夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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後日談

後編.

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 除夜の鐘が聞こえる。こんな静かな年越しは久しぶりかもしれない。

 ――まぁ、そもそもとして、日本で年を越すこと自体が久しぶりだもんな。

 ドイツに渡ってから、プライベートなことで日本に帰ろうとしていなかったので、当然と言えばそうなのだが。
 見るともなしに点けていたテレビからは、ゆく年くる年が流れていた。真新しい炬燵に足を入れて、とりとめもないことを話している、どこか遅いようにさえ感じる時間。のどかだなぁ、と思う。絵に描いたような平穏な年末年始の光景。
 とりあえずとばかりに、ローテーブルを端に寄せて作り上げたスペースに設置した炬燵は、この家の中で確実に浮いた空間になっていたけれど――買うときも、置いたときも、「いくら滅多に帰ってこないからっていいのか、これで」とあの先輩が口を出したくらいなのだから、そうなのだろう――、生活感のある空間がやっとできたようで嬉しかったから、これがいい。
 まるでモデルルームみたい、とは、部屋に手を入れてくれていた妹の言ではあるが、実際そうなので弁明する気も起きなかった。深山の寮を出てからは、当時所属していたチームの寮に入っていた。そこをいざ離れるとなったときに、実家以外に寝起きできる場所があったほうが便利だろうから、と選んだだけの箱だった。家具にも何もこだわりはないと告げたら、そのあたりも含めてすべて知人がコーディネートしてくれた物件なわけで、だから、モデルルームという表現は正しい。

 ――それが、こうなるんだからなぁ。

 待っていてくれる誰かがいる場所だと思えば、無機質だった箱が帰る家になる、らしい。
 炬燵が欲しかったと言った俺に、「ドイツには売ってないよな」と先輩は納得したような顔をしていて、ちょっと違うと思いながらも、「まぁ、そんな感じです」と笑う。向こうには先輩がいないという意味では似たようなものかもしれないなとも思いながら。

「初詣」

 思いついたまま口にしてみたものの、なにがなんでも行ってみたかったわけでもない。俺自身がそういったイベントに大はしゃぎできるタイプでもないし、先輩もそうだ。
 案の定、お義理感満載の応えが戻ってきた。

「この近くにあるの?」
「ありますよ、確か。そんなに大きいところじゃなかったと思いますけど」

 だから、たぶん、そこまでの人出はないと思う。なにがなんでもというわけではないけれど、有りかもしれないと思った理由はそれだ。

「普通、除夜の鐘が鳴る前から行かないか?」
「でも、どうせ年明けてから挨拶するんだったら、今から行っても意味合い的には問題ないでしょ」

 たぶん、着くころには鳴り終わって年も明けているだろうし。行きたいに気持ちが傾いているのが伝わっているのは間違いない。面倒くさいと考えているのがまるわかりの顔が徐々に仕方ないなという諦めに変化していっている。ありがたいことに、相変わらず先輩は俺に甘いし、俺のお願いにも弱い。
 何年経っても、この人の中で俺は年下で「後輩」なのだなと思うと、複雑なところがなくもない。けれど、まぁ、あと少しくらいは良いかとも思えている。

「目立つの嫌なんだけど」

 最後の抵抗じみたぼやきに、俺は一応の反論を試みた。

「俺も目立とうと思って目立ってるわけじゃないんですけどね」

 というか、むしろ、それは、昔から先輩が俺のことばっかり気にしてるから、目につくだけだと思うんだけど。先輩が認めるかどうかはさておいて。
 たぶん、俺が、先輩がどこにいても見つけることができるのと同じ理由。

