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空と夜の間

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 夜のとばりの明けやらぬうち。

「竜の国とも言われる朝の国の地下に、魔王が囚われている。愉快なことだ! 物語か夢のようだな! これは、誰の見ている夢だろうな? 竜騎士王子」

 祈りの塔の地下には、変わらず青白い光の牢獄があって、静謐な地下の空気を不穏に照らしていた。
 長く黒いざんばら髪の間から、炯眼がオーランドを射る。
 オーランドはまだ鎧を纏っていない。竜騎士王子に纏わり付いたままの気だるい情事の匂いをかぐために、光に縛された闇の魔王はすんすんと鼻を鳴らす。

「あの娘の身体は甘く温かかったか。長い耳のかわいい雌兎。発情しきった肉はさぞかしうまかったろう」

 黒く伸びた指が宙を泳ぐ。彼が知らないはずの女の胸の膨らみや、胴のくびれを描いてみせる。
 魔王はひとしきり道化のように牢獄の中でおどけ芝居を披露してから、表情を消した。

「……何をしにきた、オーランド王子。世界樹の愛し子の力を得たなりに、俺を消しに来たか。今の貴様なら、うまくやれば俺と相打ちできるやもしれん」

 オーランドはゆるく頭を振った。それから、青空の色の瞳で、黒い邪眼を見つめ返した。

「……魔王……、いや、お前は……サクヤか」

 魔王は無言のままだ。

「……お前は、誰なんだ?」

 オーランドの問いかけは、牢の中に向けられたものか、それとも自身に向けられたものか。
 しばし青と黒の視線が、光の格子ごしに交錯する。
 先に視線を反らしたのは、魔王であった。

「……竜騎士王子殿、俺には貴様が何を言っているのかわからんな」

 オーランドは何か言いたげに開いた唇を引き結んで、それから口調を改めて話し出した。

「夢を見せたのか、リナに。彼女を利用して、ここから出ようとしたか」

 オーランドがリナを自室に招いてすぐ、リナはオーランドに自身の夢について語っていた。その時、若葉色の目に涙を浮かべた彼女が震えていたのを、オーランドはまざまざと思い浮かべることができた。

「そうだとしたら、どうする? 高潔な竜騎士王子」
「……どうもしない。ただ、もしお前がリナの言うサクヤであれば……お前の中に、かけらでもサクヤの存在があるのなら、俺はお前に言わなければいけないと思っただけだ」
「……面白い、聞いてやろう。オーランド王子」

 ここに来て、オーランドは視線を床に落とした。足下深くには世界樹の力が流れている。オーランドの知る限り、この流れは絶えることはなかった。
 リナを通じ、今やオーランドの裡には膨大な力が流れ込んでいる。その力は、オーランドを思い上がらせるよりも、むしろ敬虔にさせた。
 何に対して――世界樹に――世界そのもの――生きることそのものに対しても漠然とした畏敬の念、そして、より具体的には、彼に自分を差し出したリナに、リナがずっと追い求めたサクヤに対して。

「魔王、いや、サクヤ。……俺は、お前の良き友人であったか? ……お前の、信頼に足るだけの」

 生命は巡る。葉の恵みを受け、幹のように己を辿り、いつか根に還る世界樹の世界。
 守りたいと思える相手に出会えることは、僥倖ではないか。オーランドがずっと待ち続けた僥倖は、決して彼だけの尽力では迎えることができなかったもの。
 オーランドに関わる全て、リナに関わる全て、ありとあらゆるものが、今、この時に繋がっていなければ、そして、今が今でなければ、きっと失われていただろうもの。

 オーランドは俯いていたから、魔王の顔は見ていなかった。見ていれば、きっと彼も思っただろう。まるきり虚を突かれたような表情を、魔王は浮かべた。

 オーランドは俯いたまま魔王に背を向けた。

「……竜騎士王子、貴様はあの女によく似ている」

 オーランドは肩越しに光の牢を振り返る。

 魔王は背を向けていた。二人は背中合わせで、お互いへの言葉を、お互いに向かってかけることはできない。

「忌々しい、あの緑の瞳……」

 オーランドは歩き出した。後ろ手に、扉を閉めてから、囚人が言った緑とは、彼が慈しむ緑ではないことに気づいた。






 ぽかりと意識が浮上する。殻を剥いたゆで卵が、ぷりんと手の中から押し出されるみたいにして、リナは目を覚ました。まだあたりは暗く、夜の続き。

「……あ?」

 見慣れない天蓋が視界にある。

「……う?」

 何だかすうすうして肌寒く、リナはシーツをかき寄せた。そこではたと手を止める。

「……はだか」

 呟いた次の瞬間、リナは顔を真っ赤にして飛び起きた。

「わっ……わ、わ、あぁーっ!」

 弾みで露わになった胸の膨らみを手で隠す。同時に、リナは眠りに落ちる前にしていた行為を思い出す。

(あ、あたし、オーリさまと、ヤ、ヤ、ヤヤヤ、ヤって……もうた……)

