36 / 98
第六話
35.
しおりを挟む
レポートの最後の考察を打ち終えて、上書き保存のボタンを押してしまうと、本格的にすることがなくなってしまった。
自分のその思考にさすがに嫌気がさして、そんなことはないだろうと思い直そうとしてはみたのだけれども。
「……さすがにもうねぇな」
いや、正確に表すならば、ここ一月分ほどのやるべきこと・やっておいた方が良いだろうことを、すべて手当たり次第にやってしまっただけ、か。
何もしないでいると、ついついろくでもないことを考えるような気がして、忙しさを求めて逃げていただけではあるのだけれど、そこで酒に逃げたりしないあたりは、まだ正常に脳が働いている証拠かもしれなかった。
庄司あたりには、この一週間、顔を合わすたびに「飲み行く?」と水を向けてくれていたが、すべて断らせてもらっていた。
理性が揺らぐのは、怖い。
そう思うのは、揺らぎそうになるなにかがあるということで。
ピンポンと、あまり鳴らないチャイムが遠慮がちに響いて、思考が現実に戻ってきた。
誰だろうと疑念が頭をかすめたが、どうせ庄司あたりだろうと結論付ける。こんなところにまでやってくるおせっかいは、あいつくらいで十分だ。
「富原?」
だから、そこにいた人物は、多少意外な相手だった。
といっても、5年ほど昔であったならば、以外でもなんでもない手合いではあったのだけれど。
あのころ、いつも部員の面倒をみていたのは、この男だった。
「避けられるのは別に良いんですけど」
「は?」
「全く連絡が付かない状態って言うのは、心配なんで、できたらやめてください」
開口一番、棒読みされた台詞に思わずぽかんと見上げてしまった。その先で、富原が眦を下げた。
「……あいつか」
知らないうちに漏れ出てしまった正解に、富原が「そりゃ心配にもなるだろ」と苦笑する。
「うちの大学で、一人暮らししてた同級生が、あ、男だけどな。うっかり一週間携帯の電源落としたままにしてたら、そいつの母親から大学に問い合わせ入ってたぞ」
「……」
「おまえは大丈夫だろうな」
暗に、どころではなく、間違いなく責められている。
そしてそれにぐうの音も出ないのは、俺が悪いのだろうと自覚はしているからだ。
「別に、音信不通になってたわけじゃねぇ……つもり、なんだけど」
「たとえば、折原がおまえと同じ大学に通ってて、どこからかでも顔が見えるならそうかもな」
「何言ったわけ。おまえに。あいつ」
ふてくされたような声になったと、自分でもわかった。
富原が表情を緩めて小さく笑う。
こんな風に、狭い部屋で二人顔を突き合わせていると、まるで、深山にいたあのころみたいに思えてしまう。
おまけに話している内容が、折原だ。
結局、おれはあのころから一度も離れられていないのかもしれない。
捨てたつもりで、もうずっと縋りついているのは、きっと俺の方だ。
「佐野」
呼ばれて視線を上げると、富原は「困っている」としか表現できないような顔をしていた。
そりゃそうだろうなと思う。
なんで今更、昔の後輩に頼まれて俺の様子を伺いに来ないといけないのか。
「俺は、おまえがあいつを何で避けてるのかは知らないけどな。おまえ、あいつがなんで連絡取ろうとしていたのか考えてやってないのか?」
「……べつに、」
「折原、いなくなるかもしれないぞ」
その言葉に、息が止まるかと思った。
そしてすぐに、その自分の動揺に呆れた。
なんだそれは。
「前から海外移籍の話は複数あったらしいけど、今回、いいタイミングのがあって、クラブ側も乗り気らしいぞ」
あぁ、どんどん遠いところに行くのだなとただ思った。
最初に逢った衝撃が過ぎてしまうと、心は変に凪いでいるようにも思えた。
中学生だった折原に、高校生だった折原に、俺が勝手に託した未来と寸分変わらない道を、折原は確かに進んでいるのだ。
――なぁ、ひとりで大丈夫だっただろ。おまえは。
折原に言い聞かせるように、自分自身に言い聞かせるように、何度も繰り返した。
おまえは、俺がいなくても大丈夫だろ。
だから、俺もおまえがいなくても大丈夫だ。
「そりゃ、すげぇな。海外か」
「折原は、おまえに相談したかったんじゃないのか?」
「俺に?」
昔から変わらない真面目で厳しい、けれど優しくもある富原の目から視線を外して、失笑する。
「なんで俺だよ、今更」
せいぜい高校受験くらいだったら相談乗れたかもしれないけどな、と笑う。
あのころだって、折原にはいくつもの選択肢があったはずだった。
なのにあいつは、「先輩と一緒のところに行くんで、1年待っててくださいね」とそう簡単に言ってみせて――、そして……。
