好きになれない

木原あざみ

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好きになれない1

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 車輪のまわる音が、今日ものどかだ。自転車を押しながらアーケード商店街を歩いた回数は、両手では数えられないほどになってきた。
 商店街は寂れたままで変わりないが、つぼみは行くたびになにかしらの発見がある。

「ぴよちゃーん」

 耳に届いた高い声と足音に、足を止めて振り返る。凛音の声だ。予想通りの笑顔が小走りに近寄ってくる。日和も笑顔を浮かべて、小さく手を振った。

「おはよう。凛音ちゃん。早いんだね、今日は」

 つぼみは十時からとなってはいるが、生徒たちはその時間通りにやって来るわけではない。午前中の勉強会に参加するのなら、十時半までには来る。お昼ご飯を食べるのなら、十一時半までに来る。つぼみに存在しているのは、そんな緩やかな縛りだけだ。
 現時刻、九時四十分。いつも十時を少し過ぎたころに顔を出す凛音からすれば早い時間だ。日和の問いに、隣に並んだ凛音が笑う。

「というか、ぴよちゃんが早いんだよ。べつに十時きっかりでいいんだよ? ぴよちゃんだって」
「いや、まぁ、暇だし」

 凛音の言うことは正論なので口調が鈍る。似合わないことをしている自覚はあるのだが、早めに着く習慣が、いつのまにか出来上がってしまったのだ。

「他のスタッフの人はみんなそうだよ。ちなみに今日はお兄ちゃん、置いてきちゃった」
「そういえば、いないね。どうしたの。紺くんは」
「ちょっと調子が悪いみたい」
「……そっか」
「でも、大丈夫。そのうち、戻るよ。お兄ちゃんは、今年が転換期だから、気が重いんだって」
「そっか」
「大変だね。受験って」

 凛音の兄は、中学三年生だ。なにをしなくても、――あるいは、出席ができなくとも進級出来、進学が出来た期間が終わる。その先に進むのなら、受験をしなければならないし、どのような形態の高校を選ぶかも考えなくてはならない。
 想像することしか出来ないが、大きなストレスだろう。

「そうだね」

 日和の口から出たのは、単純な相槌だけだった。話題を変えるように凛音が言葉を継ぐ。

「まきちゃんが褒めてたよ」
「え? 真木さんが? 凛音ちゃんを?」
「なんでそうなるの。ぴよちゃんを、に決まってるじゃん。なにも言ってないのに、早くに来て掃除までしてくれるから助かるって」
「そ、っか」
「うん」

 知らないところで、そう言ってもらえるのは、こそばゆいけれど嬉しい。

「あいつは貧乏くじを引くタイプだなとも言ってたよ。おかげで最近、まきちゃんへのあきの襲撃が減ったって。代わりにぴよちゃんに増えたでしょ」
「それって褒めてたの?」

 むしろ、悪口の類だったのではないかとネガティブに考え始めた日和に、凛音が大仰に首を振った。

「褒めてる、褒めてる。まきちゃんの口調が雑になってるのは、懐に入れた証拠だよ。だって、まきちゃん。塩見さんには……」
「ん?」
「なんでもなーい。また、まきちゃんに怒られるところだった。人のいないところで人を比べるなって」
「真木さんは良い先生だね」
「先生って感じじゃないけどね。だからって、お兄ちゃんって感じでもないけど」

 日和の発言に、凛音がわずかに悩むように眉根を寄せて、それから得心したように頷く。アーケードの屋根越しに、鳥のさえずりが聞こえていた。

「まきちゃんはまきちゃんだもん。それだけ。優海さんは優海さんだし、ぴよちゃんはぴよちゃんだし、それだけ」
「……それだけ」
「うん。それだけだよ」

 さも当然と言い切った凛音が、つぼみの戸を引く。

「おはよう」

 必要以上に元気な声のようにも感じたが、指摘するべきなのかどうか日和にはわからなかった。

 ――でも、まぁ、大丈夫か。

「おはよう、凛音。日和くんと一緒になったのか?」
「うん、商店街に入ったあたりで。ぴよちゃんが見えたから追いかけたの」

 スタッフルームから暁斗と一緒に出てきた真木を視認した途端、凛音の声から力が抜ける。ほら、やっぱり。誰にともなく内心で呟く。真木がいれば大丈夫だと漠然と思ってしまうのは、自分だけではない。その証拠に凛音の指先は彼の服の裾を掴んでいた。

「今日ね、お兄ちゃん、休むって」
「そうか」
「明日は来るかな」
「明日になってみないとわかんねぇな、それは」

 スタッフルームに消えていった小さな背中越しに、ぺこりと頭を下げて、暁斗を伴って和室へと移動する。台詞通りに受け取れば、突き放したようにも響くが、そうではないことは日和もわかるし、凛音もわかっているのだろう。

「紺は休み?」

 ふと脳裏に過った数日前の塩見の台詞を抹殺して、日和は暁斗に顔を向けた。べつに本当であれ嘘であれ、どうでもいいことだ。本人からなにを聞いたわけでもないし、仕事をする上で聞く必要もない。

「みたいだよ。凛音ちゃんが言ってた」
「ふぅん。つまんねぇ」

 なんとなくではあるのだが、たまに、暁斗の口の悪さは真木の影響ではないかと思うことがある。

「次に来たときに言ってあげたら喜ぶんじゃない? 寂しかったって」
「寂しかったなんて言ってねぇし。つまんねぇって言ったんだよ」

 唇を尖らせて主張する横顔は小さくても男の子だ。微笑ましく見つめていると、真木と凛音がやってきた。その姿にほっとする。
 いつものつぼみだ。あとは簡単に掃除機だけでもかけてしまおうか。目論んでいると、「日和くん」と呼び止められてしまった。

