居酒屋ちろり〜独身男のこだわり晩酌記録〜

松山あき

文字の大きさ
7 / 10

三品目 だし巻き玉子/SEASONS(前)

しおりを挟む
「ちろり」の大将・佐藤の朝は早い。

 ちろりから徒歩圏内の自宅で目を覚まして、大きな欠伸をしながら「あー……疲れがとれねえ」とぼやいた。

――健二はかわいいなあ。

 それもこれも、懐かしい夢を見たせいだ。頭を撫でられたくすぐったい感触までも蘇ってきて、少しだけぼんやり布団を眺めてから無言で起き上がる。
 
 魚の問屋は午前中のうちに配達に来てくれるし、野菜も昼前か午後イチには持ってくる。どちらも物を自分で確かめたい性分の佐藤は必ず立ち会うし、季節の良いものを勧められて買うこともあった。
 合間に店の掃除をして、お通しを作った後の静寂が最も心が落ち着く時間になる。

『今日のカブには甘辛い餡をかけて出そう。肉のコクがない分、鰹を強めに出汁を引いてみたが、線が細すぎるか?』

 出す直前に茹でた小松菜を少し添えようと、煮汁にわずかにとろみをつけたお通しを一口頬張って自問自答する。少し塩っぱい、日本酒にも焼酎にも合いそうなものになった。

『宴会用はこれで十分だな。あの人が純米吟醸とかハイボールの気分だったら、柚子の皮でも少し擦ってやればいい』

 毎週同じ曜日、同じような時間に来る客は、どうやら味にうるさいらしい。
 おしゃべりというわけではないが、酒と肴を前にうんうん唸っている日もあれば、口元に笑みを浮かべてつまみと飲み物を行ったり来たりする日もある。
 自分の舌と気分に合うかどうか吟味しているのだろう。同年代だというのに表情豊かに店を楽しむ男を、佐藤は面白いと思いながら出迎えていた。

 つまみを一気に捩ると、ゴォっと音がしてコンロに火がつく。炎がしっかり青いことを確かめてから銅板の玉子焼き鍋に油を厚めに引いて温める。
 焦げ付きそうな時にはこうして油ならしをしてやらなくてはいけない。せっかくのいい道具だ、長く使ってやりたいと、丁寧に手入れを施してやる。

 この鍋は佐藤がこちらに来たばかりの頃、合羽橋で選んだものだ。手になじむ重さかどうか、中に引かれた錫の厚さなど、いくつも店を周り一番気に入った物を購入した。
 同じように選んだ包丁と並び、佐藤の相棒とも呼ぶべき代物だ。

『やっぱり重いな』

 銅板の調理器具は熱伝導の良さや、均一に熱が広がるのが良さではあるが、一般的なフライパンより厚みがあって重たい。
 修行時代、この玉子焼き鍋を旅館で振っていた頃は何度も腱鞘炎になったな、とテーピングもサポーターもない左手首を見つめる。
 新しい火傷ばかり増えるのでもうどれか分からないが、佐藤の腕にはあの頃の失敗やひたむきさが今でも刻まれていた。

 手入れとしては十分な程度に温めてから火を止める。ポットに油を戻してキッチンペーパーで余分なものを拭き取りながら、ふとこの銅板が重くて重くて仕方がなかった頃を思い出して手が止まる。

『俺も若かったなあ』

 心の中でボヤいては、こめかみを掻いて今度は包丁の手入れに移った。
 反町にとって酒と肴を堪能する時間がそうであるように、佐藤にはこうして道具の手入れをしている時間が最高の贅沢なのだ。

「ちろり」の二階には十名程度が限界の宴会場がある。
 忘年会・新年会シーズンともなれば、仲間内で集まりに来る人がちらほらといるが、普段はあまり活躍しない。

 珍しく稼働してるそこの料理出しが落ち着いた頃、いつもより少し遅い時間に反町が顔を出した。
 いつもスリーピースのスーツを嫌味なく着こなす男だが、今日はその顔に若干の疲れが滲んでいる。

「あ、反町さん。今日は遅かったね。お疲れ様」

 早希が出すおしぼりの温かさを噛み締めるようにしばらくそれで手を包んでから、反町はゴシゴシと手を拭き品よく畳みながら笑みを浮かべる。

「いやあ、納期トラブルでバタバタしてさ。早希ちゃんも、今日は遅いじゃない」
「うん。上が宴会でね、もうあがるとこ」
「そっか、駅前で騒いでるのいたから、できそうなら迎えに来てもらいな」
「わかった。ありがと、反町さん」

 そう言ってお品書きを眺め始める反町を横目で見ながら、今日は何を注文するのかと耳を澄ませる。
 カウンターに座る年配の男性客も、テーブルで萎びたフライドポテトをしばらく聞き役にして話に夢中になるサラリーマンも、恐らく料理の追加は出ない。

 あとは反町と、もしかしたらやってくる新規の客に腕を奮うばかりとなっていた。

「なあ、大将」
「はいよ」
「あれ、何?もしかして、大将の晩酌用?」

 そう言って反町が指さしたのは、カウンターの一番端、影がかかっているところに置かれた小ぶりだが厳重に包装された段ボール。「酒」と大きく書かれては、この客の目に止まらないはずがないのだ。
 ちょうど宴会客と時を同じくして配送されてきたものだから、佐藤も存在を忘れかけていた。

「いや、新しく店に入れちゃどうかと思って買ってみたんだ。麦焼酎なんだが、あえてコクが深いのは避けてきたから、まずは試飲しようかと思ってね」
「ああ。ここは和食中心だし、すっきりしてる方が無難だよな」

 コクが深い焼酎は同時に焙煎香も強く、繊細な料理では負けてしまうこともある。味の濃い料理もあるにはあるが、数としては多くはない。
 だが、反町のような酒好きの客も多く、また麦チョコ系とも呼ばれる焼酎が流行っていることもあり、佐藤も重い腰を上げることにしたのだ。

「大将、俺はその麦をお湯割りで頼みたい。値段はぼったくらなきゃ適当でいいよ」
「あんたもわがままですね。お湯が先でいいんだろ?割合はどうする?」
「分かってるね。それなら無難にロクヨンで頼むよ。……あ、それとだし巻き玉子も」
「へえ」

 ありとあらゆる酒を試したい反町のような人間は、こういう時に我慢が効かない。だが、同時に味の感想を聞くにはちょうどいい。

『なんたって、あんな顔して飲む人だ』

 小さく息をつき、だし巻き玉子の準備を始める。
 卵を割り、出汁を加える。料理人生活で最も作ってきたと言ってもいいこの料理は、味付けも混ぜる工程も全て身体に染み付いていると言っても過言ではない。
 濾し器をくぐる卵液の雰囲気もいつも通りだと確信し、いよいよ玉子焼き鍋に手をかけた。

 鍋は熱いほうがいい。低い温度ではせっかく多めに出汁を入れたのに、その良さが生きない。
 その分もたもたすれば見栄えも味も落ちる。タイミングとスピードが肝要だ。
 油をなじませた鍋に卵液を流し込めば、ジュウッと音がして出汁の柔らかな香りとともに気泡が立つ。
 そこからはひたすら玉子が乾く前に、右手と左手を阿吽の呼吸で返して巻いていく。鍋がコンロを擦り、菜箸が鍋をつつく音だけが佐藤の耳に届く。

 先ほどの妙な感傷のせいだろうか。佐藤の手は迷いなく動くのに、心がそちらに引っ張られて、この鍋がうまく振れなかった日のことを思い出してしまう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

せんせいとおばさん

悠生ゆう
恋愛
創作百合 樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。 ※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。

処理中です...