「そういう問題じゃないだろ、おまえたちは」
「じゃあ、逆に聞くけど。どういう問題なんだよ」
「付き合ってるんじゃないのか?」
なんで、そんな平然と言えるのだろうと思った。
それはおかしいことのはずだった。煙たがられる類のものに違いなくて、だからできるだけ、そんなものはあいつから取り払ってやりたくて。だから、俺は。
それが、どれだけ独りよがりかなんて、俺が一番、分かっている。
「俺には、そう見えるけどな。今も、昔も」
「知らねぇよ、俺は」
知るかよと、もっと前に捨ててしまったらよかったのかもしれない、あるいは。
でも、そんなの、できるわけがなくて。
逢ってしまったら、できるわけがなかった。
「逃げるのをやめたと言ったのは、おまえだろう」
「俺じゃねぇよ、おまえが勝手に言っただけだ」
何をこどもみたいなことを言ってるんだろう、と思うのに止まらなかった。
富原は、感情を抑えるように息を吐き出して、「何を終わらせてやるつもりだったんだ」と言った。
「知らね」ともう一度呟いて、さすがにそれはないなと、再度口を開こうとする。
けれど、結局、言い訳なんて出てきそうにはなくて、
「分からなくなった」
最終的に音になったのは、そんな迷子みたいなものでしかなかった。
馬鹿か、と思う。
何をこの年になって、こんな馬鹿なことしかできないのだろう。
これなら、――あのときの、3年前の俺の方が、よっぱどまともだ。
富原は「そうか」と一度相槌を打った。
分からなくなったのは、なんなのだろう。
それとも、昔からずっとずっと、何も分かってはいなかったのだろうか。
折原のことも、自分自身のことも。
俺は、――俺は。
好きだなんて、認めたくなかった。
特別だなんて、知りたくなかった。
そのすべてを、ただの過去の記憶として、仕舞い込んだままでいたかった。
自分のその思考にさすがに嫌気がさして、そんなことはないだろうと思い直そうとしてはみたのだけれども。
「……さすがにもうねぇな」
いや、正確に表すならば、ここ一月分ほどのやるべきこと・やっておいた方が良いだろうことを、すべて手当たり次第にやってしまっただけ、か。
何もしないでいると、ついついろくでもないことを考えるような気がして、忙しさを求めて逃げていただけではあるのだけれど、そこで酒に逃げたりしないあたりは、まだ正常に脳が働いている証拠かもしれなかった。
庄司あたりには、この一週間、顔を合わすたびに「飲み行く?」と水を向けてくれていたが、すべて断らせてもらっていた。
理性が揺らぐのは、怖い。
そう思うのは、揺らぎそうになるなにかがあるということで。
ピンポンと、あまり鳴らないチャイムが遠慮がちに響いて、思考が現実に戻ってきた。
誰だろうと疑念が頭をかすめたが、どうせ庄司あたりだろうと結論付ける。こんなところにまでやってくるおせっかいは、あいつくらいで十分だ。
「富原?」
だから、そこにいた人物は、多少意外な相手だった。
といっても、5年ほど昔であったならば、以外でもなんでもない手合いではあったのだけれど。
あのころ、いつも部員の面倒をみていたのは、この男だった。
「避けられるのは別に良いんですけど」
「は?」
「全く連絡が付かない状態って言うのは、心配なんで、できたらやめてください」
開口一番、棒読みされた台詞に思わずぽかんと見上げてしまった。その先で、富原が眦を下げた。
「……あいつか」
知らないうちに漏れ出てしまった正解に、富原が「そりゃ心配にもなるだろ」と苦笑する。
「うちの大学で、一人暮らししてた同級生が、あ、男だけどな。うっかり一週間携帯の電源落としたままにしてたら、そいつの母親から大学に問い合わせ入ってたぞ」
「……」
「おまえは大丈夫だろうな」
暗に、どころではなく、間違いなく責められている。
そしてそれにぐうの音も出ないのは、俺が悪いのだろうと自覚はしているからだ。
「別に、音信不通になってたわけじゃねぇ……つもり、なんだけど」
「たとえば、折原がおまえと同じ大学に通ってて、どこからかでも顔が見えるならそうかもな」
「何言ったわけ。おまえに。あいつ」
ふてくされたような声になったと、自分でもわかった。
富原が表情を緩めて小さく笑う。
こんな風に、狭い部屋で二人顔を突き合わせていると、まるで、深山にいたあのころみたいに思えてしまう。
おまけに話している内容が、折原だ。
結局、おれはあのころから一度も離れられていないのかもしれない。
捨てたつもりで、もうずっと縋りついているのは、きっと俺の方だ。
