好きになれない

木原あざみ

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 居酒屋の入っているテナントビルの前で、日和はスマートフォンで時間を確認する。七時四十分。アルバイト先を出るのが遅くなってしまったことに加えて、乗り換えがうまく行かなかったことで、思っていたよりも遅くなってしまった。
 ビルのすぐわきに喫煙所を発見して、ぐるぐるに巻き付けていたマフラーを外す。固くなる表情を誤魔化すように、日和は煙草に火を点けた。
 アクリル板の壁が辛うじて設置されているだけの喫煙所は寒かったが、一服吐きたかったのだ。

 ――というか、真木さん云々はさておいても、できあがってる飲み会に後から一人で入るとか、俺、すごい苦手なんだけどな。

 その苦手を自ら選んでしまったので、仕方がないと言えば仕方がないのだが。おまけに、親しい仲間内での会合というわけでもないのだ。キャンプに参加したことで、真木以外にも知った顔はできた。が、そうかと言って、特別に親しくなったわけでもない。

 ――名波さんって、来てんのかな。

 キャンプという単語で連想した顔に、日和はますます面倒臭くなってきた。

 ――というか、なんで、俺がこんなに気にしてんだ。真木さんのことにしても、つぼみのことにしても、名波さんのことにしても。

 一服吐くはずが、苛々が増しただけだった。火曜日につぼみで会うより先に真木と会っておいたほうがいい。正論だ。間違いなく正しい。スタッフとして。新年会に出てほかのスタッフとも親睦を深めたほうがいい。スタッフとして。それもまた正しい。正しすぎて、自分にまったく似合わない。

 ――結局、直前になって、怖気付いただけ、か。

 二本目に火を点けたあたりで、ほんの少し冷静になる。その頭で導いた結論に、日和はなんだか虚しくなった。

 ――そうか。思えば、俺、自分から誰かに告白して振られたのって、はじめてなんだ。

 基本的に、来るもの拒まず去るもの追わずの「お付き合い」しかしたことがなかった。告白されてなんとなく受け入れて、振られて、の繰り返し。一年前の自分だったら、塩見の誘いを受けていたと思う。水原の言うとおり、そのほうが後腐れがないから、という理由だけで。
 それができなくなった、あるいはしようと思わなくなった理由なんて、一つしか思い当たらない。
 深々と溜息を吐いて、灰皿に吸いさしをねじ込もうとした瞬間。意外な声が落ちてきた。

「あれ。日和くんじゃん」
「羽山、さん」

 ビルから姿を現した長身に、人懐こい笑みが浮かぶ。逃げを打ちかけた身体を諫めて、日和は迎え入れる場所を空けた。一人で吸えてちょうどいいと思っていた空間ではあるが、あと一人、二人くらい来てほしい。誰でもいいから。

「俺もちょっと吸いたくなって。抜けてきちゃった。あ、べつに、中も禁煙じゃないけどね、なんとなく。あの場じゃ誰も吸わないから、吸い難くて」

 顔を合わすのは半年ぶりなのに、羽山はまるで親しい後輩に接するようだ。性格の違いとしかいいようがない。その調子のまま一服始められて、立ち去るタイミングも見失う。

 ――どうせ行く先は一緒なんだ、ここで俺が一人、お先にって言うのもアレな話だよな。

「日和くんも吸うんだ、煙草? って、もう二十歳は超えてるもんね、べつに」
「はぁ、まぁ」
「いいじゃん、そんなに逃げようとしなくても。わかりやすいね、きみ、本当に」

 さらりと本音を突かれて、日和はわずかに言葉に詰まった。

「そういうわけじゃ……」
「ついでに言うと、こういう飲み会の場も苦手そう。それで、遅れて登場とか、めちゃくちゃ苦手そう」
「……」
「お? 図星? あいつもさぁ、昔からなんだかんだ言って面倒見が良いから。放っとけないんだろうね、日和くんみたいなタイプが」

 黙り込んだ日和に、気を悪くするでも使うでもなく羽山は続ける。こういうところ、あの人と類友だよ。思ったが、言えない。他人の機微に敏いくせに、自分のペースを崩さないところ。日和には死んでも真似のできない芸当だ。

「とは言っても、ご存じの通り、あいつはそこまでできた人間でもいいやつでもないから。あいつが気に入ってる前提でなきゃ、そこまで構わなかったと思うけどね」
「俺がボランティアで来てるから、じゃないですか」

 投げやりに日和は口にした。どう思われようとも関係がない。そして、それは事実だ。人手の足りない曜日に入っているボランティアだから、逃がすわけにいかなかった。火曜日の担当の正規職員が真木だけだった。だから、日和を気にかけてくれていた。それだけだ。
 そのはずなのに、羽山は意味深に瞳を細めて紫煙を吐いてみせた。

「本当に、そう思ってる?」

 本当にもなにも、現実がそうなのだ。再び沈黙で返した日和を一瞥して、羽山が灰を叩く。寒い冬の空気に、白が小さく煌いた。

「ふぅん、まぁ。それならそれでいいけど」

 この人、俺がなにをしたのか、知ってるわけじゃないよな。疑念が沸いたが、すぐにないなと日和は断定した。真木が言うはずがない。

「残念だったね。もうちょっと早く来れば、面白いものが見れたのに」
「面白いもの?」

 思わずつられて問いかけてしまった。

「塩見ちゃんに説教してる基生」
「塩見さん、来てるんですか」
「食いつくところ、そこか」

 顏を思い切り歪めた日和に、羽山が笑う。

「まぁ、日和くんがそういう顔をしてるってことは、塩見ちゃんが百パー悪かったんだろうけど」
「えぇ、と……、その、真木さんはなにを」

 子どもの喧嘩に保護者を巻き込んでしまったような居た堪れなさだ。嬉しいというよりも恥ずかしい。

「大丈夫、大丈夫。きつい言い方なんてしてないから。なんて言うの? 家に帰って夜に一人で思い返したときに、じわじわ来るようなことは言ってたけど」
「そう、ですか」
「うん、そう、そう。だから大丈夫だって。きついこと言われても、あぁいうタイプの子はあんまり堪えないだろうし」

