海鳴き様と暮らした郷

松山あき

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第四章 終戦

40 ※ややグロテスクな表現有り※

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――二十一歳 十一月

 日陰のおかげか幾分涼しい洞窟の中、死人のような生者が幾人も転がっていた。

 清一郎は洞窟の壁に寄りかかりながら呆然とその光景を眺めている。
 ぽたり。と清一郎の飯ごうに天井から水滴が落ちる音がした。少しは溜まっただろうかと確かめてみても当然のように底に少し水が張っている程度で何の足しにもならない。

 この洞窟には飢えと渇きと静かな恐怖が充満している。
 いつ死ねるのかと考えながら、昨日と同じ今日を繰り返し、時々命令が下れば攻撃に行く。
 そんな日々がどれくらい続いているのか、正確なことは誰にも分からなかった。

「…………み、ず……。」

 横たわるほとんど虫の息に近いような兵士がうめき声をあげる。
 
 確か満州からやってきたと話していた陸軍の兵士だ。
 彼らの長である中川大佐はどのような人物か、目を輝かせながら一緒にこの陣地を作ったのはもう半年ほど前になる。

 清一郎はのそっと立ち上がり飯ごうを手にすると、舐めるほどしか水がたまっていないそれを陸軍兵士の口にそっと近づけた。
 他人にやるほど余っているわけではないが、それでもこれが彼の最後の願いかもしれないと思うと、渇きに苦しむ姿を放ってはおけなかった。

 ほんの少しの水を飲み込む様子を見つめながら、清一郎はこの戦いが始まる前のことを思い出していた。

 偵察部隊から間もなくアメリカ海軍がペリリュー島と隣のアンガウル島にやってくると言われて、兵士の間に緊張が走る。
 毎日毎日掘り進めた洞窟陣地は巨大な迷路のようになっていて、ある程度準備はできていた。
 だがサイパンやガダルカナルの悲劇を思えばその準備で十分か不安にもになる。

 なにせサイパンはペリリュー島より大きな島なのにひと月もたず玉砕した。
 中川大佐はサイパンとは違い、なるべく長く敵を留めることが目的だと言い、食糧や武器弾薬も準備してはいる。
 これがなくなれば、ペリリューもまた餓島と化すことも兵士の不安を煽った。

 それでも満州からきた陸軍の士気が高かったのは、中川大佐という男への信頼があったからで、その様子がこれから過酷な戦いになるとわかっていても清一郎たち海軍も安心させた。

 当然それからすぐに民間人の避難が始まる。ギラケルを含めた幾人かは一緒に戦うと言ってくれたが、中川大佐は激怒した。

「貴様ら土民と帝国軍人が一緒に戦えるか!!」

 それを近くで見ていた清一郎にギラケルの悲しげな瞳が向けられる。
 取りなしてほしい、とでも言いたそうな視線だったが、清一郎はすっと顔を背けることしかできなかった。そうするよう厳命されていたのだ。
 その後ちらりと見えたギラケルの表情が悲しみとも怒りともとれるものだったのが清一郎の心にのしかかる。

 数日後、ギラケルたち民間人を乗せた船が出港した。
 その船が陸地から離れていくと「行くぞッ」と中川の大きな声が響いて皆一斉に砂浜に駆け出す。
 もちろん清一郎もその中に加わり、あらん限りの声で叫んだ。

「ギラケーーールッ!!」

「セーチローッ!セチロー!!」

「また会おうッ!元気でおるんじゃー、ええな!!」

 清一郎の言葉がどれくらいギラケルに届いたかはわからない。
 それくらい砂浜に出た者は多かったし、皆大きな声で「達者でな。」「ありがとう。」と叫んでいた。

 その後、船が見えなくなるまでパラオの民に教えてもらった歌を皆で歌った。
 明るく陽気な歌が途切れる頃には、海軍の部隊も中川大佐に対して信頼をよせるようになっていた。

 わざとギラケルたちパラオ人に冷たくして逃がすほどの情の持ち主に、清一郎もまたありったけの感謝を捧げていた。

 それがおおよそ二ヶ月前。
 食糧も水もそれなりにあった時期は皆、士気も高く、大砲が敵に損傷を与えるたびに大きな声は出せないが皆で喜びを共有することもあった。

 だが、敵が迫り、まず井戸が占拠されて渇きで仲間が死んだ。
 井戸に水を汲みに行こうとして何人も敵の銃弾に倒れた。実際清一郎もいくつか銃弾が掠め、頬の肉が焼けるように熱く抉れてしまい、数日間ウジを顔にぶら下げて過ごした。

 それから敵が洞窟の入り口から大きな炎を噴き出させ、人が焼けた。敵の動きを察知し、逃げようと洞窟の奥に逃げ込む清一郎の隣で仲間は真っ黒になった。最期は悲鳴さえないまま、鼻につく匂いだけを残して。

 手榴弾の爆発に巻き込まれ、洞窟を出たところで敵と遭遇し、熱病にかかって、還らぬ者が日増しに増えていく。

 そうして人がひしめき合っていた洞窟が広くなる頃には、飢えで最期を迎える者も出るようになった。

 仲間の死と、飢えと渇き。
 この戦いが始まる前に中川大佐はそういう戦いになると言っていたが、いざ経験をすると身体より先に心が悲鳴をあげるようになる。

 清一郎も人を殺した。その人から食糧や水を奪えれば喜びがこみ上げたし、それを皆で貪るように食う時間は至福と言えた。

 冷静になればそれがいかに恐ろしい行為か分かって夜も眠れなくなり、自分が異常だったのは海鳴き様の呪いのせいかと疑いもした。
 短い睡眠のあと、周りの様子を見渡して、この腹の痣はただ勝と故郷の咎を分け合ったもので、戦争と自分の心の弱さが人とも思えない感情を生み出したのだと理解する。

 水を飲んで少し安らかな顔になった仲間を見て、清一郎は今一度腹を擦った。
 真っ黒な痣は飢えとともに凹んでいき、それが勝との距離が遠くなったと言っているようで不安になる。

 再び飯ごうを水滴の落ちる場所に置いてから、清一郎はポケットから勝の手紙を取り出した。

 何度も広げてボロボロになったそれには『勇猛果敢ナル奮闘ヲ祈ル。』と書かれていたはずだ。
 生きろという二人だけの暗号を胸にここまでやってきた。
 だが度重なる戦闘に連れて行ったせいか、もう文字も霞んで読めなくなっている。

 それを見るたびに、清一郎は勝の顔がうまく思い出せない気がして涙が出てきた。

 ここで亡くなれば名誉になる。そうなれば港の町でも自分はただの厄介者ではなく英霊になれる。
 勝はきっと生きて帰った後に、徴兵逃れの郷の者ではなく英霊を連れてきたとして、これまでと同じように温かな場所で暮らせるはずだ。

 そういうものを残せたのだ、もう良いではないかと清一郎は心で呟いた。
 もうこの暗い穴ぐらで仲間と同じところに行くことに躊躇いはない。

 だが、清一郎たちには中川大佐から自害も玉砕も固く禁じられていた。最後の決戦まで絶対に、と。
 
 死んだ方がマシだという思いをしながらも、自分から一矢報いることは許されない。そういう世界は絶望をもたらして、ここに横たわる皆が一つの命令を待ち続けている。

 硬い靴音を響かせながら、清一郎達のもとに中川大佐の副官がやってきた。
 その人も痩せこけているが、なぜか目だけが爛々と輝いているように見える。

「お前たち、よく頑張った。」

 その言葉に横たわっていた者も何事かと力を振り絞って起き上がる。
 清一郎も虚ろな視線を副官に向けて次の言葉を待った。

「明日、玉砕攻撃を仕掛ける。各自武器を準備しておくように。」

 もう弾薬もつき、銃剣も折れてしまっていた。
 武器などないが、誰もが将校の言葉に希望を見いだしている。

 清一郎もその一人で、勝からの手紙を握りしめたまま微笑んでいた。
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