居酒屋ちろり〜独身男のこだわり晩酌記録〜

松山あき

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三品目 だし巻き玉子/SEASONS(後)

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『若かったんだよなあ、本当に』

 二十五年近く鍋と向き合い続けたおかげか、意識が少し逸れても美しい層の重なりが出来る。
 ずっと昔に置いてきた自分が気恥ずかしいような気がして詰まってもいない鼻を鳴らすと、黒に近いグレーの平皿にだし巻き玉子を盛り付ける。
 少し上を向いた縁の近くまで出汁が溢れ出し、悪くない出来のように思えた。

「おまたせ。だし巻きだよ」
「おお。端っこもあって、大根おろしもたっぷり。……分かってるねえ」

 初めての客には見栄えのために端は切り落とすが、反町は油の風味や焦げも楽しみたいのか乗せると喜ぶ。
 お通しは添えた小松菜だけが残っているが、組み合わせとしては気に入ったのか、お湯割りはもう半分ほどに減っていた。

「大将、ごっそさん」
「はいよ。ありがとうございます」

 佐藤はできれば反町から酒の感想を聞きたかったが、宴会客に会計を頼まれてしまう。
 元々無理を言って料理出しだけ手伝ってもらっていた早希は、先ほど「反町さん、飲み過ぎないようにね」と言い残して迎えにきた彼氏と帰ったところだ。
 
 人というのは波に乗る習性があるのか、そのあとも立て続けに客は帰っていき、ラストオーダーの少し前にとうとう反町一人となってしまう。

 反町は話好きではあるようだが、自分の世界にいるときに話しかけられるのを好まない。
 おかげで放っておいても、むしろそれを求めていると言わんばかりの態度で静かに飲んでいてくれる。
 だが、先ほどの彼のピッチを考えると、酒はもう残っていないだろうと、佐藤は慌てて声をかけた。

「悪かったね」
「いや、週末は忙しくなくちゃ」
「同じものにするかい?」
「ん……。ああ、そうだな。コイツはお湯割りがいい」

 言葉は決して多くないやりとりでお互いの意思を汲むと、今の店には不釣り合いなポップスと、柿釉のグラスに焼酎を注ぐトクトクという音だけが店内に響いた。
 
 先ほど入れたときも感じたが、この麦焼酎の香り高さは店になじむか、佐藤には少し悩ましい。
 キャラメルとまでは言わないが、香ばしさと甘さがほどよくブレンドされたいい香りがする反面、佐藤が得意とする料理には些か印象が強い。

「はいよ」
「ありがとう。定番だが、やっぱりいい酒だな」

 これはこれで反町の好みらしく、早々に喉にくぐらせていく。
 ゴクリと胃に落とした後、少し溜めてからほおっと息をつく姿は、品がある顔立ちのわりにオヤジくさい。

「こういう麦を飲んだあと、口の中で香りを転がすのが好きでな」
「いい趣味だ。だが、そう楽しむなら、お湯割りだとうちの料理じゃ物足りないんじゃないか」

「そうだなあ」と呟いて、反町はだし巻き玉子とそのあとで再び焼酎を口に運んでいく。
 長い溜めのあと再び深く息をついてこちらを見上げた。

「例えるなら、パンチ一発でバイキンが飛んでく、ああいう感じかな。だし巻きの良さがいきなり吹き飛ばされる。大将のだし巻きは居酒屋にしちゃ品が良いから余計にな」

 だし巻きを差し置いて主張しすぎるような酒はやはり考え直すべきか、と佐藤は思案に耽る。
 そんな佐藤に反町はニヤリと笑いかけて「でもな」と語りかけてきた。

 そして一口大に切り分けただし巻きを一つ箸で摘み上げるとそれをお通しの餡に豪快にくぐらせる。

「俺の勘が正しければ、これは合う。」

 期待を抑えきれないのか、てりてりになっただし巻きを大きく口を開けて頬張ってみせた。餡の量が多すぎて口の端についたのを乱暴に左手で拭ってから、反町はためらいなくグラスをあおる。

 そんな食べ方じゃあ、出汁が濃い味に消されちまうじゃねえか、と思いつつも、佐藤は大きく上下する反町の喉からも、緩みそうになりながらも必死に香りを楽しもうとする口元からも目を逸らせずにいた。

「……くぅー。やっぱりな。餡の雰囲気と、この酒は合う」

 眉を寄せ、酒の余韻という至福を顔中で表現しながら反町はそう言った。
 四十も過ぎて子どものような顔と声でそう言うのがおかしくて、佐藤はついつい肩を震わせてしまう。