「佐野」
呼ばれて視線を上げると、富原は「困っている」としか表現できないような顔をしていた。
そりゃそうだろうなと思う。
なんで今更、昔の後輩に頼まれて俺の様子を伺いに来ないといけないのか。
「俺は、おまえがあいつを何で避けてるのかは知らないけどな。おまえ、あいつがなんで連絡取ろうとしていたのか考えてやってないのか?」
「……べつに、」
「折原、いなくなるかもしれないぞ」
その言葉に、息が止まるかと思った。
そしてすぐに、その自分の動揺に呆れた。
なんだそれは。
「前から海外移籍の話は複数あったらしいけど、今回、いいタイミングのがあって、クラブ側も乗り気らしいぞ」
あぁ、どんどん遠いところに行くのだなとただ思った。
最初に逢った衝撃が過ぎてしまうと、心は変に凪いでいるようにも思えた。
中学生だった折原に、高校生だった折原に、俺が勝手に託した未来と寸分変わらない道を、折原は確かに進んでいるのだ。
――なぁ、ひとりで大丈夫だっただろ。おまえは。
折原に言い聞かせるように、自分自身に言い聞かせるように、何度も繰り返した。
おまえは、俺がいなくても大丈夫だろ。
だから、俺もおまえがいなくても大丈夫だ。
「そりゃ、すげぇな。海外か」
「折原は、おまえに相談したかったんじゃないのか?」
「俺に?」
昔から変わらない真面目で厳しい、けれど優しくもある富原の目から視線を外して、失笑する。
「なんで俺だよ、今更」
せいぜい高校受験くらいだったら相談乗れたかもしれないけどな、と笑う。
あのころだって、折原にはいくつもの選択肢があったはずだった。
なのにあいつは、「先輩と一緒のところに行くんで、1年待っててくださいね」とそう簡単に言ってみせて――、そして……。
「そういう問題じゃないだろ、おまえたちは」
「じゃあ、逆に聞くけど。どういう問題なんだよ」
「付き合ってるんじゃないのか?」
なんで、そんな平然と言えるのだろうと思った。
それはおかしいことのはずだった。煙たがられる類のものに違いなくて、だからできるだけ、そんなものはあいつから取り払ってやりたくて。だから、俺は。
それが、どれだけ独りよがりかなんて、俺が一番、分かっている。
「俺には、そう見えるけどな。今も、昔も」
「知らねぇよ、俺は」
知るかよと、もっと前に捨ててしまったらよかったのかもしれない、あるいは。
でも、そんなの、できるわけがなくて。
逢ってしまったら、できるわけがなかった。
「逃げるのをやめたと言ったのは、おまえだろう」
「俺じゃねぇよ、おまえが勝手に言っただけだ」
何をこどもみたいなことを言ってるんだろう、と思うのに止まらなかった。
富原は、感情を抑えるように息を吐き出して、「何を終わらせてやるつもりだったんだ」と言った。
「知らね」ともう一度呟いて、さすがにそれはないなと、再度口を開こうとする。
けれど、結局、言い訳なんて出てきそうにはなくて、
「分からなくなった」
最終的に音になったのは、そんな迷子みたいなものでしかなかった。
馬鹿か、と思う。
何をこの年になって、こんな馬鹿なことしかできないのだろう。
これなら、――あのときの、3年前の俺の方が、よっぱどまともだ。
富原は「そうか」と一度相槌を打った。
分からなくなったのは、なんなのだろう。
それとも、昔からずっとずっと、何も分かってはいなかったのだろうか。
折原のことも、自分自身のことも。
俺は、――俺は。
好きだなんて、認めたくなかった。
特別だなんて、知りたくなかった。
そのすべてを、ただの過去の記憶として、仕舞い込んだままでいたかった。
4
あなたにおすすめの小説
虚ろな檻と翡翠の魔石
篠雨
BL
「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」
不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。
待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。
しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。
「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」
記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
入社1ヶ月のワンコ系男子が、知らずのうちに射止めたのはイケメン社長!?
