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番外編
二年後のはなし
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悪い、ちょっと遅れる。
待ち合わせ時間の五分前。届いたメッセージは少し意外なものだった。
――実家で、なにかあったかな。
用事を押し付けられたとか、なんとか。基本的に先輩は時間に正確だし、やむを得ない事情で遅れる場合も、そうとわかった時点で連絡を入れるタイプだ。間際になって連絡があったことが珍しいと言えば珍しい。
待つことを苦だとは思わないから、構わないのだけれど。ちょっとだと言うくらいだから、五分十分の話だろうし。
日曜日の午後一時を回ろうとしている駅前は、自分と同じように人待ち顔の人間ばかりだ。みんな待っている誰かか、あるいは手元の携帯に意識を向けている。
――待ち合わせ、か。
なんだか少し不思議な感じだ。どちらかの家で会うことがほとんどで、外で待ち合わせをするという機会がないのだ。だから、ただ待っているだけという状況も楽しい。
とはいえ、少し目立たないところに異動したほうがいいかもしれない。そう動こうとした矢先に、小さな女の子が足元に飛び込んできた。あやうく蹴りそうになって、慌てて受け止める。顔を上げた女の子が、にこっと笑った。人懐こい満面の笑み。
「こんにちは」
「あ、……うん。こんにちは」
思わず答えてしまってから、周囲を窺う。妙な誤解を抱かれたくはない。
「ねぇ、お父さんかお母さ……」
「こら、亜衣!」
「はい?」
聞き慣れた声に聞き慣れない呼び方をされて、視線を上げる。「あ、悠斗くん」という幼い声に、探していた保護者が見つかったことを知った。
ついでに、珍しく遅れると言ってきた理由も。
「あー、違う。おまえじゃない。亜衣、おまえ、ここに来る前にお母さんになんて言われた?」
「いい子にする」
「できてるか?」
「亜衣、いい子だよ?」
応じる声に、悪びれた様子は微塵もない。相反して見下ろす先輩の顔は苦かった。学校で「先生」してるときもこんな顔をしてるんだろうか。そう想像すると、少しおかしい。
溜息はかろうじて呑み込んだらしい先輩が、半ば無理やり女の子を引き取った。
「悪い。これ、うちの姉貴の子どもなんだけど、面倒押し付けられて」
「亜衣、面倒じゃないもん」
「そうだな、悪かった。面倒じゃないな」
おざなりに女の子の頭を撫でながら、バツが悪そうに先輩が続ける。
「母親も都合が悪いらしくて、俺も予定はあるって言ったんだけど、相手が後輩ならいいでしょで押し切られたというか」
まぁ、あのお姉さん強そうだもんな、とは言わないで頷く。外でなにかをすると決めて待ち合わせていたわけでもない。
「べつに俺はいいですけど。姪御さんがいいなら」
「亜衣だよ?」
「うん。じゃあ、亜衣ちゃん、よろしくね」
にこりと笑う顔は、愛嬌があってかわいらしい。美少女というわけではないが、「あら、かわいい」と多くの大人にかわいがられそうな、子どもらしい子ども。前に先輩が言っていたとおり、たしかにあまり似てはいなかった。
**
ブンデスリーガのオフシーズンは五月の末から八月の頭だ。その期間のすべてを日本で過ごすわけではないが、普段より会える時間は格段に増える。そうは言っても、先輩には先輩の日常がある。丸一日一緒に過ごせる日はほとんどないのが実情で、夜にどちらかの家で会うのがせいぜいだ。
それなのに、なぜ今日に限って外で待ち合わせていたのか。答えは簡単で、先輩にたまには実家に顔を出せと追いやられたからだ。
おまけに行き渋ってみたら、じゃあ俺はひとりで実家に帰るからおまえはひとりで過ごしたらいいと返された。甘やかしてもらえるかもしれないと考えた自分が甘すぎた。
時間を合わせれるなら駅で落ち合ってもいいけど、と続いた台詞が妥協の甘やかしだったのだろうが、なぜかかわいいおまけがついてきている。
――まぁ、それはいいんだけど、本当に。
こんな機会でもなければ会えない先輩の血縁だ。その亜衣ちゃんは、入りたいと主張した喫茶店で、メニュー表の写真をじっと見つめている。
「人見知りとかしないんですね、亜衣ちゃん」
「あー、うん。しないな。見た目もだけど、中身も姉貴の旦那に似たみたいで。うちの母親なんかは、俺も姉貴も愛想のかけらもない子どもだったもんだから、余計にかわいくてしかたないみたいだけど」
愛想笑いにしかならない。お姉さんはともかくとして、愛想のいい先輩というのは想像力の限界を超えた。
「祥子……あぁ、うちの姉貴なんだけど、から生まれたとは思えない愛嬌のあるちびちゃんだわって猫かわいがりしてる」
「孫はかわいいもんなんじゃないですか、子どもとはまた違うベクトルで」
「それはそうなんだろうけど。亜衣がそれに慣れ切ってて。今日も、俺は外で人と会うって言ったのに、じゃあ亜衣も一緒に遊びたい、だったからな。こいつ、自分は誰に会ってもかわいがられると思ってるんだよ」
「幸せなことだと思いますけど」
「まぁ、……うちの両親にも向こうのご両親にとっても初孫ってやつで。いつ行ってもべたべたにかわいがられてるらしくてな」
真剣にメニューを吟味している姪を急かすでもなく、先輩が笑った。
「たぶん、こいつの世界には、自分を嫌いな人間がまだ存在してないんだろうな」
それはまた随分と幸せでいびつな世界だ。けれど、先輩もその世界を構築している一員であることは間違いがない。
この人は昔から、自分が身内と認めた人間にとんでもなく甘いところがある。本人に自覚はあまりないらしいが。
「悠斗くん。亜衣、これにする」
「さっき店の前で亜衣が食べたいって言ってたのと違うけど」
「うん。でもこっちのね、桃のやつがやっぱりかわいいなぁと思って」
「かわいい」
理解不能という声に笑いそうになって寸前で堪える。
「本当だ。お花みたいでかわいいね」
「そうなの! ピンクのね、大きなお花みたいでしょ? 食べてみたくなったの」
これがねと小さな指先が教えてくれた桃のパフェは、女の子が好きそうなかわいいフォルムだった。幼くても女の子は女の子なんだなぁと思いながら、本当だねと相槌を打つ。
