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懐かしい夢を見て智はぼんやりと目を開ける。
退院して直人の家に久しぶりに入った日の温かい夢だった。
あれから二年経ったが、ずっと穏やかな日々が続いているように智は感じていた。
まどろむ意識が一番最初に捉えたのは、直人の部屋の天井だった。
いつも智が使っている布団の上にいるのだと意識がはっきりしてくると、額がひんやりとしていることに気がつく。なんとなくプルプルした感触がして、きっと冷えピタだろうと触らなくても予測ができた。
どうして、寝てるんだっけ?と記憶を探り出す。
智の中では買い物に出かけたあとが少し曖昧になっていた。
「……智」
小さな声で自分を呼ぶ声がしてそちらを見ると、直人が苦しそうな顔で智を見ていた。
あまり広くはない部屋に智の布団を敷くものだから、ほとんどスペースがないところで直人は胡座をかいて座っていた。
あの日、目覚めて一番最初に見た、明人ももうしないような不安に揺れる子どものような表情だ。
「直人……?」
「良かった。……道端で座り込んでて、母ちゃんが熱中症だって言ってた」
道端……その単語からもう一度記憶を探ると、ピントがズレていたところが少しずつ鮮明になってきて、智はゆっくりとそれを手繰っていく。
「……買い物……ポン酢、どうしたっけ?」
「母ちゃんに渡した」
確か直人の母に頼まれたものはきちんと買って帰路についていた。
だが、どうやら家には帰れなかったようだ。
「そうだ……。道、人が歩いてて……」
夕方なのに厳しい日差しの中を女性が歩いてきて、そうだ。その人は……。と点と点が線で繋がった途端、横になっているのに目眩がした。
再び意識を手放しかけた智に、必死な声で直人が呼びかけ、優しく肩を叩いてくれた。
おかげで気絶することはなかったが、気を抜くと再び目を閉じてしまいそうな中で、智はいま一度記憶の映像を繋げていく。
「……お母さん」
「は?」
うっかりと二年前から顔を合わせることさえしなかった人を口にしてしまった。
掠れた声で紡がれたその単語を直人は聞き逃すことはなく、短く低い声をあげて驚きを示す。
「……あの人に何かされたのか?」
会わなくなっても直人はいまだ智の母と兄を嫌っている。
言葉には出さないが、いや、単語も出てこないからこそ、嫌悪感を抱いていることは明白だった。
直人の瞳の温度がぐっと下がってしまったので、智も言うべきかどうか悩んで少しの間口を閉ざす。
ちらりと見上げた直人は智の言葉をじっと待っていて、ごまかされてはくれない気がした。
少しだるさも残っていたが、ゆっくりと身体を起こすと、直人は自然と智の背中を支えてくれた。
智が体調を崩す度に直人はいつも看病をしてくれる。こういう優しい姿を知っているからこそ、口が重くなるが、それでは余計に心配や誤解を生むだけだと微かに息をついた。
「何も……何もなかった。ただすれ違っただけ」
言葉も、視線さえも交わらなかった。それはある意味良かったが、同時にもうやり直すことはできないと確信するには十分な出来事でもあった。
さみしいと思ってしまう気持ちが智の中にないわけではないが、昔ほどの執着はなくなったように思う。
そんな智とは反対に昔と変わらない憎悪を直人は持っているようで、智をそのたくましい腕に閉じ込めて舌打ちをした。
「……くそ。あんま家から出ないって言ってたのに」
「え?」
今度は智が聞き返した。まさか直人が智の母の動向を知っているとは思っていなくて驚いてしまう。
そんなこと、智はこの二年一度も聞いたことがなかった。
「……おじさんに、おばさんのこと聞いてた。クソ兄貴……誠のことも。会うかもしれないのに、智を連れてこれないからな」
直人の過保護がそこまでとは思わず、智はどう返答していいか分からず瞳を揺らして黙り込んでしまう。
人を疑うことも知らなかった直人が、自分に隠し事ができるようになっていることにショックな気持ちが大きい。
智を守る気持ちもあったと理解できるので、責めるべきことでもないことは理解している。
ただ、直人からまぶしさを奪ったのは自分だろうか、と智は思い胸に焦りが忍び寄ってくる。
「…………戻るぞ」
「直人?」
「寮に帰る。……おばさんに会うって分かったら、もうここにいさせらんねえ」
混乱をする智をよそに、直人は今すぐにでも出ていきそうな勢いで立ち上がろうとする。
それだけはさせたくないと、智は必死になって直人の腕を引いて呼びかけた。
「ダメ……。直人、まだここにいないと」
「おばさんはまだしも、誠に会ったらどうすんだ?」
「大丈夫。ぼく、もう外出ないから」
