司たちと合流して先行ってて」
「了解! ちゃんと後で連絡してねー!」
大きく手を振った栞が前方を行く二人と合流したのを視認して、通話ボタンを押す。飛び込んできたのは、このところずっと頭から離れてくれなかった後輩のもので。
「先輩! うわ、出てくれた! マジ嬉しいんスけど、ねぇ、俺のゴール見た!?」
「見てねぇわけねぇだろ。っつか、おまえこそ電話していいのかよ」
「うん、いいの! ちょっとだけだから! ねぇ、先輩、俺、どうだった?」
本当、折原はおまえに褒めてもらいたがるよな。だから犬なんだってあいつ。絶対犬属性だろ。佐野に構ってもらって嬉しいとか絶対あいつマゾ。
うっせぇな、おまえら。他人事だと思って好き勝手言ってんなよ。
げ、やべぇこっちに飛んできた。マジこえー。佐野先輩怖いっすよー。
似てねぇ物まねするんじゃねぇよ。こらおまえら、あんまり騒ぐな。
――なんであの頃とは違うって思いきったはずなのに、こんなするっと脳裏に浮かぶかな。
昔のチームメイトの声が次々によぎってくるけれど、不思議とあまり嫌だとは思わなかった。
「さすがだよな」と意識せずとも穏やかな声を出すことが出来るのも不思議だったけれど、嬉しくないわけがない。
「うん、さすが。あの頃とは全然違った」
身体のつくりもプレーの質も。周りにいるチームメイトも。
「でしょ!? でも、なんだかんだでそこまで変わってないとも言われるんスけどねー。しょうもないミスするとことか」
「いや、変わったよ」
「……先輩? どうかした?」
あぁもうこいつは本当に無駄に敏い。電話口の先で怪訝な顔をしている折原が瞬時に思い浮かんでしまって、そっと目を伏せた。
でも――。そうだな、強いて言うなら。
「どうもしねぇよ、あ、そうだ。折原」
「なんですか?」
「俺、今度深山の飲み会行くわ」
言った瞬間、折原は沈黙して、それから「本当に、本当ですかそれ!」と食いついてくる。必死の形相で言ってるんだろうそれに自然と笑みが浮かぶ。
「おぉ、久々に。っつかいい加減、顔出さねぇとなぁとは思ってたし。富原、俺の都合に合わせてくれるって言ってたし」
「金曜とか土曜は止めてくださいね! 俺、次の日試合とかだとちょっときついんで!」
「おーじゃあその辺りで日程調整頼むか」
「ちょ、先輩、ひでぇ! 俺だって出たいんすよ!? 俺いつかあんたが来てくれるんじゃないかってそれだけで、100パーセントに近い出席率誇ってたんスからね!?」
「へぇそうなんだ」
「そうなんスよ! あぁ……もう、なんかもういいっすけど、いや良くないっすけど! どういう心境の変化なんスかって……いややっぱ良いッス! 今度会ったとき聞かせてください」
そろそろ戻らないとヤバいんス、俺。心底切りたくなさそうに呟いた折原に、戻れよアホ。と軽口で返して、それ以上の何かを言われる前に通話を打ち切った。
切る直前、折原の声が聞えたようだったけれど、何を言っていたのかは分からなかった。
あのころの自分を特別視していた折原が、今も何か俺に対して屈託を持っているとしたら、それ俺が中途半端に飲み下させたからで。それだけのはずで。
そうでなければ、引きずるはずのないものだったはずだ。
だとしたら、それは……。
そこで俺は打ち消すように緩くかぶりを振った。
そして思いきるように「そうだよな」と一人ごちる。
今の折原が今の俺と直接交流を持ったのなら、きっと折原の中で過去はいつか昇華されていく。
過去の幻影は消えるのだ。
俺が、いつまでも折原を、自分だけの後を追ってきていた後輩だと思い込もうとしていたのと同じように。
傲慢にも折原を自分のもののように思ってしまっていたのと同じように。
消えるまで、塗りつぶされるまでの間、折原の傍にいることは、今の俺だったら、できるような気がした。