「それに、良いじゃないですか。気づかれたら逃げたら」
「ガキかよ」
「そういえば、昔はそんなこともしてましたっけ」

 あのころと今とで違うとすれば、相手は同じ年ごろの女の子で、俺もただの学生だったということで。とはいえ、本質的なところで結局同じなのかもしれない。

「行きたいときに行きたい場所に行けるって、いいことじゃないですか」
「……まぁ、それはそうかもな」
「普段はできないですしね」

 物理的に、というだけではあるけれど。そう思うと、四六時中同じ空間にいたころは恵まれた時間だった。

 ――でも、これも大人になったってことなんだろうな。

 そして、確かにあのころ、俺は早く一人前の大人になりたいと願っていたような気がする。
 早く大きくなって、社会的な責任を持てるような人間になって、プロのサッカー選手になって。後輩としてではなく、この人の隣にいたいと思っていた。あのころの、先輩の隣にいた富原さんのように。頼られたいと、そんなことを。

「風邪ひくなよ」
「ひきませんよ」

 年上然とした物言いに笑って立ち上がる。結局、あのころから何年経とうとも、先輩は先輩で、俺は俺だ。


「おまえって、験とか担ぐタイプだっけ」
「いや、担がないですよ。それ、たまにインタビューとかでも聞かれるんですけど、俺、全然しないんですよね」

 大晦日の夜とはいえ、閑静と評せるレベルの住宅街の中にあるだけあって、神社に向かう道すがら、人通りは少なかった。
 静かな夜も好きだ。寮を抜け出した夜の坂道が思い起こされるような静寂。

「たまに妙に気にする人もいますけどね。絶対、右足から入る、とか。この色のスパイクじゃないと嫌だとか」
「そういうもんか」
「人それぞれだとは思いますけどね」

 いろいろな人がいる。相いれない考え方の人もいれば、同じ方向を向いていたとしても、一緒には歩けない人もいる。

「ただ、俺は、顔も知らない神様に幸運を恵んでもらうよりかは、自分の力で引き寄せたいというか」

 努力した者の上にだけ幸運が落ちてくる、だとか。勝負の最後の一瞬を決めるのは運だとか。才能は神様からのギフトだとか。そういった解釈があることは知っているし、否定する気はない。けれど。

「そういうとこ、おまえだよ」

 かつての自分にとって神様のようだった人が、呆れたように小さく笑った。

「初詣に行く前に言う台詞ではないとは思うけど」
「それはそれ、これはこれ、ってやつです」

 なんとなく、どこにでもある日常というやつをしてみたかった、というのが正直なところだったから。当たり前の日々を積み重ねた先にあるものを見たかったのかもしれない。二人でいることは、特別でもなんでもない、普通なのだと体現してみたかった、ということもあったかもしれない。
 それは、あえて口に出すようなことではないとは思うけれど。

「でも、先輩が、深山を選んでいてよかったとは思うかな」
「なにが?」
「一緒の時間を過ごせたことは、感謝してる、ってことです」

 お互いがサッカーをしていた限り、深山に在籍していなくても、どこかで出逢っていたかもしれない。けれど、あの日々は、俺にとって大切なものだった。
 あのころがなければ、今の自分はいないのだろうなと思うくらいに。

「結局、そういうものなのかもな」
「……え?」
「偶然とか、なんでも。そういうものが積み重なって、できあがった今なら、それに感謝して歩いていくしかないよなと思って」

 視線を落とすと、まっすぐに前を向いている横顔があった。ゆっくりと目が合う。

「なに?」
「先輩のそういうところ、好きだなぁと思って」

 そういう、真面目で、誠実なところ。しっかりと自分を生きているところ。不思議なもので、好きだと認知した途端に、それまではどうとも思っていなかったようなところまで好きになってしまうらしい。
 あるいは、それまで意味も分からないまま、本能のようなもので知らず目で追っていたものの正体が判明した、と言うのかもしれないけれど。
 よく分からない、と首を傾げられてしまって、曖昧に笑ってやり過ごす。