うれしそうにほころぶ顔は、やっぱりかわいい。
「おまえって……」
「なんですか?」
「いや、なんでもない」
というわりには複雑そうな声と視線だ。
どうせまた愛想の大安売りだとでも思っているに違いない。愛想がいいと評されることを否定するつもりはないが、今のに関しては無意味に売ったわけではない。先輩の身内の、かわいい子どもだからだ。
――そもそもとして、その無愛想さで上手くやってる先輩が稀な例だと思うんだけどなぁ。
人間性が透けて見えるから許されている、という話なのかもしれないけれど。
自分のもとに届いたパフェを前に、「写真撮って、写真」と亜衣ちゃんがせがんでいる。先輩の写真の撮り方はいかにもおざなりだったが、撮ってもらった写真を確認して満足したのか、亜衣ちゃんはうれしそうにパフェをつつきだした。
幸せそうな横顔を見つめたまま、先輩がぼやいている。
「おまえ、べつに家でじいちゃんと待っててもよかっただろ。今日はなにも買わないからな」
「じいじとふたりはつまんないの」
こうやって好きなものを食べさせてもらえるのだ。こっちのほうがいいに決まっている。
「それに悠斗くん、いつも亜衣になにも買ってくれないでしょ」
「あのな、文句はおまえの母ちゃんに言え、母ちゃんに。必要以上に甘やかすなって厳命されてるんだよ」
「厳命?」
「亜衣にお菓子とかおもちゃとか。そういうものを俺がいっぱい買うと、亜衣のお母さんに俺が怒られるってこと」
「怒られるの?」
「そうそう。だから駄目」
「でも、悠斗くん、よくママに怒られてるのに」
きょとんとした顔が告げた内容に、笑いを堪えるのに失敗した。
「……なに笑ってんだよ」
「いや、素直でかわいいなぁと思って」
どっちが、とは言わないが。そもそもとして「悠斗くん」という呼び方が、呼ばれたほうまで幼く見せていてほほえましいというか。
「亜衣ちゃんはいくつになるの?」
「亜衣はねぇ、五歳。春になったら小学生になるんだよ」
「早生まれだから、ちょっと小さいんだよ」
もう少し小さいと思っていたのがばれたのか、先輩が言い添える。
「おまえはあれだよな、誕生日四月だから」
「そうです。小さいうちは多少は差が出ますよね。遅生まれ早生まれは」
「悠斗くんは六月」
「うん、合ってる」
口に運ぶ回数の減ったスプーンが、中身をほじくり返すだけの動作を繰り返している。
「またお絵描きしたのあげるね、お誕生日」
「あー……、うん。ありがと」
「折原くんにもあげる。お誕生日、四月の何日?」
「七日だよ」
「ふぅん。じゃあ、そのくらいのころにまた遊んでくれる?」
純粋な瞳に言葉に悩む。適当に了承はできないが、落胆させたくもない。
――でも、その時期って、先輩も忙しいよな。
去年なんて、「あれ、おまえ誕生日だっけ」の一言だけだった。この年になって祝われたいわけでもないから、べつにいいけど。
「亜衣。このお兄ちゃんは、いつもは遠いところにいるから」
「遠いところ?」
「ドイツっていう遠い国」
「ドイツ?」
「ほら、あれだ。赤ずきんの舞台の国。昔読んでやっただろ」
「わかんない」
むむっと眉間にしわを寄せて亜衣ちゃんが首を捻っている。その顔は少しだけ先輩に似ていた。
「つまり、なかなか会えない距離にいるってこと」
「じゃあ、悠斗くんは寂しいね」
無邪気な声に、つい先輩を窺ってしまった。苦笑いに隠した、優しい顔。
「まぁ、そうかもな」
「せんぱ……」
「こら。食わないなら食べ物で遊ぶな」
中身をいじくるだけになっているのを見かねたのか、視線が亜衣ちゃんに逸れる。
「悠斗くん、これあげる」
「あげるじゃねぇだろ、あげるじゃ。食い切れねぇなら頼むなよ」
「えー、でも食べたかったし、美味しかったの」
「美味しかった?」
「うん!」
「なら、まぁいいけど」
優に半分は残っていそうなパフェを押し付けて、亜衣ちゃんはにこにこと見つめている。一口食べるまで見ていますと言わんばかりだ。
「美味しい?」
「……クソ甘い」
――昔は、人の食べ差しとか、ちょっと嫌そうな顔してたのになぁ。
姪だからというのもあるのだろうが、人間変われば変わるものだ。
「先輩」
「ん?」
「手伝いましょうか、それ」
そんなに甘いものが好きではなかっただろうとの記憶があったから、自然と出た言葉だったのだが、先輩は少し困ったように笑った。
「いいよ、亜衣がぐちゃぐちゃにしてるから」
「してませんー」
「してるんだよ、まぁいいけど」
溜息交じりに言われたところで許容されていると知っているらしい亜衣ちゃんは、機嫌のいい顔のままだ。
「ねぇねぇ」
「うん? なぁに?」
「先輩って、なに?」
「あー……、うん、そうだな」
説明のしづらいことを尋ねられてしまった。幼稚園って、年上のクラスのお兄さんやお姉さんと遊んだりすることはあるのだろうか。
――まぁ、いいか。
「自分より年上の、好きな人ってことかな」
ほほえみながら告げると、ふぅん、そっかぁと納得した顔で頷いている。かわいい。先輩の血縁だと思うとより一層かわいい。
おまえ、適当なこと言うなよという視線は感じたが受け流す。嘘は言っていない。
「あの、すみません」
控えめな呼び声に振り返ると、若い女の人がふたり緊張した面持ちで立っていた。
「折原選手ですよね、サッカーの」
すみません、今はプライベートでとお決まりの文句を発する瞬間がいまだに慣れない。俺は芸能人かなにかなのかという気分に陥るからだ。
これでもバラエティーにだけは絶対に出ないと固く誓っているのに。
申し訳なさそうな顔になった彼女たちに、応援ありがとうございますと取り成して、少しだけ会話をする。ファンサービスって、なんだ。たまに本気でわからなくなるが、先輩が近くにいると下手なことをできない気分になって肩に力が入る。
この年になって、なんで怒られると思ってしまうのかは謎だが、しみ込んだ習性と思って諦めている。結果論だが、彼女たちはうれしそうな顔で戻っていってくれたので、上手くできていたのだということにした。
知らないお姉さんたちがいるあいだはおとなしくしていた亜衣ちゃんが、ひそひそと先輩に話しかけている。
「悠斗くん、折原くんはアイドルなの?」
一緒くたにされると気恥ずかしさしか湧かないが、この子にとって街中で声をかけられる人間はそういった存在であるらしい。
