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三品目 だし巻き玉子/SEASONS(中)
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佐藤は料理人になりたくてこの世界に入ったわけではない。
就職氷河期なんて言われる頃に高校卒業を控え、学校から推薦がもらえる求人の中で先生が勧めたのが旅館の厨房だった。
佐藤は手先が器用だからどうだ、とその一言だけで「とりあえず仕事ができれば何でもいい」と住み込みを決めてしまい、両親に人生イチと言っていいほど叱られた。
だが、やってみると、黙々と盛り付けを行う作業も、料理の知識を吸収するのも佐藤には合っていた。
料理長や兄貴分から怒鳴られて気落ちすることはほぼ毎日だったが、その分彼らは休憩には若造を可愛がり、時には食事にも連れ出してくれる。
おそらくかなり恵まれた職場だった。
中には体罰に近いことを平気な顔をしてやるところもあったという。昭和の風が未だ強く吹き付ける板場の世界ではマシなほうだと言える。
素直で無駄口を叩かず、先輩に従順なわりに芯のある佐藤を先輩たちはいたく気に入り、二年目からは調理技術も教えてくれるようになった。
そこで佐藤が初めて挫折を覚えそうになるほど苦労したのが、だし巻き玉子だ。
夏の終わりから習っているが、焼きは冬の足音が聞こえる頃になっても習得できずにいる。
包丁仕事は休みの日に日がな一日練習すればギリギリ形にはなった。
だが、何度教えてもらっても玉子焼き鍋を滑らかに操れない。ましてや強めの火を維持したまま、卵液が乾ききる前に巻くことは至難の業に思えた。
焦げつくことを恐れれば火加減が足りずにパサパサになり、もたつけば出汁が逃げて味が落ちる。だからといって慌てれば限界まで出汁を入れた旅館特有の緩い卵液では形も崩れる。
コツさえ見えず、暗雲の中にいるような気分を抱える日々が続いていった。
佐藤も意地になり、毎日「下手くそ」とダメ出しを受けながらも賄いのおかずにだし巻き玉子を作らせてもらい、先輩の誘いを断って毎晩のように練習を重ねていくようになる。
「あれ、健二じゃん。こんな遅くに何やってんの?」
厚手の濡れ布巾を玉子に見立て、カシャカシャと懸命に鍋を滑らせる佐藤が振り返ると、そこには缶コーヒーを片手に持った短期バイトのみゆきがいた。風呂上がりなのか、眉毛がほとんどなくて一瞬誰だか分からずに佐藤も戸惑う。
「みゆきさんこそ、お姉さんがこんな時間にどうしたんですか?」
佐藤が勤めていた旅館は比較的古い文化を残しており、いわゆる仲居さんを「お姉さん」と呼び、従業員同士も下の名前で呼び合うことも多かった。
今となっては不思議なことだが、佐藤はみゆきだけでなく、ほとんどの「お姉さん」の苗字を知らない。
「ケータイ忘れちって。メール返さないとめっちゃ怒られるんだよね」
「はあ」
「ここさあ、マジ電波悪くない?寮の端っこの方しかバリ三になんねえの」
当時携帯電話を持っている人も多かったが、友達が多いのか、派手な雰囲気のみゆきは休憩時間ともなるとひたすらメールしている。
荷物置きのボックスから、大量のストラップをぶら下げた携帯電話を見つけ出すと、みゆきはなぜかそのまま帰らずに佐藤に近づいてきた。
「何やってんの?鍋に布巾って、掃除?」
「違います、鍋を振るための練習です」
高校の時には派手な女子のこちらをバカにしているような視線が苦手だったが、同じようなギャルでもみゆきは不思議と話しやすい。そのせいか、食い気味にどこか生意気な口調で返してしまった。
「へえ。板さんってこうやって練習すんだ……。健二、毎日だし巻き玉子作ってるもんね。みんな残すけど」
佐藤のところでは、昼は厨房のスタッフが作った賄いを大皿から勝手にとっていき、夜は弁当をとっていた。
衛生管理上一定時間経つと回収してしまうのだが、佐藤のだし巻き玉子は他に比べて残される量が多い。レシピは同じなのに、それもやっぱり悔しかった。
「ってか、明日も早いんじゃね?」
「俺は休みなんで。休みの日は鍋借りられないから、練習しないと」
明日は一日練習ができない。ホームセンターで買った玉子焼き用のフライパンでタイミングを合わせる練習は出来ても、それ以上は難しい。
そう思うと焦りがこみ上げて、普段は重い佐藤の口が少しずつ滑らかになっていく。