「おまえの考えてることって、たまに本気で分からない」

 たぶん、全部を分かるつもりでいる方がおかしいから、それが正しい。

「お互い様ですって、それも」
「そうなのかもな」

 あっさりと返ってきたそれを「らしいなぁ」と思いながら頷いて、耳を澄ます。鐘の音はいつの間にか聞こえなくなっていた。「年、明けたかな」

「過ぎてる」

 その声に、スマートフォンを取り出して時間を確かめる。零時七分。

「あ、本当だ。おめでとうございます。というか知ってたんですか?」
「やたらスマホが振動してたから、年明けたんだろうなって。子どもって日付変わった直後に連絡するのに命かけてるところあるよな、新年にしろ、誕生日にしろ」

 おまえも昔は送ってきてたもんな、とさも当然と過去を引っ張り出されると、多少の居た堪れなさはある。いや、送っていたのは、誕生日だけだったとは思うけど。

「……先輩って、よくそういうこと覚えてますよね」
「まぁ、そうかもな」
「来なくなって寂しかったですか?」
「おまえのそういうところが可愛くない」

 となると、否定しないあたりが先輩の可愛げなのだろうか。とは言っても、俺は先輩にそういう意味での可愛げを求めているわけでもないのだが。
 想像すると、なにか企まれていそうで怖いし、とまでは言わないが、それに近いものがある。

 ――まぁ、そういうところも含めて先輩だしなぁ。

 神社の方角から歩いてきた二人連れとすれ違う。年配のご夫婦。ゆっくりとした足取りがそろっていて、なんとなく良いなぁと思う。五年後、十年後。長く同じ時間を過ごすと、変わっていくものもまたあるのだろうか。
 変わらないことも、あるのだろうけれど。

「今年はなにかお願いするんですか?」
「それ、今言うことか?」
「誰かに言うと叶わなくなるってやつですか? 神頼みより俺に言った方が確実なことだったら、喜んで聞きますけど」
「そういう台詞を当たり前の顔で言うあたり、おまえだよな、本当」

 呆れたような声で笑われて、まぁ良いんだけどと思いながらも訂正する。

「先輩って、俺のこと、相当な自信家だって思ってるでしょう」
「自信家というか、おまえの場合は、全部、実績と努力に裏打ちされてるだろ」
「……そう言われると、それはそれで恥ずかしいんですけど」
「いまさら」

 なにを言っているんだと言わんばかりの調子に、変わらないなぁとこそばゆくなった。この人の、こういう妙なところでまっすぐなところにも、何度も救われていた。

 ――サッカーを嫌いにならなかったのは、深山に進んだからかもしれない。

 先輩はそんなわけがないと即座に言い捨てていたけれど、俺にとってはそうだった。少なくとも、あの当時の俺にとって。
 神様。
 馬鹿みたいなことを、大真面目に思っていた時期が、確かにあった。
 それは、この人のためならなんでもできる、というよりかは、この人のそばにいると静かに息ができる気がする、という、あくまで自己本位なそれだったのだけど。
 無理をして自分を作り上げなくても良いという安心感を、初めてもらったような気がしていた。そのころから、ずっと追いかけていた、恋だった。

「じゃあ、俺が先輩に頼んでおこうかな」
「頼む? なにを」

 言う前から、できないことはできないからな、と暗に釘を刺してくるあたりも先輩らしいと思いながら、言葉を継ぐ。

「今年も俺のために時間を使ってくださいね」
「……それこそ今更すぎるだろ」
「まぁ、それはそうですけど」

 学生時代と違う、と思うのは、距離で、そして、時間だ。自由にできる時間は限られているし、それをどう使うかは先輩の自由だと理解している。その上で、少しでも自分に向けて割いてもらえたら嬉しいとは思う。俺の都合で迷惑をかけているところが多いのは事実でもあるし。
 俺が日本に戻ってくるのは、まだもう少しは先の予定で、自分のキャリアを先輩の存在で変えるつもりもない。