「違う」
苦笑いのまま先輩が否定する。
「すごいサッカー選手」
「へぇ、すごいねぇ」
「そう。すごいの」
無意識に凝視していたのか、亜衣ちゃんから視線が外れて目が合う。その顔が、人の悪い笑みを浮かべるのを見て、こういうところあったなぁと懐かしくなった。
ある意味で、ものすごく「先輩」という人種らしく、年下をからかって面白がるところ。
**
帰りの電車に乗ったあたりで舟をこぎ出した小さな頭は、先輩の実家の最寄り駅に着いても持ち上がることはなかった。無理に起こすこともせず、苦笑ひとつで先輩が抱き上げた。代わりましょうかと言ったら微妙な顔をされたので素直に引き下がる。
どうでもいいことは俺に押し付けるくせに、気遣われてると思うとプライドに障るらしい。たまにそのラインを踏み間違えるとこういう顔をされるのだ。
――べつに、俺より下に見てるつもりではないんだけど。
昔だったらいざ知らず体力が違うのは当たり前だ。そのあたりは先輩もわかっていると思うのだが、感情はべつものなのかもしれない。
静かな道を歩きながら、となりに視線を向ける。安心して眠っている顔は、無条件にかわいい。
「寝ちゃいましたね」
「悪かったな、今日は。気も使っただろ」
「いえ、楽しかったですよ」
先輩のいろんな顔も見れたしなと思いながら相槌を打つ。この人は子ども相手だと、わかりやすく優しいんだな、とか。そんな顔で見るんだな、とか。
疑似親子体験みたいで面白かったと言ったら二度としてくれなさそうだから言わないけど。
「おまえ、子どもの扱いも慣れてんのな」
「ドイツでは家族ぐるみの付き合いが多くて」
休日はチームメイトやスタッフの家族とホームパーティーというのも珍しくない。
「先輩こそ、よく亜衣ちゃんの面倒を見たりしてるんですか?」
「あー……」
亜衣ちゃんを抱え直す所作は随分と手慣れていた。亜衣ちゃんも人見知りをしないというのをさておいても先輩に懐いているし、忙しいというわりに実家に顔を出していたのだろうか。
「まぁ、そんなにだけど。実家に顔出せるときは出すようにしてる」
意外だなと思ったのが顔に出ていたのか、先輩が小さく笑った。
「数年前に、姉貴が実家の横に家建てて」
「え」
「どう旦那を説得したのかは知らねぇけど、そのときに親の面倒はあたしが見るからあんたは気にしなくていいわよって言うから」
苦笑気味に言葉が続く。
「どこまで勘づいてるのかは知らねぇけど、そこまで言われると、さすがにたまには親孝行しとこうという気にもなるというか。できるあいだくらいは、だけど」
「そう、ですか」
「その旦那も、気の強い姉貴がベタ惚れしてるだけはある、すげぇ優しいできた人なんだけど。入り婿に来たわけでもないのに申し訳ないとも思うし」
静かに笑って、亜衣ちゃんの頭を撫でている。
「ま、こいつの面倒くらいなら俺も見れるから。そのくらいの手助けは、って感じで」
「助かってらっしゃるんじゃないですか、十分に」
「だといいんだけど、どうだかな」
だから、今日は悪かったな。そう言って、眠る亜衣ちゃんを見つめる横顔は優しかった。
「ごめんねー、あらやだ。後輩って折原くんのことだったのね」
ドアを開けて出てきたお姉さんの驚きように、誰と会うかは言っていなかったことを知った。らしいと言えばらしいが、適当すぎる。
「だから後輩だって言っただろ」
「だって。あんたが連れて行ってもいいって折れたから、たくちゃんたちかと思ったんだもん」
「何年前の話してんだ」
「折原くんだって、何年も前の後輩じゃないの」
「本人前にして前のとか言うなよ」
「あら、やだ、ごめんなさい」
会釈した顔は、まさしく母親だった。顔立ちが似ていても表情はぜんぜん違う。
「ごめんなさいね。今日はうちの子がお世話になっちゃって。ついでに愚弟もお世話してもらっちゃって」
「逆だ」
「そう思ってるのはあんただけよ、絶対。富原くんにでも聞いてみたらいいのよ、あたしと同じこと言うに違いないから」
「なんでそこであいつだよ」
「いちいちうるさいこと言ってないで、それ寝かせてきてよ。なかに智くんいるから」
悪いと断った先輩に大丈夫ですよと請け負う。先輩以上に優先する予定はそうない。ドアが閉まると、ふっとお姉さんがほほえんだ。
「ごめんね。あの子、なかなか面倒でしょ」
「あぁ、いえ」
「いいのよ、はっきり言ったら。末っ子長男な上に、あたしとも年が離れてるからね。なんだかんだで家族総出で甘やかしちゃって」
懐かしむようにくすくすと笑ってから、声が続く。
「おまけにあたしの旦那も一人っ子だったもんで、弟ができてうれしいって結婚する前からかわいがってくれてね。あいつにきつく当たる身近な大人がいなかったのよ、昔から」
なんとなく想像はついた。態度があれだからわかりづらいだけで、先輩は根がまっすぐだし、変にねじれていない。そういったところも好きだった。
「母さんが言ってたの。あの子が小さいうちに一生分の夢は見せてもらったって」
唐突に話を切り替えたお姉さんが、小さく肩をすくめた。
「息子が好きなことで活躍してるところを見れたのよ。母親からしたらこれ以上の幸せはないでしょうよ」
「そうなんでしょうね、きっと」
「そうなのよ。あなたのところもきっと同じ。……それで、あの子が怪我からぐれもせずに立ち直って、また地道に人生を歩き出してくれたときに思ったんだって。これでもう十分すぎるくらいの親孝行もしてもらったって」
外面を取り繕うのは得意だったはずなのに、正解を見失ってしまった。上手くいかないのは、先輩に関することばかりだ。
その時期の先輩を、俺は知らない。連絡を取りたくないと、はっきり言われた。そう言った先輩の気持ちはわかるような気がしたから、自分の欲求を押し通そうとは思えなくて。――だから。
「あとはもう好きにあの子の人生を生きてくれたら、それだけでいいって」
もう会わないだろうと思っていた。その証拠に先輩は深山の集まりにもまったく顔を出さなかった。それが先輩の望むことなら俺もそうしようと思っていた。再会するまでは。
「これが、あたしと母さんの総意。お父さんがどう思ってるかは知らないけどね」
「……そうですか」