「ずいぶん行儀が悪いな」
「おっと、この店じゃこういうのはナシか」
「いいや、それが居酒屋だ」

 ここは旅館でも、料亭でもない。好きなものを好きなように楽しむ空間だ。
 恐らくそれを自分以上に堪能しているのが反町なのだろう、と再びおかしさがこみ上げてきた。少し考えすぎていたのかもしれない、と。
 こちらがアレコレ考えすぎずとも、客はこうやって勝手に楽しさを見つけてしまうのだろう。

「そういえば、大将もまだ飲んでないんだったな。……飲むか?」

 必死に笑い出すのを耐えている佐藤に、反町は何気なくグラスを掴んだ腕を伸ばしてきた。その光景になぜだかあの日のみゆきを思い出してしまい、佐藤の意識が過去に引っ張られてしまう。
 固まった佐藤を不思議に思ったのか、反町はグラスを揺らして気を引こうとする。途端にふわっと香ってきたのがあのときの甘ったるいものではないと気づいて、波が引くように現在に焦点が合ってきた。

「どうしたよ」
「いや、修行始めた頃、一緒に働いてた仲居さんに同じようなことされたなって思い出しただけさ」
「へえ。回し飲みしようって?……いいねえ、青いねえ」

 普段は酒と健康の話しかしない大将の、ごくプライベートな話に反町は興味津々といった様子を隠しもせず、酒を脇に置いて前のめりになってきた。
 
「反町さんが期待するようなもんじゃねえよ。飲みかけの缶コーヒー差し出して、間接キスだなって笑われただけだよ」
「でも飲んだんだろ、缶コーヒー」
「……飲めなかった。その人、あのあと一週間もしないで辞めたから、それっきりだ」

 厨房で語り合ってから一週間くらいして、みゆきは冬のゲレンデに旅立った。
 携帯電話の番号を聞く勇気も暇も、その時の佐藤にはなかった。

「かっわいいじゃねえの。大将にもそんな青い時期があったんだな」
「止めてくれ。もうすぐ五十になる男に」

 すっかり気を良くした反町とは対照的に、佐藤は恥ずかしいやら情けないやらで、なんとなく座りが悪い気分になる。
 軽く片付けを始めようかと身体の向きを変えると、いい肴を簡単に逃がしてやるものかと言うように、反町はこちらに手招きをしてきた。

「大将、大将。……間接キス、するか?」

 もう一度焼酎グラスを傾けて尋ねる反町に佐藤をからかう意図があるのは明白だ。
 掴んだ尻尾で遊ぼうとニヤニヤする反町を見て、佐藤の口元はへの字に曲がってしまう。

『こういうとこ、あの人にそっくりだ』

 自分のガチガチに張った肩肘を緩めてくれた端から無神経に振舞ってくる。
 だが、いつまでもあの頃の青坊主が見られると思ったら大間違いだぞ、と悔しい気持ちも湧き上がってきて、佐藤は奪うように焼酎グラスを受け取った。
 そんな佐藤の気概が意外だったのか、反町のほうが固まっているのがグラスをぐいっと傾ける視界の端に映って気分がいい。

「確かにいいな、これ。春の山菜の時期にでも入れよう」

 ごちそうさん、と少しだけ残ったグラスを反町に返すと、佐藤はそのまま少しずつ片付けようかと踵を返した。
 すると、懐かしくも切ないピアノのイントロが店内に響き渡る。
 この歌手を佐藤は特別好きなわけではないが、再び感傷が押し寄せてきて、胸が締め付けられる気がした。

「……これ、あの人も聞いてたな」

 反町に語りかけたわけではない。ただのつぶやきにすぎない言葉だと、反町もきっと分かったに違いない。しばらくの沈黙のあと、迷いを見せながらも口を開いた。

「どこのCDショップに行っても流れてたよな」
「そうだな」
「この頃の彼女、みんな金髪ショートだったなあ」
「何だそりゃ。手癖悪いな、あんた」

 彼女が人気絶頂だったのはたかだか数年程度だ。その間に何人も関係を持ったというのだから、褒められたことではない。
 反町がつぶやいたのは下手な慰めなのか、佐藤の予想外の言動に居心地が悪くなっただけなのかわからない。
 ただ、あまりに稚拙なごまかし方がおかしくて、頬を緩ませながら水道の蛇口をひねった。

「ほら、閉店だよ。こっちは宴会の片付けもあるんだ」
「客を追い出すつもりか」
「どうせ来週も来るんだろ。これ、あんたのボトルにしとくから。お勘定はちょっとサービスしておく」

 早希の前ではスマートな男も、酒がまわればやっぱり男だ。いつまでも子どものような心を抱えた反町の機嫌を取りつつ、佐藤はしばらく攻防に明け暮れることになる。

 珍しくにぎやかに帰っていった反町がいなくなると、厨房の灯りだけになった店内は水道の音だけが響く。
 すっきりしたのもあるのだろう。洗い物で乾燥し、火傷の跡が残る左手を見ても、佐藤が過去の懐かしさと痛みに引きずられることはなかった。
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