 混乱すると関西弁の出るリナである。
 頭を抱えて寝台をのたうち回る。それにしても、恋のABC、初めてのB&Cは。

(すっごい……き、気持ち、よかった……)

 自分が不安定で、緊張も相まって、オーランドの前で泣いて、慰められて、なのに、オーランドはちっともリナへの態度を変えなかった。呆れたり苛立ったりしなかった。
 キスも愛撫も、全てが優しくて、丁寧で、求めるだけ与えてくれて……強く、身体の芯を揺さぶられて。
 妄想の世界とは全然違った。朝チュンにときめいた乙女時代を過ごした古居 莉那は、いつしかえげつない腐ものにも手を出せるようになって、いっぱしの耳年増にはなっていたのだけれど。
 あんなに麗しい王子が、リナのあちこちにキスをして、更には……。

「ぎぃやーっ!」

 リナはシーツを被って丸まった。
 そこにドアが開く音がして、人の気配が寝台に近づく。
 リナはますます縮こまった。
 ぽん、とシーツの塊に手が載せられる。

「リナ、何を遊んでるのかな」

 リナは誰かわかって、ぱっとシーツから顔だけを飛び出させる。
 もつれきった金の筋の入った銀髪を、蝋燭の仄かな光が照らす。
 オーランドはリナにほほえみかけてから、目を瞠った。

「君、瞳の色が……」
「……えっ?」

 オーランドは側机の引き出しから手鏡を取り出した。
 それを持って、真っ赤な顔でシーツだるまになったリナの隣に座る。

「ほら、見てごらん」
「……何か、変ですか?」
「瞳の色が、初めて会ったときの色に戻ってる」

 鏡に映るリナの瞳の色は、若葉色ではなかった。
 それは、サクヤが変えてしまう前の、リナの本来の瞳の色。遊色を盛んに躍らせるオパールのような虹色の瞳。

「あれ、何でだろ……」

 リナはしげしげと鏡の中を覗き込む。
 合わせてオーランドも覗き込む。
 小さな手鏡に、リナとオーランドが映っている。金色の髪に青い瞳、端整な顔立ちに甘やかな笑みを浮かべるオーランドと、鏡の中で目が合う。

「君は普段からあまり鏡を見ないの?」
「いやっ、見ますよ! よ、よだれとか目やにとか……って、ち、近い、んですけど」
「リナ」

 シーツごとすっぽりとオーランドの腕に抱きしめられる。つむじにキスを落とされて、リナは震え上がった――それが、あまりに親密な仕草だったから。

「オーリさまっ! あっ、あの、あの」
「辛いところはない? 無理をさせたかな」
「つっつつつつつっつらっつら!? つらひっ!? ぜんぜんっ! 全然問題ないです!」
「……リナ、落ち着いて」

(落ち着けるか-!)

「そ、そういえば、ど、どこ、どこか行ってたんですか?」
「うん。リナが寝てしまったけど、俺は目が冴えて眠れなくて、ずっとリナの寝顔を見てたけど」
「ねっ、寝顔!?」
「かわいい寝言も言ってたよ。疲れたんだね、リナは起きる気配がないから、手持ちぶさたで散歩に行ったんだ」
「ねごと……ひぃ……。それは、ご迷惑をおかけして……。な、何て言ってました?」
「それは、秘密だよ」

 オーランドの腕が巻き付いて、シーツだるまのリナは動けない。
 口づけはつむじから額へ、額から頬へと下りてくる。

「リナ」

 青い瞳が迫る。
 この特別に甘い声は、すでに、リナの芯に刻まれていた。
 虹色の瞳が、紫を強くして潤む。

 至当なこととして、リナはオーランドの唇を受け入れた。

「んっ……」

 口づけは深くなる。
 眠るリナの頬を伝った涙、夢の向こうにリナが、苦しげに呼んだ名前を、かき消すように。



 明くる朝、オーランドに伴われて入った食堂で、仲間達の視線に固まったリナだったが、ルドルフの、

「おー! 無事、女になったかリナ、重畳重畳!」

 それから続くからからとした笑い声に、リナが手近にあった皿を投げつけて、場はどっと盛り上がって、いつも通りの朝食が始まった。
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