 ――先輩も、そうであることを望んでいるはずだ、とも勝手に考えてもいる、けど。

 俺は俺で、先輩は先輩で、そのことに間違いはない。でも、あの当時の記憶が、今の自分のキャリアにつながっているのだとも思う。

「折原」

 目の前に差し出された手のひらの意味に悩んで視線を合わせると、ふっとその瞳が笑む。

「普通にデート、したかったんだろ」

 デート。そんな単語、学生だったころはおろか、再会してからだって一度も聞いたこともなかったのに。まぁ、嬉しくないわけがないけれど。
 そして、こんな風に手を握ったことも、一度もなかったかもしれない。俺よりも大きいと思っていたイメージが、そうではなくなったのだと修正されたのは、再会してからだった。
 一定の距離をもって離れていたその身体が、自分の腕の中に納まるのだということを知った。知って、そして少し怖くも思った。

「先輩って、そういうところかっこいいですよね」
「先輩はかっこいいものなんだよ」

 なるほど、だから後輩はかわいい存在なのか。いくら俺の方がでかくなろうとも。俺も人のことは言えないけど、体育会系の血が色濃く流れている。

 ――タメ口きいてるイメージがいまいち沸かないからなぁ。

 それもあと十年もすれば、変わるときがくるのかもしれないが、今はまだそういう気分にすらならない。

「先輩」

 この人との十年後というような未来を、現実として想像ができるようになったのは、最近のことだった。十年前は、今とは違う意味で想像できていたかもしれないけれど。
 庇いたいわけでも、守りたいわけでも、ましてや救われたいわけでもない。ただ、どちらかに何かあったときには、自然と支え合えるような、そんな風にして歩いていければと願っていた。
 呼びかけると、すぐに視線が合う。触れたばかりの指先はまだ冷たい。けれど、じんわりと温まり始めている。おまえの手、あったかいよな。そう言われたのはいつだっただろう。そのあとにお子様体温と笑われたような記憶もあるけれど。ごく当たり前のはずの時間が、ずっと続いていくような未来を望んでいた。

「なんか、すごく一緒に歩いてるって感じがする」
「まぁ、そうだろうな」
「そうなんですけど、……まぁ、そうですね。そういうことです」

 自分でもよく分からないような言葉でしめて、前を向く。鳥居が視界に入って、あぁ、そうだったと思い直した。これ、初詣だった。まぁ、べつに俺も先輩も、行く先なんてどこでもよかったんだろうけど。

「来年は、国立から観戦してるっていうのも良いですね」

 強いて言うならこれだろうなぁと思う場所を上げると、ふっと横顔が優しく緩んだ。この人にとって、深山の生徒たちはもう身内なんだな、と理解する。俺たち、深山でのチームメイトが大切な存在だったように。

「そうだな。どうなるかは分からないけど、経験させてはやりたいな」
「先輩は」
「――ん?」
「良い経験でしたか?」

 考えることは失礼だと分かっていて、ずっと考えないようにしていたことの一つだった。たらればを考えることほど意味のないことはないとも分かっているけど、怪我がなければ、もっと一緒にサッカーをやれたかもしれないのに、だとか。あんな別れ方をしなかったかもしれないのに、だとか。
 先輩の、将来の選択が変わっていたかもしれない、だとか。

「うん、まぁ、そうだな」

 なんの蟠りもないような、静かな声だった。

「楽しかったよ。おまえとやったサッカーに悔いはないな」
「そう、ですか」

 その答えに、ひっそりと残っていたよどみが流れていったような気がした。あの日々が、俺は楽しかった。でも、もっと続いてほしいとも確かに思っていた。
 そんな風に思ったなにかがあふれ出ていたのだろうか。指先を握る力が強くなる。敵わないと思った。好きだ。先輩に出逢えて、良かった。好きになってもらえて、良かった。
 この人にとっての、サッカーとはどういうものだったのだろう、とふと思った。いつかこの問いも聞いてみても許されるのだろうか。それは俺がサッカーの競技人生にピリオドを打った後なのか、それとも案外と近いのかは、分からない、けれど。
 俺にとってサッカーは、生きていく道筋で、すべてで、そして、先輩と繋がっているものだった。

 俺にとってサッカーは、おまえそのものみたいだったと思っていたことがある。その答えを知るのは、数年後の未来の話だ。
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