そうしていつかまた、ただの先輩と後輩に、昔のチームメイトに戻って、だらだらと交流が続く。そんなごく当たり前の未来へと繋がっていく。
折原はそのころ、日本から飛び出しているかもしれないけれど。俺のことも忘れるかもしれないけど。それならそれで、別にかまわないと思った。
俺はきっと、覚えてしまっているから。
初恋の亡霊、と呟いた栞の声が脳内で反響していた。
忘れられないのは初めての恋だったからなのか。口に出す前に消えてしまった言霊が彷徨っているからなのか。
それともーー……。
考えたくない思考は捨て置いて、でもそれでもと、ふと思ってしまった。
今朝、夢で見たのは、間違いなくそれだったのだろう。
あれは、どうしようもない俺の未練だった。
【第一部END】
ざわめきをひしめかせながら観衆が一斉に帰途に就く。その人波に押されながら駅を目指している最中で、「ねぇ」と栞が袖を引いた。
「せっかく勝ったんだからさぁ、電話くらいしてあげれば?」
すぐ前を行く万智ちゃんと庄司の試合内容の語り口が飛び飛びで耳に届く。視界の端で、栞が身に纏っている青いユニフォームの裾が揺れる。
暗闇で見える由もないが、そこには折原が記したサインがあるのだなと思うと変な感じだった。
「そうだな」
「へ? 本気で?」
「本気でって。栞がしろって言ったんだろ」
「まぁ、そうなんだけど。佐野がそんな素直に頷くとは思わなかったって言うか、なんて言うか」
逡巡した後、栞がこてんと首を傾げた。
「どういう心境の変化って、聞いてもいい、のかな?」
「たいしたことじゃないけど」
食い下がる栞に、小さく苦笑する。
そう、本当にたいしたことじゃないのだ。
「ただ、いつまでも俺があのころに固執してんのも変な話だって、ようやく思っただけ。思った……っつうか思えたっつうか」
「そう、なんだ?」
「うん、そう。だってそもそもおかしいだろ。何年も前にちょっと一緒にプレーしたことがあるってだけで、そのころの面影ばっかり追ってるって」
折原は、あのころの折原じゃない。
今の俺を見てよ、と折原は言ったけれど、確かにそうだった。中高生だった頃、同じ時間を過ごしていた後輩は、もういない。
だからこれは俺の意識の問題なのだ、本当に。
「いつまでも過去の栄光にしがみついてんのも、みっともねぇし」
自嘲した俺を慰めるつもりだったのか、栞は「そう言うんじゃないと思うけどなぁ」と呟いた。
「まぁ佐野がそう思いたいんだったら、あたしはなんとも言えないけど。でも」
「え、なに? 悪い、聞こえなかった……」
「―――だねって言ったの。余計なお世話だと思うんだけど、ごめんね。お節介で」
話を終わらすように笑った栞が、腕を強く引く。
「ほら早く行かないと庄司たちとはぐれちゃうよ! 佐野、急いで!」
分かった、と応じようとした瞬間、ポケットに入れていた携帯が震えた。取り出した先に表示された名前に一瞬息を呑む。
……なんで今、かけてきてんの、おまえ。
驚愕と、躊躇いと、隠しきれない嬉しさとが綯い交ぜになったまま、「悪い」と栞に声をかける。
「ちょっと、電話。悪ぃけど、庄司たちと合流して先行ってて」
「了解! ちゃんと後で連絡してねー!」
大きく手を振った栞が前方を行く二人と合流したのを視認して、通話ボタンを押す。飛び込んできたのは、このところずっと頭から離れてくれなかった後輩のもので。
「先輩! うわ、出てくれた! マジ嬉しいんスけど、ねぇ、俺のゴール見た!?」
「見てねぇわけねぇだろ。っつか、おまえこそ電話していいのかよ」
「うん、いいの! ちょっとだけだから! ねぇ、先輩、俺、どうだった?」
本当、折原はおまえに褒めてもらいたがるよな。だから犬なんだってあいつ。絶対犬属性だろ。佐野に構ってもらって嬉しいとか絶対あいつマゾ。
うっせぇな、おまえら。他人事だと思って好き勝手言ってんなよ。
げ、やべぇこっちに飛んできた。マジこえー。佐野先輩怖いっすよー。
