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河西の離宮
食事の行方①
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翌朝。明るい日差しの中でみる離宮は、今まで見たどんな高級旅館の内装よりも上等なしつらえの御殿であった。
白狼の胴回りの何倍もあるような朱塗りの柱が並び、瓦葺の屋根が二層、三層と重なっている建物がいくつもある。壁には繊細な彫刻が施された窓がはめ込まれていて、その向こうでは幾人もの役人らしき者たちが仕事をしているのが見えた。
「よそ見が多いわ」
ごつん、と白狼の頭が揺れる。隣にいる男――周といった帝姫の護衛宦官に拳骨を落とされたのだと気づいたのは脳天からじんわりと痛みが広がってきたからだ。
「それっぽいやつ探せっつったの、おっさんだろ?」
「もう少しさりげなく探さんか。お前、スリのカモを探すときもそんなにあからさまにきょろきょろせんだろ」
ただでさえ新参の小間使いとして物珍しがられるのだから、と周は続ける。確かにと納得しかけるが、それにしたっていきなり拳骨はない。一言あってからでも良いはずだ。
昨夜白狼の性別について知った周は、ひとしきり悩んだ後に「対応を変えない」という方針を採ったようだった。つまり白狼のことはただの小僧として扱うということなのだろう。白狼としてもそれについては異論はない。――さすがに寝床は別の部屋に与えられたが。
頭のてっぺんをさすりながら、白狼はだぶついた宦官服の裾をたくし上げるように持ちながら小走りで周の後について歩いた。
四方をぐるりと高い塀で囲われた離宮の内は、姫君がおわす長生殿を中心にいくつもの房とそれらをつなぐ廊によって構成されていた。房はそれぞれの仕事をこなす女官や宦官が忙しく歩き回っており、厨房近くを通れば朝餉の支度なのだろうかとても香ばしい匂いが漂ってくる。
「おっさん」
「おっさんではない、周様と呼べ」
「堅苦しいのは苦手なんだよ」
「お前に教養や礼儀など求めるのが間違っているのだろうが、とりあえず人前では気を付けろ。小間使いが横柄な口を利いているなど、処罰の対象にもなりうるぞ」
「……へーい」
気が乗らない返事をしつつ、白狼は厨房の方を指さした。
「なあ、ぎ……姫さんの飯もあそこで作ってんの?」
うっかり名前を口走りかけ周にじろりと睨まれる。肩を竦めてまた厨房を指さすと、大柄な護衛宦官は頷いた。しかしすぐさま小声で「実際は召し上がらないが」と付け加える。
「食わねえの?」
「毒の混入の恐れもあるからな。一応は膳を運ばせて毒見するが、何事もなくてもそれらにはめったに姫は手を付けぬ。翠明殿たちお抱えの女官が作ったもの以外もう何年も口にしておらん」
「もったいねぇ」
「お前も、命が惜しければつまみ食いなどせんようにな」
毒見のかわりになるつもりなどはない。白狼はぶんぶんと首を振ると、再び歩き出した周についていくため裾をたくし上げた。
その時だ。厨房の廊からやけに甲高い男の声が響いた。
キンキンと耳障りなその声に釣られてそちらを見れば、でっぷりとした腹の男がなにやら女官を叱りつけているではないか。着ている服には白狼のものとは異なる紋が入れられているが、色合いからして宦官服である。男のなりをしている割に甲高い声はそのせいか。
聞くともなしに聞こえるその𠮟責は、要するによそ見をしていてぶつかったという他愛のない行為に対してのものだった。
不愉快な音域のその声に白狼の意識はくぎ付けになってふと歩みを止めて見れば、かわいそうに女官は既にガタガタと震えている。男はそれに気づいているのかいないのか、怒鳴るのを辞めようとはしていなかった。
「ちっ……」
腹の底から不愉快な気分がこみ上げる。たかがちょっとぶつかったくらいで、女官の仕事の手を止めさせてまで延々と怒鳴りつける必要があるとは思えない。そもそも大の男が若い女を怒鳴りつけて怯えさせているのが気にくわなかった。
おい、と周が訝しげに声をかけるがそれを無視する形で白狼は二人に近づいた。
「っと失礼」
二人のわきを通り過ぎるふりをした白狼の肩が男の豊満すぎる腹に当たる。もちろんその隙に懐の中のものをさっと拝借するのは忘れない。さっと袖の中に隠すが、上等な織物の手触りがして白狼の頬が若干緩む。
それにしても太い。何が入ったらこんなにぶよぶよになるのだろう。わざとではあるがぶつかってやった相手の腹の弾力に、これじゃあ痛くもねえだろうよというのは口に出さず、白狼はすぐさま振り返って頭を下げた。
「大変失礼を。急いでおりましたので道が狭いのも気が付かず」
「な……無礼な……」
言外に「邪魔」をにおわせたのを気が付いたのだろう。男の顔が真っ赤に染まる。そんな男をちらと見上げて、白狼は息を飲んだ。
「こら白狼!」
ごつっと後頭部に衝撃が走る。また拳骨かよ、と白狼は口の中でつぶやいた。