「昨日から一人、新しい女の子が来てるんだよ。香穂子ちゃんっていうんだけど。恵麻とか雪と同い年の」
「はい」
「たぶん、今日もお昼から来てくれるから。よろしく」

 って、業務連絡それだけかよ。との突っ込みは呑み込んだのだが、呆れ顔の凛音が日和の胸の内を代弁してくれた。

「まきちゃーん、ぴよちゃんが雑すぎるって顔で固まってるよ」
「って、日和くんならそれだけでも問題ないだろ」
「え……、と。はい」
「ほら、見ろ。問題ない」

 なにも疑っていません、みたいな瞳に圧されて、つい日和は頷いてしまった。その日和を指して、凛音相手にどうだと言わんばかりだ。大人気ないそれに、少女は怒った素振りを見せたが長くは続かない。真木に促されるがまま、彼女から見た香穂子についての説明を始める。

「――でね、昨日は、のんちゃんと香穂子ちゃんと三人でいろいろ話したんだよ。恵麻ちゃんとはまた違うお洒落さんで、たぶん、ぴよちゃんも見たらびっくりするよ」
「びっくり?」
「かわいいの。テレビとか雑誌とかで見る女子中学生、って感じ」

 そういえば、凛音たちが制服を着ているところを見たことはなかった。想像してみようと試みたが、うまくいかない。長期間フリースクールに通っている凛音たちと、その子の身に纏う空気が違ったとしても仕方がないのかもしれない。

 ――でも、なぁ。そんなことを言うのも、なんか。

 不用意なことを口にもできないと逡巡していると、暁斗の相手をしていた真木が振り向いた。

「どうした? 凛音もお洒落したくなった?」
「なんか、まきちゃん、その言い方、おじさんみたいだよ」
「凛音からしたら似たようなもんだろ」
「さすがにまだお兄さんだよ。ぴよちゃんと同じくらいでしょ? でも、……うーん、そうだな。あたしには似合わないよ、きっと」

 漂った卑下に、あ、と日和が思う間もなく、真木がさらりと続ける。

「今のままでも十分かわいいよ。でも、興味があったら聞いてみな。香穂子ちゃんでも、恵麻でも、雪でも。喜んで教えてくれるから」
「……うん」
「ま、喜び過ぎて大変かもしれないけどな。それもまた楽しいだろ。みんなかわいくて大変になるな、なぁ、あき」
「えぇ!?」
「ちょっと、なによ。あき。その態度」

 お互いの照れ隠しから発生した姉弟喧嘩のようなじゃれ合いを見つめる真木の横顔は文句なしに優しい。先生、スタッフを通り越して、家族のような、それ。

「おはよう!」

 玄関から響いた新な声に返事をして、鞄をスタッフルームに置くべく立ち上がる。勉強会を始める前に、机の上くらいは拭いておこうと思いながら。綺麗好きというわけではない。つぼみが目に余るほど汚れているわけではもちろんない。ただ、自分ができるなにかをしたいとふと思ってしまった。

 ――こんなの、絶対、俺らしくないんだけどなぁ。

 塩見が知れば、それこそまた大笑いするだろう。その予想を頭から振り払って、日和は洗面所に向かった。

「それ」

 和室から出てきた真木とばたりと対面した瞬間、それ、と言われて、日和は首を傾げた。

「いつもありがとう」

 その言葉に、掃除のことかと思い当たって、照れくさくなった。布巾を握る手に力が入る。

「あ……いえ」
「気にかけてくれて、嬉しい」

 それだけ言って、すれ違っていくその背を、一瞬、日和は呆けたまま見送ってしまった。それから息を吐く。

 ……嫌だな。

 嫌だな、というか、あれだな。この言葉が欲しくて、していたわけではないと思いたいのに、なんだかひどくむず痒い。
 真木は、日和に暁斗がすぐに懐いた理由が分かると言っていたが、ここに通う子どもたちが真木を慕う理由が日和にもよくわかる。初日に恵麻が言っていたとおりだ。この人には嘘がない。真実かどうかはわからない。けれど、少なくとも子どもたちの眼にも日和の眼にもそう映るのだ。
 それはとてもすごいことだと、改めて思う。子どもは本能で人の善悪をかぎ分ける。子どもにとって、身近な大人は世界だ。
 小学校に入学して、一年目。担任の先生の力量が人格形成に大きく影響するのと同じだ。良い先生にあたればクラスの雰囲気も明るく、子どもも健やかに成長する。けれど、そうでない場合、学校嫌い、勉強嫌いに陥ってしまうことがあるのだ。
 教師とて人間だ。悲しいかな、人間性に問題があったり、依怙贔屓をしたり、意地悪をしたり。そんな人が一定数存在する。
 そういえば、と日和は思い返す。小学生だった当時、教師で嫌な思いをしたことはなかった。けれど中学校に入学して壁に当たった。担任だった体育会系の男性教諭は、内向的な日和のことを気に入らなかったらしく、ねちねちと……今になって思えば、親に言えば良かったと思うような陰険な真似をされたのだ。
 教師なんて、完璧じゃない。夢を見るような世界じゃない。いくら頑張ったって、認めてもらえるとは限らない。その体験は日和の自尊心を奪ったし、夢を遠のかせた。
 日和がそう思うようになった転換期は、おそらくそこだった。
 世の中がすべて、つぼみのようであれば、平和なのに。そんなことを思ったところで、そんな世の中になるはずがない。いじめがなくなることもなければ、すべての人間が等しく受け入れられる場所もない。
 恵麻と暁斗の話し声を聞きながら、でも、と日和は思った。そんな世界があるはずはないけれど、でも、だからこそ、彼らを受け入れる場所として「ここ」があるのかもしれない。あの人が、そう言っていたように。
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