似てねぇ物まねするんじゃねぇよ。こらおまえら、あんまり騒ぐな。
――なんであの頃とは違うって思いきったはずなのに、こんなするっと脳裏に浮かぶかな。
昔のチームメイトの声が次々によぎってくるけれど、不思議とあまり嫌だとは思わなかった。
「さすがだよな」と意識せずとも穏やかな声を出すことが出来るのも不思議だったけれど、嬉しくないわけがない。
「うん、さすが。あの頃とは全然違った」
身体のつくりもプレーの質も。周りにいるチームメイトも。
「でしょ!? でも、なんだかんだでそこまで変わってないとも言われるんスけどねー。しょうもないミスするとことか」
「いや、変わったよ」
「……先輩? どうかした?」
あぁもうこいつは本当に無駄に敏い。電話口の先で怪訝な顔をしている折原が瞬時に思い浮かんでしまって、そっと目を伏せた。
でも――。そうだな、強いて言うなら。
「どうもしねぇよ、あ、そうだ。折原」
「なんですか?」
「俺、今度深山の飲み会行くわ」
言った瞬間、折原は沈黙して、それから「本当に、本当ですかそれ!」と食いついてくる。必死の形相で言ってるんだろうそれに自然と笑みが浮かぶ。
「おぉ、久々に。っつかいい加減、顔出さねぇとなぁとは思ってたし。富原、俺の都合に合わせてくれるって言ってたし」
「金曜とか土曜は止めてくださいね! 俺、次の日試合とかだとちょっときついんで!」
「おーじゃあその辺りで日程調整頼むか」
「ちょ、先輩、ひでぇ! 俺だって出たいんすよ!? 俺いつかあんたが来てくれるんじゃないかってそれだけで、100パーセントに近い出席率誇ってたんスからね!?」
「へぇそうなんだ」
「そうなんスよ! あぁ……もう、なんかもういいっすけど、いや良くないっすけど! どういう心境の変化なんスかって……いややっぱ良いッス! 今度会ったとき聞かせてください」
そろそろ戻らないとヤバいんス、俺。心底切りたくなさそうに呟いた折原に、戻れよアホ。と軽口で返して、それ以上の何かを言われる前に通話を打ち切った。
切る直前、折原の声が聞えたようだったけれど、何を言っていたのかは分からなかった。
あのころの自分を特別視していた折原が、今も何か俺に対して屈託を持っているとしたら、それ俺が中途半端に飲み下させたからで。それだけのはずで。
そうでなければ、引きずるはずのないものだったはずだ。
だとしたら、それは……。
そこで俺は打ち消すように緩くかぶりを振った。
そして思いきるように「そうだよな」と一人ごちる。
今の折原が今の俺と直接交流を持ったのなら、きっと折原の中で過去はいつか昇華されていく。
過去の幻影は消えるのだ。
俺が、いつまでも折原を、自分だけの後を追ってきていた後輩だと思い込もうとしていたのと同じように。
傲慢にも折原を自分のもののように思ってしまっていたのと同じように。
消えるまで、塗りつぶされるまでの間、折原の傍にいることは、今の俺だったら、できるような気がした。
そうしていつかまた、ただの先輩と後輩に、昔のチームメイトに戻って、だらだらと交流が続く。そんなごく当たり前の未来へと繋がっていく。
折原はそのころ、日本から飛び出しているかもしれないけれど。俺のことも忘れるかもしれないけど。それならそれで、別にかまわないと思った。
俺はきっと、覚えてしまっているから。
初恋の亡霊、と呟いた栞の声が脳内で反響していた。
忘れられないのは初めての恋だったからなのか。口に出す前に消えてしまった言霊が彷徨っているからなのか。
それともーー……。
考えたくない思考は捨て置いて、でもそれでもと、ふと思ってしまった。
今朝、夢で見たのは、間違いなくそれだったのだろう。
あれは、どうしようもない俺の未練だった。
【第一部END】
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