「このご時世に、ちゃんと就職もしてくれたんだし、ひとりで生きていける糧があるなら文句のつけようもないしね」
もちろん、と笑ってお姉さんが付け加える。
「ひとりじゃなくてふたりでもいいんだけどね。その相手になにか言う気なんてないわ。あの子の人生で、あの子が選んだ相手だったら間違いがあるはずがないもの」
言い切ったその顔には、陰りのひとつもなかった。
「もし、おかしいって言う人がいたとしても、あの子にとっておかしくないなら、あたしたちはそれでいいのよ」
いい家族なんだなと素直に思えた。先輩は俺にもう少しマメに家族に連絡くらい入れてやれと言うことがあるけれど、この家で育ったからこそなのだろう。だから当たり前に家族を大事にして、家族仲のいいことが当たり前だと思っている。それは、幸せなことだ。
「あたしから、……姉として言えることがあるとすれば、愚弟をよろしくってことと、ふたりで幸せにやりなさいよってことだけね」
はい、と応じたあとに、ありがとうございますと言い添える。ふっとほほえんだ瞳は、さすが姉弟というだけあって、少し似ていた。身内と決めたものを受け入れる、ぶれのない強さ。
「よかったら、またいつでも遊びに来てね。うちの娘、誰にでも懐くけど、面食いだから。いい男には特別に懐くのよ」
ドアのほうをちらりと振り返って、肩を竦めてみせる。その奥からは見送るだの見送らなくていいだのほほえましいとしか言いようのない会話が漏れ聞こえていた。
「これっきりになっちゃったら、きっと寂しがるわ」
だからいつでもふたりでいらっしゃいね、とお姉さんは最後にそう言った。
**
もう、会うことはない。そう思っていたのは、ちょうど十年ほど前の話だ。だから、こんなふうに大人になった先輩と一緒に過ごせる日が来るとは思っていなかったし、先輩の家族と話すことも想像さえしていなかった。
――どこまで計算なのか、わかんないんだよなぁ、この人の場合。
自分の身内と会わせたかったのか。それとも本当に断りそびれた末なのか。あるいは、姉に話す機会を設けろとでも言われていたのか。
「ねぇ、先輩」
話しかけると、携帯の画面に落ちていた視線が上がった。帰ってきてからずっと後回しにしていたものもやっとやり終えたらしい。今日の昼間の亜衣ちゃんの写真をお姉さんに送るというそれだ。
――まぁ、いいか。
べつに、先輩がなにを考えていたとしても。なにも言わないということは、俺の取った言動も含めて問題がなかったということなのだろう。
「いいお姉さんですね」
「そうか? 年も離れてるし、姉っていうより、もうひとり小うるさい母親がいるみたいだったけどな、昔から」
「なんというか、先輩の優しさをもうちょっとわかりやすくして、視野を広くした感じ」
「悪かったな、視野が狭くて」
「すみません、喩えが悪かったです」
早々に白旗を上げて、話を変える。
「寂しいですか、先輩は。俺がいないと」
「まったく寂しくないと思ってるなら、おまえの感性を疑う」
その言い方があまりにもらしすぎて、笑ってしまった。お互い自立した大人だ。それぞれの生活基盤があって、やりたいことのために選んだ道を歩いている。同じ場所で生活することがすべてだとは思わない。けれど、それと寂しいと思う感情はまた別問題だ。
わかっていたはずなのに、この人がそういうことをまったくといっていいほど言わないから甘えてしまっていた。その甘えがそのままに声になる。
「言ってくれたらいいのに」
「言ってもどうにもならないことは言わない」
淡々と告げる横顔からは、怒っている様子も呆れている様子も窺えなかった。
「意味がない」
「ありますよ」
言い切ると、ふっと目が合った。
「どうにもできないことはありますけど、慮れます」
「おまえのそういうところは好きだけど」
「……けど?」
「そういう声聞くと、余計に会いたくなるからいい」
予想外の素直な言葉に、すぐに返事ができなかった。
「おまえが言えって言ったんだろうが」
「やっぱ、駄目」
というか、なんでこう不意打ちでそういうことを言うんだ、この人は。
――これが計算だったら、それはそれですごいな。
良いことなのか悪いことなのか。そうではないと身を持って知っているけれど。
「俺が我慢できなくなる」
「本当わがままな、おまえ」
「わがままが言えるようになったんだって褒めてください」
「口も回るようになったし」
「それは先輩に言われたくない」
言い返すと、先輩が小さく笑った。どちらからともなくキスをして、指を伸ばそうとした矢先に、先輩が思い出したように口を開いた。
「そういや、おまえって藍って呼ばれたかったの?」
「どこからその話になったんですか、いったい」
「おまえが普通に『亜衣』って呼んだときに振り向いたから」
「親くらいしか呼びませんよ、下の名前で。ドイツのチームメイトはファーストネームで呼びますから、ちょっと慣れましたけど」
「あぁ、おまえ、嫌がってたもんな。下の名前で呼ばれるの」
「本当に先輩はどうでもいいことばっかり覚えてますよね」
べつに覚えてなくてもいいのに。うれしくないわけではないが、据わりが悪い。
「……だいたい、男に付ける名前じゃないでしょ。藍って」
「藍色って魔除けとか厄除けの意味があるんじゃなかったっけ」
「本当にどうでもいいこと知ってますね、たまに」
「おまえの名前だろうが」
それでそうやって、なんの気もなしにそういうことを言うから。本当に敵わない。そんなふうに思っていると、「そういえば」とまったく変わらない調子で先輩が言った。
「前に富原に言われたんだけど」
「富原さんにですか」
「うん。おまえたちがそうやってかたくなに呼び方を変えないのは一種のプレイなのかって」
なにも飲んでいないのに、盛大に咽てしまった。どんな顔でそんな話をしてるんだ、あんたたちは。
「……なんて答えたんですか、それ」
「俺が呼ばせてるわけじゃない」
「って、あらぬ疑惑を後輩にだけ押し付けないでくださいよ」
だろうなとは思ったけど。思ったとおりだった。
「というか、先輩が変えてほしかったら変えますけど、俺は」
「もうしばらく、それでいい」
楽しそうな声が告げる。
「おまえにそう呼ばれるの、好きだから」
あぁ、もう本当に敵わない。そう思いながら、応える。「知ってますよ」