「兄貴分から時間をかけて教わってんのに、全然上手くできない。それが、申し訳ないし、昨日より上手くなれないのは、悔しいんです」
そう言って唇を噛み締める佐藤だが、みゆきは「ふーん」と相づちをしてから、手に持った甘い缶コーヒーを揺らして口に含んだ。
「わかるわかる。アタシもスノボー上手くできないとき、おんなじこと考えるもん」
一つ年上のみゆきはスノボーで飯を食えるようになりたいと言い、夏の間は避暑地で、冬になるとゲレンデ近くで住み込みで働く生活をしている。
冬場は少しでも時間が出来る度にゲレンデに降りるのだと、佐藤もみゆきから聞いていた。
「頭でできるって思って滑るのに、全然できないとき、あり得なくない?ってめっちゃ腹立って、板折りたくなる」
「みゆきさんでも、そんなことあるんですね」
佐藤にはみゆきの腕前は分からないが、小さな大会で賞をとったこともあるらしい。
そんな出来る人でも自分と同じような気持ちになることがあるのかと、口から感想が漏れていた。
「当たり前ー。ってか、夢中になるってそういうことじゃん。でも、健二、おいしくなってるよ」
「え……」
「だし巻きさ、最初はパッサパサでキューティクル死んだ髪の毛かって思ったけど、最近は焦げてるけどうまいよ」
まさか残されるばかりの自分の料理を食べていて、そのうえ味の変化に気づいている人がいるとは思わず、驚きのあまり黙り込んでしまった。
「アスリートはタンパク質大事だから毎日食ってんの」
「知りませんでした」
「まあ、うまくいかないときはさ、コーヒー飲んでちょっとぼーっとすんのよ。時々、ここでつまずいてるじゃんって気づくときあるし」
従業員食堂の自動販売機ではみゆき以外誰も買わない練乳のように甘いコーヒーを、さりげなく差し出してきた。
その自然な仕草に佐藤は首を傾げつつも、ドキッとする。
「……飲む?」
「えっと……」
若い自分の予想が妄想でないことに驚いたのはもちろん、それを飲んで良いのかどうか戸惑って、佐藤の視線が泳いだ。
「あーでも、間接キッスになっちまうなあ。……健二、どうする?」
ほんのり紅が差した佐藤の頬を見て、みゆきも気がついたらしい。
からかうように上目遣いで問いかけられると、健二は意識しないようにしていた缶コーヒーの飲み口ばかり見てしまい、いよいよ固く口を結んでしまうのだった。
就職氷河期なんて言われる頃に高校卒業を控え、学校から推薦がもらえる求人の中で先生が勧めたのが旅館の厨房だった。
佐藤は手先が器用だからどうだ、とその一言だけで「とりあえず仕事ができれば何でもいい」と住み込みを決めてしまい、両親に人生イチと言っていいほど叱られた。
だが、やってみると、黙々と盛り付けを行う作業も、料理の知識を吸収するのも佐藤には合っていた。
料理長や兄貴分から怒鳴られて気落ちすることはほぼ毎日だったが、その分彼らは休憩には若造を可愛がり、時には食事にも連れ出してくれる。
おそらくかなり恵まれた職場だった。
中には体罰に近いことを平気な顔をしてやるところもあったという。昭和の風が未だ強く吹き付ける板場の世界ではマシなほうだと言える。
素直で無駄口を叩かず、先輩に従順なわりに芯のある佐藤を先輩たちはいたく気に入り、二年目からは調理技術も教えてくれるようになった。
そこで佐藤が初めて挫折を覚えそうになるほど苦労したのが、だし巻き玉子だ。
夏の終わりから習っているが、焼きは冬の足音が聞こえる頃になっても習得できずにいる。
包丁仕事は休みの日に日がな一日練習すればギリギリ形にはなった。
だが、何度教えてもらっても玉子焼き鍋を滑らかに操れない。ましてや強めの火を維持したまま、卵液が乾ききる前に巻くことは至難の業に思えた。
焦げつくことを恐れれば火加減が足りずにパサパサになり、もたつけば出汁が逃げて味が落ちる。だからといって慌てれば限界まで出汁を入れた旅館特有の緩い卵液では形も崩れる。
コツさえ見えず、暗雲の中にいるような気分を抱える日々が続いていった。
佐藤も意地になり、毎日「下手くそ」とダメ出しを受けながらも賄いのおかずにだし巻き玉子を作らせてもらい、先輩の誘いを断って毎晩のように練習を重ねていくようになる。
「あれ、健二じゃん。こんな遅くに何やってんの?」
厚手の濡れ布巾を玉子に見立て、カシャカシャと懸命に鍋を滑らせる佐藤が振り返ると、そこには缶コーヒーを片手に持った短期バイトのみゆきがいた。風呂上がりなのか、眉毛がほとんどなくて一瞬誰だか分からずに佐藤も戸惑う。