 塩見は堪えないだろうなとは思った。けれど、それ以前に、だ。

 ――なんだよ、あの人。あのときは、俺が悪いみたいな言い草だったくせに。

「これはまぁ、日和くんも知ってるか。あいつ、誠実ですよみたいな雰囲気を漂わせてるけど。案外、人を巧く懐柔して操縦するでしょ。叱ったりせずに」
「はぁ」
「まぁ、それがなくても、誰かを叱ることは疲れるからね。珍しい光景だったと思うよ」

 なにが言いたいのか考えたくもない。ゆらゆらと立ち上る細い紫煙に視線を移したまま、日和は溜息を呑み込んだ。

「つまり、その程度には、日和くんのこと、かわいがってるんだって、あいつ」
「……べつに、俺の為じゃないと思いますよ」

 その程度なら、かわいがってほしくなかった。そう思うことが勝手だとわかってはいるのだ。けれど、つい考えてしまう。こんなふうに距離を詰めなければ、自分でも処理しきれない感情に悩まされることはなかっただろうに、と。

「塩見さんがうっかり口にしたことで、香穂子ちゃんが落ち込んでたらしいから。だから」

 だから、もう会うことはないかもしれないが、一言くらい釘を刺しておきたかったのだろう。
 そう、とだけ頷いて、羽山も煙草を吸い終えた。お待たせ、と変わらない調子で日和を促して、ビルの戸を押す。一基しかないエレベーターは、まだしばらく降りてこない。やっと少し暖かいところに入って、筋肉の緊張は少し緩んだけれど、精神的なほうはまったくだ。これは羽山と一緒に戻れることを感謝すべきなのかもしれない。もし一人だった場合、エレベーターの前で、挙動不審なままに立ち尽くしていた可能性が高いように思えたからだ。

「そういやさぁ、世間って狭いね。修吾とお友達だったんだって?」
「修吾?」
「お友達の名前くらい覚えていてやれよ、日和くん。水原修吾。ゼミ一緒なんだろ?」
「あ」

 日和はその苗字に短く声を上げた。

「あ、あの。俺、べつになにもそんなに根掘り葉掘り聞いたりは……」
「わかってる、わかってる。あいつも弁えてるし、日和くんも弁えてるでしょ。基生には面倒臭いから言ってないけど」

 地元の忘年会で会ったときにね。我慢できなくなったみたいであいつゲロしちゃって。話を聞いた経緯を日和に説明しながら、着いたエレベーターに羽山が乗り込む。日和も慌ててその後を追った。狭い空間に苦笑いのような声が響く。飄々としたトーンとは違うそれに、日和は横顔に視線を向けた。

「あいつね、本当にただの面倒臭いやつだからね。十年来、いや下手したら二十年か。の付き合いの俺が言うんだから間違いない。まぁ、なんというか、本当に妙なところで人を誑すやつではあるんだけど。昔から」

 二十年って幼馴染みみたいなものなのか。新たに知る事実に、日和は曖昧に頷いた。

「だから、まぁ、お節介を焼きたくなるんだよなぁ。あいつからしたら余計な世話なんだろうけど」

 どう答えていいのかわからない日和の肩に、羽山が腕を回して叩く。痛い。というか、握力が強い。

「というわけで。ぴよちゃんは、めぐちゃんたちと吞んでなよ。俺は基生の相手しとくから」
「え……と。あの、羽山さん?」
「軽く潰してやるから、もう一回、話してみれば。なにを諦めたのかは知らねぇけど」
「え、いや。……え?」
「それくらいのハンデがないと、あいつはぴよちゃんごときに本音を晒してくれませんって。だから、いいの、いいの」
「ごときって」
「それに多少弱ってたって、絶対、基生のほうが強いから。そのへんは心配してないし。あ、でも」

 チン、と音を立てて、目的の階にエレベーターが到着する。ドアが開く寸前。ぐいとそのまま引き寄せられた。そして耳元で一言。

「まかり間違って、何かあったとして。泣かせたら、潰すよ」

 ――こ、怖ぇ……。というか、だから、あんたら元ヤンだって言われてたんだよ、絶対。

 呆然とする日和の背をバンバンと叩いて、羽山はさっさと降りていく。着いて来ない日和を手招いた顔は、いつもの見慣れたそれだったのだが、逆に怖い。

「なにしてんの。早く、おいで。ぴよちゃん。みんな待ってるんだから」

 エレベーターの中で誰かと二人きりが自分の中で地雷になりそうだ、と思いながら、日和はなんとか笑顔を浮かべてみせた。ぎこちなかったとは思うが。
 というか。お疲れ様です、とつぼみのスタッフの面々に迎え入れられながら、日和は内心で頭を捻っていた。

 ――というか、なんで。俺が真木さんのことを好きな上に、一度、振られたことがあの人の中で前提になってるんだ?
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