昔から、それはずっと。先輩が俺にそう呼ばれることに弱いってことくらいは。
待ち合わせ時間の五分前。届いたメッセージは少し意外なものだった。
――実家で、なにかあったかな。
用事を押し付けられたとか、なんとか。基本的に先輩は時間に正確だし、やむを得ない事情で遅れる場合も、そうとわかった時点で連絡を入れるタイプだ。間際になって連絡があったことが珍しいと言えば珍しい。
待つことを苦だとは思わないから、構わないのだけれど。ちょっとだと言うくらいだから、五分十分の話だろうし。
日曜日の午後一時を回ろうとしている駅前は、自分と同じように人待ち顔の人間ばかりだ。みんな待っている誰かか、あるいは手元の携帯に意識を向けている。
――待ち合わせ、か。
なんだか少し不思議な感じだ。どちらかの家で会うことがほとんどで、外で待ち合わせをするという機会がないのだ。だから、ただ待っているだけという状況も楽しい。
とはいえ、少し目立たないところに異動したほうがいいかもしれない。そう動こうとした矢先に、小さな女の子が足元に飛び込んできた。あやうく蹴りそうになって、慌てて受け止める。顔を上げた女の子が、にこっと笑った。人懐こい満面の笑み。
「こんにちは」
「あ、……うん。こんにちは」
思わず答えてしまってから、周囲を窺う。妙な誤解を抱かれたくはない。
「ねぇ、お父さんかお母さ……」
「こら、亜衣!」
「はい?」
聞き慣れた声に聞き慣れない呼び方をされて、視線を上げる。「あ、悠斗くん」という幼い声に、探していた保護者が見つかったことを知った。
ついでに、珍しく遅れると言ってきた理由も。
「あー、違う。おまえじゃない。亜衣、おまえ、ここに来る前にお母さんになんて言われた?」
「いい子にする」
「できてるか?」
「亜衣、いい子だよ?」
応じる声に、悪びれた様子は微塵もない。相反して見下ろす先輩の顔は苦かった。学校で「先生」してるときもこんな顔をしてるんだろうか。そう想像すると、少しおかしい。
溜息はかろうじて呑み込んだらしい先輩が、半ば無理やり女の子を引き取った。
「悪い。これ、うちの姉貴の子どもなんだけど、面倒押し付けられて」
「亜衣、面倒じゃないもん」
「そうだな、悪かった。面倒じゃないな」
おざなりに女の子の頭を撫でながら、バツが悪そうに先輩が続ける。
「母親も都合が悪いらしくて、俺も予定はあるって言ったんだけど、相手が後輩ならいいでしょで押し切られたというか」
まぁ、あのお姉さん強そうだもんな、とは言わないで頷く。外でなにかをすると決めて待ち合わせていたわけでもない。
「べつに俺はいいですけど。姪御さんがいいなら」
「亜衣だよ?」
「うん。じゃあ、亜衣ちゃん、よろしくね」
にこりと笑う顔は、愛嬌があってかわいらしい。美少女というわけではないが、「あら、かわいい」と多くの大人にかわいがられそうな、子どもらしい子ども。前に先輩が言っていたとおり、たしかにあまり似てはいなかった。
**
ブンデスリーガのオフシーズンは五月の末から八月の頭だ。その期間のすべてを日本で過ごすわけではないが、普段より会える時間は格段に増える。そうは言っても、先輩には先輩の日常がある。丸一日一緒に過ごせる日はほとんどないのが実情で、夜にどちらかの家で会うのがせいぜいだ。
それなのに、なぜ今日に限って外で待ち合わせていたのか。答えは簡単で、先輩にたまには実家に顔を出せと追いやられたからだ。
おまけに行き渋ってみたら、じゃあ俺はひとりで実家に帰るからおまえはひとりで過ごしたらいいと返された。甘やかしてもらえるかもしれないと考えた自分が甘すぎた。
時間を合わせれるなら駅で落ち合ってもいいけど、と続いた台詞が妥協の甘やかしだったのだろうが、なぜかかわいいおまけがついてきている。
――まぁ、それはいいんだけど、本当に。
こんな機会でもなければ会えない先輩の血縁だ。その亜衣ちゃんは、入りたいと主張した喫茶店で、メニュー表の写真をじっと見つめている。
「人見知りとかしないんですね、亜衣ちゃん」
「あー、うん。しないな。見た目もだけど、中身も姉貴の旦那に似たみたいで。うちの母親なんかは、俺も姉貴も愛想のかけらもない子どもだったもんだから、余計にかわいくてしかたないみたいだけど」
愛想笑いにしかならない。お姉さんはともかくとして、愛想のいい先輩というのは想像力の限界を超えた。
「祥子……あぁ、うちの姉貴なんだけど、から生まれたとは思えない愛嬌のあるちびちゃんだわって猫かわいがりしてる」
「孫はかわいいもんなんじゃないですか、子どもとはまた違うベクトルで」
「それはそうなんだろうけど。亜衣がそれに慣れ切ってて。今日も、俺は外で人と会うって言ったのに、じゃあ亜衣も一緒に遊びたい、だったからな。こいつ、自分は誰に会ってもかわいがられると思ってるんだよ」
「幸せなことだと思いますけど」
「まぁ、……うちの両親にも向こうのご両親にとっても初孫ってやつで。いつ行ってもべたべたにかわいがられてるらしくてな」
真剣にメニューを吟味している姪を急かすでもなく、先輩が笑った。
「たぶん、こいつの世界には、自分を嫌いな人間がまだ存在してないんだろうな」
それはまた随分と幸せでいびつな世界だ。けれど、先輩もその世界を構築している一員であることは間違いがない。
この人は昔から、自分が身内と認めた人間にとんでもなく甘いところがある。本人に自覚はあまりないらしいが。
「悠斗くん。亜衣、これにする」
「さっき店の前で亜衣が食べたいって言ってたのと違うけど」
「うん。でもこっちのね、桃のやつがやっぱりかわいいなぁと思って」
「かわいい」
理解不能という声に笑いそうになって寸前で堪える。
「本当だ。お花みたいでかわいいね」
「そうなの! ピンクのね、大きなお花みたいでしょ? 食べてみたくなったの」
これがねと小さな指先が教えてくれた桃のパフェは、女の子が好きそうなかわいいフォルムだった。幼くても女の子は女の子なんだなぁと思いながら、本当だねと相槌を打つ。
うれしそうにほころぶ顔は、やっぱりかわいい。
「おまえって……」
「なんですか?」
「いや、なんでもない」
というわりには複雑そうな声と視線だ。