「みゆきさんこそ、お姉さんがこんな時間にどうしたんですか?」
佐藤が勤めていた旅館は比較的古い文化を残しており、いわゆる仲居さんを「お姉さん」と呼び、従業員同士も下の名前で呼び合うことも多かった。
今となっては不思議なことだが、佐藤はみゆきだけでなく、ほとんどの「お姉さん」の苗字を知らない。
「ケータイ忘れちって。メール返さないとめっちゃ怒られるんだよね」
「はあ」
「ここさあ、マジ電波悪くない?寮の端っこの方しかバリ三になんねえの」
当時携帯電話を持っている人も多かったが、友達が多いのか、派手な雰囲気のみゆきは休憩時間ともなるとひたすらメールしている。
荷物置きのボックスから、大量のストラップをぶら下げた携帯電話を見つけ出すと、みゆきはなぜかそのまま帰らずに佐藤に近づいてきた。
「何やってんの?鍋に布巾って、掃除?」
「違います、鍋を振るための練習です」
高校の時には派手な女子のこちらをバカにしているような視線が苦手だったが、同じようなギャルでもみゆきは不思議と話しやすい。そのせいか、食い気味にどこか生意気な口調で返してしまった。
「へえ。板さんってこうやって練習すんだ……。健二、毎日だし巻き玉子作ってるもんね。みんな残すけど」
佐藤のところでは、昼は厨房のスタッフが作った賄いを大皿から勝手にとっていき、夜は弁当をとっていた。
衛生管理上一定時間経つと回収してしまうのだが、佐藤のだし巻き玉子は他に比べて残される量が多い。レシピは同じなのに、それもやっぱり悔しかった。
「ってか、明日も早いんじゃね?」
「俺は休みなんで。休みの日は鍋借りられないから、練習しないと」
明日は一日練習ができない。ホームセンターで買った玉子焼き用のフライパンでタイミングを合わせる練習は出来ても、それ以上は難しい。
そう思うと焦りがこみ上げて、普段は重い佐藤の口が少しずつ滑らかになっていく。
「兄貴分から時間をかけて教わってんのに、全然上手くできない。それが、申し訳ないし、昨日より上手くなれないのは、悔しいんです」
そう言って唇を噛み締める佐藤だが、みゆきは「ふーん」と相づちをしてから、手に持った甘い缶コーヒーを揺らして口に含んだ。
「わかるわかる。アタシもスノボー上手くできないとき、おんなじこと考えるもん」
一つ年上のみゆきはスノボーで飯を食えるようになりたいと言い、夏の間は避暑地で、冬になるとゲレンデ近くで住み込みで働く生活をしている。
冬場は少しでも時間が出来る度にゲレンデに降りるのだと、佐藤もみゆきから聞いていた。
「頭でできるって思って滑るのに、全然できないとき、あり得なくない?ってめっちゃ腹立って、板折りたくなる」
「みゆきさんでも、そんなことあるんですね」
佐藤にはみゆきの腕前は分からないが、小さな大会で賞をとったこともあるらしい。
そんな出来る人でも自分と同じような気持ちになることがあるのかと、口から感想が漏れていた。
「当たり前ー。ってか、夢中になるってそういうことじゃん。でも、健二、おいしくなってるよ」
「え……」
「だし巻きさ、最初はパッサパサでキューティクル死んだ髪の毛かって思ったけど、最近は焦げてるけどうまいよ」
まさか残されるばかりの自分の料理を食べていて、そのうえ味の変化に気づいている人がいるとは思わず、驚きのあまり黙り込んでしまった。
「アスリートはタンパク質大事だから毎日食ってんの」
「知りませんでした」
「まあ、うまくいかないときはさ、コーヒー飲んでちょっとぼーっとすんのよ。時々、ここでつまずいてるじゃんって気づくときあるし」
従業員食堂の自動販売機ではみゆき以外誰も買わない練乳のように甘いコーヒーを、さりげなく差し出してきた。
その自然な仕草に佐藤は首を傾げつつも、ドキッとする。
「……飲む?」
「えっと……」
若い自分の予想が妄想でないことに驚いたのはもちろん、それを飲んで良いのかどうか戸惑って、佐藤の視線が泳いだ。
「あーでも、間接キッスになっちまうなあ。……健二、どうする?」
ほんのり紅が差した佐藤の頬を見て、みゆきも気がついたらしい。
からかうように上目遣いで問いかけられると、健二は意識しないようにしていた缶コーヒーの飲み口ばかり見てしまい、いよいよ固く口を結んでしまうのだった。
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