直人の帰りを直人の両親も明人も待っていたに違いない。直人だって自分の家族を大事にしている。
それが想像できるからこそ、なるべく長く家にいさせてやりたかった。
直人は智のために遠方の高校を選んでしまった。その事実が智に罪悪感を抱かせる。
必死にすがりつく細い腕と、頼りなく懇願する智の表情を直人は目を見開いて数瞬見つめた後に、眉間に深いしわを刻んで唇を強く噛んだ。
「んなこと……させられるかよ!そんな、あいつらみたいなッ」
「直人、お願いだから落ち着いて」
叫びように吐き出す直人はいつもの冷静さを失っていて、乱暴に智の手を振りほどいた。
家を出ることを思いとどまってほしくて、智もまた細い声を必死に張り上げる。
言い合いになりかけたとき、突然、直人の後頭部からパシンっと小気味の良い音が響き渡った。
直人は両手で頭を押さえてその場に沈み込む。
音の正体は笹平家母の愛の一発だった。どこから聞いていたのか、呆れた顔で直人を見下ろす彼女の後ろには明人も控えている。
「アンタは本当に人の言うこと聞かないねえ。智ちゃん困ってるじゃない」
部活推薦組や数いるアルファ達をおさえて学年最強と言われる直人を一発で黙らせられるのは、世界広しと言えどもきっとこの母しかいないだろう。
続いてその怒りの目が智に注がれて、思わずビクッと肩を揺らす。
「智ちゃんも。……先にこの子に言うことがあるでしょ。直人も心配してたんだから」
そう言われて智も反省をした。まだ痛そうに頭を押さえる直人の顔を覗き込むようにして見つめる。
「ごめん。看病してくれてありがとう」
「…………悪かった。智を困らせたいわけじゃないんだ。」
ひとまず子どものように仲直りをすると、直人の母はしゃがみ込んで二人に目を合わせてくれた。
「智ちゃん下りて来れそうならご飯にしましょう。食べられそう?」
「うん。大丈夫」
智の答えを聞いて直人の母はゆっくり立ち上がると、結局野次馬のようになってしまった明人を連れて一階に下りていった。
直人が差し出してくれた手をしっかりと握って、智もゆっくりと立ち上がる。
出会った時よりも、病院で目が覚めたときよりも、しっかりとした硬い大きな手。
この手の温かさも安心感も変わらないのに、直人の心は少しだけ変わってしまった。
直人の手に引かれながら、本当はあの日、目を覚ましてはいけなかったのではないかと、智は目を伏せる。
退院して直人の家に久しぶりに入った日の温かい夢だった。
あれから二年経ったが、ずっと穏やかな日々が続いているように智は感じていた。
まどろむ意識が一番最初に捉えたのは、直人の部屋の天井だった。
いつも智が使っている布団の上にいるのだと意識がはっきりしてくると、額がひんやりとしていることに気がつく。なんとなくプルプルした感触がして、きっと冷えピタだろうと触らなくても予測ができた。
どうして、寝てるんだっけ?と記憶を探り出す。
智の中では買い物に出かけたあとが少し曖昧になっていた。
「……智」
小さな声で自分を呼ぶ声がしてそちらを見ると、直人が苦しそうな顔で智を見ていた。
あまり広くはない部屋に智の布団を敷くものだから、ほとんどスペースがないところで直人は胡座をかいて座っていた。
あの日、目覚めて一番最初に見た、明人ももうしないような不安に揺れる子どものような表情だ。
「直人……?」
「良かった。……道端で座り込んでて、母ちゃんが熱中症だって言ってた」
道端……その単語からもう一度記憶を探ると、ピントがズレていたところが少しずつ鮮明になってきて、智はゆっくりとそれを手繰っていく。
「……買い物……ポン酢、どうしたっけ?」
「母ちゃんに渡した」
確か直人の母に頼まれたものはきちんと買って帰路についていた。
だが、どうやら家には帰れなかったようだ。
「そうだ……。道、人が歩いてて……」
夕方なのに厳しい日差しの中を女性が歩いてきて、そうだ。その人は……。と点と点が線で繋がった途端、横になっているのに目眩がした。
再び意識を手放しかけた智に、必死な声で直人が呼びかけ、優しく肩を叩いてくれた。
おかげで気絶することはなかったが、気を抜くと再び目を閉じてしまいそうな中で、智はいま一度記憶の映像を繋げていく。
「……お母さん」
「は?」
うっかりと二年前から顔を合わせることさえしなかった人を口にしてしまった。
掠れた声で紡がれたその単語を直人は聞き逃すことはなく、短く低い声をあげて驚きを示す。
「……あの人に何かされたのか?」
会わなくなっても直人はいまだ智の母と兄を嫌っている。
言葉には出さないが、いや、単語も出てこないからこそ、嫌悪感を抱いていることは明白だった。
直人の瞳の温度がぐっと下がってしまったので、智も言うべきかどうか悩んで少しの間口を閉ざす。
ちらりと見上げた直人は智の言葉をじっと待っていて、ごまかされてはくれない気がした。
少しだるさも残っていたが、ゆっくりと身体を起こすと、直人は自然と智の背中を支えてくれた。
智が体調を崩す度に直人はいつも看病をしてくれる。こういう優しい姿を知っているからこそ、口が重くなるが、それでは余計に心配や誤解を生むだけだと微かに息をついた。
「何も……何もなかった。ただすれ違っただけ」
言葉も、視線さえも交わらなかった。それはある意味良かったが、同時にもうやり直すことはできないと確信するには十分な出来事でもあった。
さみしいと思ってしまう気持ちが智の中にないわけではないが、昔ほどの執着はなくなったように思う。
そんな智とは反対に昔と変わらない憎悪を直人は持っているようで、智をそのたくましい腕に閉じ込めて舌打ちをした。
「……くそ。あんま家から出ないって言ってたのに」
「え?」
今度は智が聞き返した。まさか直人が智の母の動向を知っているとは思っていなくて驚いてしまう。
そんなこと、智はこの二年一度も聞いたことがなかった。
「……おじさんに、おばさんのこと聞いてた。クソ兄貴……誠のことも。会うかもしれないのに、智を連れてこれないからな」
直人の過保護がそこまでとは思わず、智はどう返答していいか分からず瞳を揺らして黙り込んでしまう。
人を疑うことも知らなかった直人が、自分に隠し事ができるようになっていることにショックな気持ちが大きい。
智を守る気持ちもあったと理解できるので、責めるべきことでもないことは理解している。
ただ、直人からまぶしさを奪ったのは自分だろうか、と智は思い胸に焦りが忍び寄ってくる。
「…………戻るぞ」
「直人?」
「寮に帰る。……おばさんに会うって分かったら、もうここにいさせらんねえ」
混乱をする智をよそに、直人は今すぐにでも出ていきそうな勢いで立ち上がろうとする。
それだけはさせたくないと、智は必死になって直人の腕を引いて呼びかけた。
「ダメ……。直人、まだここにいないと」
「おばさんはまだしも、誠に会ったらどうすんだ?」
「大丈夫。ぼく、もう外出ないから」
直人の帰りを直人の両親も明人も待っていたに違いない。直人だって自分の家族を大事にしている。
それが想像できるからこそ、なるべく長く家にいさせてやりたかった。
直人は智のために遠方の高校を選んでしまった。その事実が智に罪悪感を抱かせる。
必死にすがりつく細い腕と、頼りなく懇願する智の表情を直人は目を見開いて数瞬見つめた後に、眉間に深いしわを刻んで唇を強く噛んだ。
「んなこと……させられるかよ!そんな、あいつらみたいなッ」
「直人、お願いだから落ち着いて」
叫びように吐き出す直人はいつもの冷静さを失っていて、乱暴に智の手を振りほどいた。
家を出ることを思いとどまってほしくて、智もまた細い声を必死に張り上げる。
言い合いになりかけたとき、突然、直人の後頭部からパシンっと小気味の良い音が響き渡った。
直人は両手で頭を押さえてその場に沈み込む。
音の正体は笹平家母の愛の一発だった。どこから聞いていたのか、呆れた顔で直人を見下ろす彼女の後ろには明人も控えている。
「アンタは本当に人の言うこと聞かないねえ。智ちゃん困ってるじゃない」
部活推薦組や数いるアルファ達をおさえて学年最強と言われる直人を一発で黙らせられるのは、世界広しと言えどもきっとこの母しかいないだろう。
続いてその怒りの目が智に注がれて、思わずビクッと肩を揺らす。
「智ちゃんも。……先にこの子に言うことがあるでしょ。直人も心配してたんだから」
そう言われて智も反省をした。まだ痛そうに頭を押さえる直人の顔を覗き込むようにして見つめる。
「ごめん。看病してくれてありがとう」
「…………悪かった。智を困らせたいわけじゃないんだ。」
ひとまず子どものように仲直りをすると、直人の母はしゃがみ込んで二人に目を合わせてくれた。
「智ちゃん下りて来れそうならご飯にしましょう。食べられそう?」
「うん。大丈夫」
智の答えを聞いて直人の母はゆっくり立ち上がると、結局野次馬のようになってしまった明人を連れて一階に下りていった。
直人が差し出してくれた手をしっかりと握って、智もゆっくりと立ち上がる。
出会った時よりも、病院で目が覚めたときよりも、しっかりとした硬い大きな手。
この手の温かさも安心感も変わらないのに、直人の心は少しだけ変わってしまった。
直人の手に引かれながら、本当はあの日、目を覚ましてはいけなかったのではないかと、智は目を伏せる。
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