どうせまた愛想の大安売りだとでも思っているに違いない。愛想がいいと評されることを否定するつもりはないが、今のに関しては無意味に売ったわけではない。先輩の身内の、かわいい子どもだからだ。
――そもそもとして、その無愛想さで上手くやってる先輩が稀な例だと思うんだけどなぁ。
人間性が透けて見えるから許されている、という話なのかもしれないけれど。
自分のもとに届いたパフェを前に、「写真撮って、写真」と亜衣ちゃんがせがんでいる。先輩の写真の撮り方はいかにもおざなりだったが、撮ってもらった写真を確認して満足したのか、亜衣ちゃんはうれしそうにパフェをつつきだした。
幸せそうな横顔を見つめたまま、先輩がぼやいている。
「おまえ、べつに家でじいちゃんと待っててもよかっただろ。今日はなにも買わないからな」
「じいじとふたりはつまんないの」
こうやって好きなものを食べさせてもらえるのだ。こっちのほうがいいに決まっている。
「それに悠斗くん、いつも亜衣になにも買ってくれないでしょ」
「あのな、文句はおまえの母ちゃんに言え、母ちゃんに。必要以上に甘やかすなって厳命されてるんだよ」
「厳命?」
「亜衣にお菓子とかおもちゃとか。そういうものを俺がいっぱい買うと、亜衣のお母さんに俺が怒られるってこと」
「怒られるの?」
「そうそう。だから駄目」
「でも、悠斗くん、よくママに怒られてるのに」
きょとんとした顔が告げた内容に、笑いを堪えるのに失敗した。
「……なに笑ってんだよ」
「いや、素直でかわいいなぁと思って」
どっちが、とは言わないが。そもそもとして「悠斗くん」という呼び方が、呼ばれたほうまで幼く見せていてほほえましいというか。
「亜衣ちゃんはいくつになるの?」
「亜衣はねぇ、五歳。春になったら小学生になるんだよ」
「早生まれだから、ちょっと小さいんだよ」
もう少し小さいと思っていたのがばれたのか、先輩が言い添える。
「おまえはあれだよな、誕生日四月だから」
「そうです。小さいうちは多少は差が出ますよね。遅生まれ早生まれは」
「悠斗くんは六月」
「うん、合ってる」
口に運ぶ回数の減ったスプーンが、中身をほじくり返すだけの動作を繰り返している。
「またお絵描きしたのあげるね、お誕生日」
「あー……、うん。ありがと」
「折原くんにもあげる。お誕生日、四月の何日?」
「七日だよ」
「ふぅん。じゃあ、そのくらいのころにまた遊んでくれる?」
純粋な瞳に言葉に悩む。適当に了承はできないが、落胆させたくもない。
――でも、その時期って、先輩も忙しいよな。
去年なんて、「あれ、おまえ誕生日だっけ」の一言だけだった。この年になって祝われたいわけでもないから、べつにいいけど。
「亜衣。このお兄ちゃんは、いつもは遠いところにいるから」
「遠いところ?」
「ドイツっていう遠い国」
「ドイツ?」
「ほら、あれだ。赤ずきんの舞台の国。昔読んでやっただろ」
「わかんない」
むむっと眉間にしわを寄せて亜衣ちゃんが首を捻っている。その顔は少しだけ先輩に似ていた。
「つまり、なかなか会えない距離にいるってこと」
「じゃあ、悠斗くんは寂しいね」
無邪気な声に、つい先輩を窺ってしまった。苦笑いに隠した、優しい顔。
「まぁ、そうかもな」
「せんぱ……」
「こら。食わないなら食べ物で遊ぶな」
中身をいじくるだけになっているのを見かねたのか、視線が亜衣ちゃんに逸れる。
「悠斗くん、これあげる」
「あげるじゃねぇだろ、あげるじゃ。食い切れねぇなら頼むなよ」
「えー、でも食べたかったし、美味しかったの」
「美味しかった?」
「うん!」
「なら、まぁいいけど」
優に半分は残っていそうなパフェを押し付けて、亜衣ちゃんはにこにこと見つめている。一口食べるまで見ていますと言わんばかりだ。
「美味しい?」
「……クソ甘い」
――昔は、人の食べ差しとか、ちょっと嫌そうな顔してたのになぁ。
姪だからというのもあるのだろうが、人間変われば変わるものだ。
「先輩」
「ん?」
「手伝いましょうか、それ」
そんなに甘いものが好きではなかっただろうとの記憶があったから、自然と出た言葉だったのだが、先輩は少し困ったように笑った。
「いいよ、亜衣がぐちゃぐちゃにしてるから」
「してませんー」
「してるんだよ、まぁいいけど」
溜息交じりに言われたところで許容されていると知っているらしい亜衣ちゃんは、機嫌のいい顔のままだ。
「ねぇねぇ」
「うん? なぁに?」
「先輩って、なに?」
「あー……、うん、そうだな」
説明のしづらいことを尋ねられてしまった。幼稚園って、年上のクラスのお兄さんやお姉さんと遊んだりすることはあるのだろうか。
――まぁ、いいか。
「自分より年上の、好きな人ってことかな」
ほほえみながら告げると、ふぅん、そっかぁと納得した顔で頷いている。かわいい。先輩の血縁だと思うとより一層かわいい。
おまえ、適当なこと言うなよという視線は感じたが受け流す。嘘は言っていない。
「あの、すみません」
控えめな呼び声に振り返ると、若い女の人がふたり緊張した面持ちで立っていた。
「折原選手ですよね、サッカーの」
すみません、今はプライベートでとお決まりの文句を発する瞬間がいまだに慣れない。俺は芸能人かなにかなのかという気分に陥るからだ。
これでもバラエティーにだけは絶対に出ないと固く誓っているのに。
申し訳なさそうな顔になった彼女たちに、応援ありがとうございますと取り成して、少しだけ会話をする。ファンサービスって、なんだ。たまに本気でわからなくなるが、先輩が近くにいると下手なことをできない気分になって肩に力が入る。
この年になって、なんで怒られると思ってしまうのかは謎だが、しみ込んだ習性と思って諦めている。結果論だが、彼女たちはうれしそうな顔で戻っていってくれたので、上手くできていたのだということにした。
知らないお姉さんたちがいるあいだはおとなしくしていた亜衣ちゃんが、ひそひそと先輩に話しかけている。
「悠斗くん、折原くんはアイドルなの?」
一緒くたにされると気恥ずかしさしか湧かないが、この子にとって街中で声をかけられる人間はそういった存在であるらしい。
「違う」
苦笑いのまま先輩が否定する。
「すごいサッカー選手」
「へぇ、すごいねぇ」
「そう。すごいの」
無意識に凝視していたのか、亜衣ちゃんから視線が外れて目が合う。その顔が、人の悪い笑みを浮かべるのを見て、こういうところあったなぁと懐かしくなった。
ある意味で、ものすごく「先輩」という人種らしく、年下をからかって面白がるところ。
**
帰りの電車に乗ったあたりで舟をこぎ出した小さな頭は、先輩の実家の最寄り駅に着いても持ち上がることはなかった。無理に起こすこともせず、苦笑ひとつで先輩が抱き上げた。代わりましょうかと言ったら微妙な顔をされたので素直に引き下がる。
どうでもいいことは俺に押し付けるくせに、気遣われてると思うとプライドに障るらしい。たまにそのラインを踏み間違えるとこういう顔をされるのだ。
――べつに、俺より下に見てるつもりではないんだけど。
昔だったらいざ知らず体力が違うのは当たり前だ。そのあたりは先輩もわかっていると思うのだが、感情はべつものなのかもしれない。
静かな道を歩きながら、となりに視線を向ける。安心して眠っている顔は、無条件にかわいい。
「寝ちゃいましたね」
「悪かったな、今日は。気も使っただろ」
「いえ、楽しかったですよ」
先輩のいろんな顔も見れたしなと思いながら相槌を打つ。この人は子ども相手だと、わかりやすく優しいんだな、とか。そんな顔で見るんだな、とか。
疑似親子体験みたいで面白かったと言ったら二度としてくれなさそうだから言わないけど。
「おまえ、子どもの扱いも慣れてんのな」
「ドイツでは家族ぐるみの付き合いが多くて」
休日はチームメイトやスタッフの家族とホームパーティーというのも珍しくない。
「先輩こそ、よく亜衣ちゃんの面倒を見たりしてるんですか?」
「あー……」
亜衣ちゃんを抱え直す所作は随分と手慣れていた。亜衣ちゃんも人見知りをしないというのをさておいても先輩に懐いているし、忙しいというわりに実家に顔を出していたのだろうか。
「まぁ、そんなにだけど。実家に顔出せるときは出すようにしてる」
意外だなと思ったのが顔に出ていたのか、先輩が小さく笑った。
「数年前に、姉貴が実家の横に家建てて」
「え」
「どう旦那を説得したのかは知らねぇけど、そのときに親の面倒はあたしが見るからあんたは気にしなくていいわよって言うから」
苦笑気味に言葉が続く。
「どこまで勘づいてるのかは知らねぇけど、そこまで言われると、さすがにたまには親孝行しとこうという気にもなるというか。できるあいだくらいは、だけど」
「そう、ですか」
「その旦那も、気の強い姉貴がベタ惚れしてるだけはある、すげぇ優しいできた人なんだけど。入り婿に来たわけでもないのに申し訳ないとも思うし」
静かに笑って、亜衣ちゃんの頭を撫でている。
「ま、こいつの面倒くらいなら俺も見れるから。そのくらいの手助けは、って感じで」
「助かってらっしゃるんじゃないですか、十分に」
「だといいんだけど、どうだかな」
だから、今日は悪かったな。そう言って、眠る亜衣ちゃんを見つめる横顔は優しかった。
「ごめんねー、あらやだ。後輩って折原くんのことだったのね」
ドアを開けて出てきたお姉さんの驚きように、誰と会うかは言っていなかったことを知った。らしいと言えばらしいが、適当すぎる。
「だから後輩だって言っただろ」
「だって。あんたが連れて行ってもいいって折れたから、たくちゃんたちかと思ったんだもん」
「何年前の話してんだ」
「折原くんだって、何年も前の後輩じゃないの」
「本人前にして前のとか言うなよ」
「あら、やだ、ごめんなさい」
会釈した顔は、まさしく母親だった。顔立ちが似ていても表情はぜんぜん違う。
「ごめんなさいね。今日はうちの子がお世話になっちゃって。ついでに愚弟もお世話してもらっちゃって」
「逆だ」
「そう思ってるのはあんただけよ、絶対。富原くんにでも聞いてみたらいいのよ、あたしと同じこと言うに違いないから」
「なんでそこであいつだよ」
「いちいちうるさいこと言ってないで、それ寝かせてきてよ。なかに智くんいるから」
悪いと断った先輩に大丈夫ですよと請け負う。先輩以上に優先する予定はそうない。ドアが閉まると、ふっとお姉さんがほほえんだ。
「ごめんね。あの子、なかなか面倒でしょ」
「あぁ、いえ」
「いいのよ、はっきり言ったら。末っ子長男な上に、あたしとも年が離れてるからね。なんだかんだで家族総出で甘やかしちゃって」
懐かしむようにくすくすと笑ってから、声が続く。
「おまけにあたしの旦那も一人っ子だったもんで、弟ができてうれしいって結婚する前からかわいがってくれてね。あいつにきつく当たる身近な大人がいなかったのよ、昔から」
なんとなく想像はついた。態度があれだからわかりづらいだけで、先輩は根がまっすぐだし、変にねじれていない。そういったところも好きだった。
「母さんが言ってたの。あの子が小さいうちに一生分の夢は見せてもらったって」
唐突に話を切り替えたお姉さんが、小さく肩をすくめた。
「息子が好きなことで活躍してるところを見れたのよ。母親からしたらこれ以上の幸せはないでしょうよ」
「そうなんでしょうね、きっと」
「そうなのよ。あなたのところもきっと同じ。……それで、あの子が怪我からぐれもせずに立ち直って、また地道に人生を歩き出してくれたときに思ったんだって。これでもう十分すぎるくらいの親孝行もしてもらったって」
外面を取り繕うのは得意だったはずなのに、正解を見失ってしまった。上手くいかないのは、先輩に関することばかりだ。
その時期の先輩を、俺は知らない。連絡を取りたくないと、はっきり言われた。そう言った先輩の気持ちはわかるような気がしたから、自分の欲求を押し通そうとは思えなくて。――だから。
「あとはもう好きにあの子の人生を生きてくれたら、それだけでいいって」
もう会わないだろうと思っていた。その証拠に先輩は深山の集まりにもまったく顔を出さなかった。それが先輩の望むことなら俺もそうしようと思っていた。再会するまでは。
「これが、あたしと母さんの総意。お父さんがどう思ってるかは知らないけどね」
「……そうですか」
「このご時世に、ちゃんと就職もしてくれたんだし、ひとりで生きていける糧があるなら文句のつけようもないしね」
もちろん、と笑ってお姉さんが付け加える。