monteri
BL
CM制作会社の新入社員、藤白純太は入社1ヶ月で教育係の先輩が過労で倒れたため、特別なクライアントの担当を引き継ぐことになる。
そのクライアントは、女子禁制ミーハー厳禁の芸能事務所だった。
主人公の無知で純なところに、翻弄されたり、骨抜きにされるイケメン社長と、何も知らない純太がドキドキするお話です。
※今回の表紙はAI生成です
※小説家になろうにも公開してます
【R18+BL】ハデな彼に、躾けられた、地味な僕
hosimure
BL
僕、大祇(たいし)永河(えいが)は自分で自覚するほど、地味で平凡だ。
それは容姿にも性格にも表れていた。
なのに…そんな僕を傍に置いているのは、学校で強いカリスマ性を持つ新真(しんま)紗神(さがみ)。
一年前から強制的に同棲までさせて…彼は僕を躾ける。
僕は彼のことが好きだけど、彼のことを本気で思うのならば別れた方が良いんじゃないだろうか?
★BL&R18です。
ルイとレオ~幼い夫が最強になるまでの歳月~
芽吹鹿
BL
夢を追い求める三男坊×無気力なひとりっ子
孤独な幼少期を過ごしていたルイ。虫や花だけが友だちで、同年代とは縁がない。王国の一人っ子として立派になろうと努力を続けた、そんな彼が隣国への「嫁入り」を言いつけられる。理不尽な運命を受けたせいで胸にぽっかりと穴を空けたまま、失意のうちに18歳で故郷を離れることになる。
行き着いた隣国で待っていたのは、まさかの10歳の夫となる王子だった、、、、
8歳差。※性描写は成長してから(およそ35、36話目から)となります
黒の執愛~黒い弁護士に気を付けろ~
ひなた翠
BL
小野寺真弥31歳。
転職して三か月。恋人と同じ職場で中途採用の新人枠で働くことに……。
朝から晩まで必死に働く自分と、真逆に事務所のトップ2として悠々自適に仕事をこなす恋人の小林豊28歳。
生活のリズムも合わず……年下ワンコ攻め小林に毎晩のように求められてーー。
どうしたらいいのかと迷走する真弥をよそに、熱すぎる想いをぶつけてくる小林を拒めなくて……。
忙しい大人の甘いオフィスラブ。
フジョッシーさんの、オフィスラブのコンテスト参加作品です。
わがまま放題の悪役令息はイケメンの王に溺愛される
水ノ瀬 あおい
BL
若くして王となった幼馴染のリューラと公爵令息として生まれた頃からチヤホヤされ、神童とも言われて調子に乗っていたサライド。
昔は泣き虫で気弱だったリューラだが、いつの間にか顔も性格も身体つきも政治手腕も剣の腕も……何もかも完璧で、手の届かない眩しい存在になっていた。
年下でもあるリューラに何一つ敵わず、不貞腐れていたサライド。
リューラが国民から愛され、称賛される度にサライドは少し憎らしく思っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる