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いつも賑やかな笹平家ではあるが、息子二人がいなくなると途端に静けさが訪れる。
長男の直人は中学時代のバスケ仲間と遊びに行き、次男の明人は友達の家で宿題とゲームをするのだと出かけていった。
二人の母親も叱る相手がいないため、時々鼻歌を聞かせてくれるくらいで、穏やかな時間に智ものんびりと課題を進めていた。
「あらやだ。ポン酢が切れそう。」
リビングで着々と課題を済ませていく智の耳に、キッチンから大きなつぶやきが聞こえてくる。
直人の母は裏表なく、正直で、ひとりごとの声が少し大きい。
もうすぐ夕食の支度を始める時間だ。食べ盛り二人を含めた五人分の食事の支度は大変だろう。
智はすっと立ち上がると、困った様子の直人の母に近づいた。
「おばさん、オレが買いに行ってくるよ」
「でも智ちゃん、外は……。直人もいないし」
「この前千彰と二人で駅前に遊びに行ったから大丈夫。それに今日も暑いから、おばさんは家にいて」
直人の母の心配も智にはよく分かったが、寮生活をしている中で身体も心も少しずつ強くなってきた。
ずっとこの街で育ってきた智はスーパーの場所も知っている。何の問題もないと微笑んでみせた。
「そうねえ……。智ちゃんも高校生だもの。お願いしようかしら」
智は一つ頷いてから広げていた課題を綺麗に片付けて二階に上がった。
財布とスマホを小さなボディバッグにいれると、静かに階段を降りていく。
「じゃあ智ちゃん、これでお願いね。お釣りで飲み物でも買っていいから」
「うん。行ってきます」
もうすぐ夕方といっていい時間帯なのに日差しはまだまだ厳しい。
玄関を出た瞬間、太陽の眩しさにくらっとしそうになったので、智は慎重に日陰を選んでスーパーへと向かう。
ここのスーパーは、地元では野菜を買うならここと言われている、ご近所さん御用達の店。
夕方のセールタイム中ということもあって少し混み合っていたが、人に揉まれることなく、すんなりとレジまでたどり着くことができて智もほっとした。
人混みのせいか、じんわりとまとわりつくような汗をかいてしまったが、それでも外に出ればその不快感を忘れるほどの気温が待っていた。
行きと同じように日陰を歩いていくが、気温のせいもあって体力がみるみる削られている気分になる。
幼い頃は暑くても毎日学校に通っていたのにな、と見慣れた道を全く違った気持ちで歩く不思議さを感じていた。
もう直人の家は目と鼻の先だ。早く帰って案外心配性な直人たちの母親を安心させたい。
逸る気持ちのまま歩調を早めようとする智の目が、反対方向から人が歩いてくる様子を捉えた。
遠くにいるその人のシルエットを見た瞬間、智の足が止まる。
――こんな偶然、あるわけがない。これまで一度もなかった。
だから大丈夫だと、智の理性が必死になってそう言うが、その女性が近づいてくるほどに心が叫ぶ声が大きくなる。
呆然と目をそらすことも、逃げ出すこともできないまま、ただ日傘をさした女の人が近づいてくる様子を眺めることしか出来なかった。
その人の顔に影が落ちていて表情はよく見えない。こちらを見ているのか、智だと分かっているのか察することさえできない。
だが、智はもうその事実から目を逸らすことができず、身体が震えていることにも気がつけないまま立ちすくんでいる。
「お母さん……」
何も言わない母親とすれ違うと、智は思わずその人を呼んでしまった。
すると、視界がぐにゃりとと歪んでいよいよ膝の力が抜けてしまう。
自分が立っているのか座っているのか感覚が曖昧なのに、自分が今どこにいるかだけははっきりと分かった。
――ここは、ぼくの部屋だ。
実際にはそうではないが、智にはもうそこが自宅の自分の部屋だとしか認識できなくなっていた。
夕暮れの、カーテンが閉まった、暗くて、蒸し暑くて、時々鼻をつくような匂いがする、誰も来ない部屋。
――ぼくはここを出ちゃいけない。
目を開けたまま、智は白昼夢に囚われてしまった。
長男の直人は中学時代のバスケ仲間と遊びに行き、次男の明人は友達の家で宿題とゲームをするのだと出かけていった。
二人の母親も叱る相手がいないため、時々鼻歌を聞かせてくれるくらいで、穏やかな時間に智ものんびりと課題を進めていた。
「あらやだ。ポン酢が切れそう。」
リビングで着々と課題を済ませていく智の耳に、キッチンから大きなつぶやきが聞こえてくる。
直人の母は裏表なく、正直で、ひとりごとの声が少し大きい。
もうすぐ夕食の支度を始める時間だ。食べ盛り二人を含めた五人分の食事の支度は大変だろう。
智はすっと立ち上がると、困った様子の直人の母に近づいた。
「おばさん、オレが買いに行ってくるよ」
「でも智ちゃん、外は……。直人もいないし」
「この前千彰と二人で駅前に遊びに行ったから大丈夫。それに今日も暑いから、おばさんは家にいて」
直人の母の心配も智にはよく分かったが、寮生活をしている中で身体も心も少しずつ強くなってきた。
ずっとこの街で育ってきた智はスーパーの場所も知っている。何の問題もないと微笑んでみせた。
「そうねえ……。智ちゃんも高校生だもの。お願いしようかしら」
智は一つ頷いてから広げていた課題を綺麗に片付けて二階に上がった。
財布とスマホを小さなボディバッグにいれると、静かに階段を降りていく。
「じゃあ智ちゃん、これでお願いね。お釣りで飲み物でも買っていいから」
「うん。行ってきます」
もうすぐ夕方といっていい時間帯なのに日差しはまだまだ厳しい。
玄関を出た瞬間、太陽の眩しさにくらっとしそうになったので、智は慎重に日陰を選んでスーパーへと向かう。
ここのスーパーは、地元では野菜を買うならここと言われている、ご近所さん御用達の店。
夕方のセールタイム中ということもあって少し混み合っていたが、人に揉まれることなく、すんなりとレジまでたどり着くことができて智もほっとした。
人混みのせいか、じんわりとまとわりつくような汗をかいてしまったが、それでも外に出ればその不快感を忘れるほどの気温が待っていた。
行きと同じように日陰を歩いていくが、気温のせいもあって体力がみるみる削られている気分になる。
幼い頃は暑くても毎日学校に通っていたのにな、と見慣れた道を全く違った気持ちで歩く不思議さを感じていた。
もう直人の家は目と鼻の先だ。早く帰って案外心配性な直人たちの母親を安心させたい。
逸る気持ちのまま歩調を早めようとする智の目が、反対方向から人が歩いてくる様子を捉えた。
遠くにいるその人のシルエットを見た瞬間、智の足が止まる。
――こんな偶然、あるわけがない。これまで一度もなかった。
だから大丈夫だと、智の理性が必死になってそう言うが、その女性が近づいてくるほどに心が叫ぶ声が大きくなる。
呆然と目をそらすことも、逃げ出すこともできないまま、ただ日傘をさした女の人が近づいてくる様子を眺めることしか出来なかった。
その人の顔に影が落ちていて表情はよく見えない。こちらを見ているのか、智だと分かっているのか察することさえできない。
だが、智はもうその事実から目を逸らすことができず、身体が震えていることにも気がつけないまま立ちすくんでいる。
「お母さん……」
何も言わない母親とすれ違うと、智は思わずその人を呼んでしまった。
すると、視界がぐにゃりとと歪んでいよいよ膝の力が抜けてしまう。
自分が立っているのか座っているのか感覚が曖昧なのに、自分が今どこにいるかだけははっきりと分かった。
――ここは、ぼくの部屋だ。
実際にはそうではないが、智にはもうそこが自宅の自分の部屋だとしか認識できなくなっていた。
夕暮れの、カーテンが閉まった、暗くて、蒸し暑くて、時々鼻をつくような匂いがする、誰も来ない部屋。
――ぼくはここを出ちゃいけない。
目を開けたまま、智は白昼夢に囚われてしまった。
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