「ひとりじゃなくてふたりでもいいんだけどね。その相手になにか言う気なんてないわ。あの子の人生で、あの子が選んだ相手だったら間違いがあるはずがないもの」
言い切ったその顔には、陰りのひとつもなかった。
「もし、おかしいって言う人がいたとしても、あの子にとっておかしくないなら、あたしたちはそれでいいのよ」
いい家族なんだなと素直に思えた。先輩は俺にもう少しマメに家族に連絡くらい入れてやれと言うことがあるけれど、この家で育ったからこそなのだろう。だから当たり前に家族を大事にして、家族仲のいいことが当たり前だと思っている。それは、幸せなことだ。
「あたしから、……姉として言えることがあるとすれば、愚弟をよろしくってことと、ふたりで幸せにやりなさいよってことだけね」
はい、と応じたあとに、ありがとうございますと言い添える。ふっとほほえんだ瞳は、さすが姉弟というだけあって、少し似ていた。身内と決めたものを受け入れる、ぶれのない強さ。
「よかったら、またいつでも遊びに来てね。うちの娘、誰にでも懐くけど、面食いだから。いい男には特別に懐くのよ」
ドアのほうをちらりと振り返って、肩を竦めてみせる。その奥からは見送るだの見送らなくていいだのほほえましいとしか言いようのない会話が漏れ聞こえていた。
「これっきりになっちゃったら、きっと寂しがるわ」
だからいつでもふたりでいらっしゃいね、とお姉さんは最後にそう言った。
**
もう、会うことはない。そう思っていたのは、ちょうど十年ほど前の話だ。だから、こんなふうに大人になった先輩と一緒に過ごせる日が来るとは思っていなかったし、先輩の家族と話すことも想像さえしていなかった。
――どこまで計算なのか、わかんないんだよなぁ、この人の場合。
自分の身内と会わせたかったのか。それとも本当に断りそびれた末なのか。あるいは、姉に話す機会を設けろとでも言われていたのか。
「ねぇ、先輩」
話しかけると、携帯の画面に落ちていた視線が上がった。帰ってきてからずっと後回しにしていたものもやっとやり終えたらしい。今日の昼間の亜衣ちゃんの写真をお姉さんに送るというそれだ。
――まぁ、いいか。
べつに、先輩がなにを考えていたとしても。なにも言わないということは、俺の取った言動も含めて問題がなかったということなのだろう。
「いいお姉さんですね」
「そうか? 年も離れてるし、姉っていうより、もうひとり小うるさい母親がいるみたいだったけどな、昔から」
「なんというか、先輩の優しさをもうちょっとわかりやすくして、視野を広くした感じ」
「悪かったな、視野が狭くて」
「すみません、喩えが悪かったです」
早々に白旗を上げて、話を変える。
「寂しいですか、先輩は。俺がいないと」
「まったく寂しくないと思ってるなら、おまえの感性を疑う」
その言い方があまりにもらしすぎて、笑ってしまった。お互い自立した大人だ。それぞれの生活基盤があって、やりたいことのために選んだ道を歩いている。同じ場所で生活することがすべてだとは思わない。けれど、それと寂しいと思う感情はまた別問題だ。
わかっていたはずなのに、この人がそういうことをまったくといっていいほど言わないから甘えてしまっていた。その甘えがそのままに声になる。
「言ってくれたらいいのに」
「言ってもどうにもならないことは言わない」
淡々と告げる横顔からは、怒っている様子も呆れている様子も窺えなかった。
「意味がない」
「ありますよ」
言い切ると、ふっと目が合った。
「どうにもできないことはありますけど、慮れます」
「おまえのそういうところは好きだけど」
「……けど?」
「そういう声聞くと、余計に会いたくなるからいい」
予想外の素直な言葉に、すぐに返事ができなかった。
「おまえが言えって言ったんだろうが」
「やっぱ、駄目」
というか、なんでこう不意打ちでそういうことを言うんだ、この人は。
――これが計算だったら、それはそれですごいな。
良いことなのか悪いことなのか。そうではないと身を持って知っているけれど。
「俺が我慢できなくなる」
「本当わがままな、おまえ」
「わがままが言えるようになったんだって褒めてください」
「口も回るようになったし」
「それは先輩に言われたくない」
言い返すと、先輩が小さく笑った。どちらからともなくキスをして、指を伸ばそうとした矢先に、先輩が思い出したように口を開いた。
「そういや、おまえって藍って呼ばれたかったの?」
「どこからその話になったんですか、いったい」
「おまえが普通に『亜衣』って呼んだときに振り向いたから」
「親くらいしか呼びませんよ、下の名前で。ドイツのチームメイトはファーストネームで呼びますから、ちょっと慣れましたけど」
「あぁ、おまえ、嫌がってたもんな。下の名前で呼ばれるの」
「本当に先輩はどうでもいいことばっかり覚えてますよね」
べつに覚えてなくてもいいのに。うれしくないわけではないが、据わりが悪い。
「……だいたい、男に付ける名前じゃないでしょ。藍って」
「藍色って魔除けとか厄除けの意味があるんじゃなかったっけ」
「本当にどうでもいいこと知ってますね、たまに」
「おまえの名前だろうが」
それでそうやって、なんの気もなしにそういうことを言うから。本当に敵わない。そんなふうに思っていると、「そういえば」とまったく変わらない調子で先輩が言った。
「前に富原に言われたんだけど」
「富原さんにですか」
「うん。おまえたちがそうやってかたくなに呼び方を変えないのは一種のプレイなのかって」
なにも飲んでいないのに、盛大に咽てしまった。どんな顔でそんな話をしてるんだ、あんたたちは。
「……なんて答えたんですか、それ」
「俺が呼ばせてるわけじゃない」
「って、あらぬ疑惑を後輩にだけ押し付けないでくださいよ」
だろうなとは思ったけど。思ったとおりだった。
「というか、先輩が変えてほしかったら変えますけど、俺は」
「もうしばらく、それでいい」
楽しそうな声が告げる。
「おまえにそう呼ばれるの、好きだから」
あぁ、もう本当に敵わない。そう思いながら、応える。「知ってますよ」
昔から、それはずっと。先輩が俺にそう呼ばれることに弱いってことくらいは。
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