「陳殿、失礼した。これは小間使いとして雇った新人の宦官でして、宮中での振る舞いも知らず申し訳ない」
慌てたような周に首根っこを捕らえられ、白狼はしょげたふりをしながら再度頭を下げた。しかしその頭の中ではここ数日分の記憶が目まぐるしく回転する。今見上げた男の顔は、確かに見覚えがあるものだったのだ。
「しゅ、周殿……いやこちらこそお騒がせを……」
いやいやどうも、などという中身のない挨拶を交わすと、男はばつが悪くなったのか立ちすくんでいた女官をしっしっと手で追い払う。そそくさと立ち去る男と申し訳なさそうな女官の後姿を見送り、白狼は周の袖を引っ張った。
「なあおっさん」
「だからおっさんと呼ぶな」
「そんなことよりさ。見つけたかもしれないぜ」
「なんだと?」
にやりと笑い、白狼は袖の中に隠し持った男の「財布」を周に見せた。
それはつい先日の朝市で白狼が「拝借」した財布と同じ生地のものだったのだ。
白狼の胴回りの何倍もあるような朱塗りの柱が並び、瓦葺の屋根が二層、三層と重なっている建物がいくつもある。壁には繊細な彫刻が施された窓がはめ込まれていて、その向こうでは幾人もの役人らしき者たちが仕事をしているのが見えた。
「よそ見が多いわ」
ごつん、と白狼の頭が揺れる。隣にいる男――周といった帝姫の護衛宦官に拳骨を落とされたのだと気づいたのは脳天からじんわりと痛みが広がってきたからだ。
「それっぽいやつ探せっつったの、おっさんだろ?」
「もう少しさりげなく探さんか。お前、スリのカモを探すときもそんなにあからさまにきょろきょろせんだろ」
ただでさえ新参の小間使いとして物珍しがられるのだから、と周は続ける。確かにと納得しかけるが、それにしたっていきなり拳骨はない。一言あってからでも良いはずだ。
昨夜白狼の性別について知った周は、ひとしきり悩んだ後に「対応を変えない」という方針を採ったようだった。つまり白狼のことはただの小僧として扱うということなのだろう。白狼としてもそれについては異論はない。――さすがに寝床は別の部屋に与えられたが。
頭のてっぺんをさすりながら、白狼はだぶついた宦官服の裾をたくし上げるように持ちながら小走りで周の後について歩いた。
四方をぐるりと高い塀で囲われた離宮の内は、姫君がおわす長生殿を中心にいくつもの房とそれらをつなぐ廊によって構成されていた。房はそれぞれの仕事をこなす女官や宦官が忙しく歩き回っており、厨房近くを通れば朝餉の支度なのだろうかとても香ばしい匂いが漂ってくる。
「おっさん」
「おっさんではない、周様と呼べ」
「堅苦しいのは苦手なんだよ」
「お前に教養や礼儀など求めるのが間違っているのだろうが、とりあえず人前では気を付けろ。小間使いが横柄な口を利いているなど、処罰の対象にもなりうるぞ」
「……へーい」
気が乗らない返事をしつつ、白狼は厨房の方を指さした。
「なあ、ぎ……姫さんの飯もあそこで作ってんの?」
うっかり名前を口走りかけ周にじろりと睨まれる。肩を竦めてまた厨房を指さすと、大柄な護衛宦官は頷いた。しかしすぐさま小声で「実際は召し上がらないが」と付け加える。
「食わねえの?」
「毒の混入の恐れもあるからな。一応は膳を運ばせて毒見するが、何事もなくてもそれらにはめったに姫は手を付けぬ。翠明殿たちお抱えの女官が作ったもの以外もう何年も口にしておらん」
「もったいねぇ」
「お前も、命が惜しければつまみ食いなどせんようにな」
毒見のかわりになるつもりなどはない。白狼はぶんぶんと首を振ると、再び歩き出した周についていくため裾をたくし上げた。
その時だ。厨房の廊からやけに甲高い男の声が響いた。
キンキンと耳障りなその声に釣られてそちらを見れば、でっぷりとした腹の男がなにやら女官を叱りつけているではないか。着ている服には白狼のものとは異なる紋が入れられているが、色合いからして宦官服である。男のなりをしている割に甲高い声はそのせいか。
聞くともなしに聞こえるその𠮟責は、要するによそ見をしていてぶつかったという他愛のない行為に対してのものだった。
不愉快な音域のその声に白狼の意識はくぎ付けになってふと歩みを止めて見れば、かわいそうに女官は既にガタガタと震えている。男はそれに気づいているのかいないのか、怒鳴るのを辞めようとはしていなかった。
「ちっ……」
腹の底から不愉快な気分がこみ上げる。たかがちょっとぶつかったくらいで、女官の仕事の手を止めさせてまで延々と怒鳴りつける必要があるとは思えない。そもそも大の男が若い女を怒鳴りつけて怯えさせているのが気にくわなかった。
おい、と周が訝しげに声をかけるがそれを無視する形で白狼は二人に近づいた。
「っと失礼」
二人のわきを通り過ぎるふりをした白狼の肩が男の豊満すぎる腹に当たる。もちろんその隙に懐の中のものをさっと拝借するのは忘れない。さっと袖の中に隠すが、上等な織物の手触りがして白狼の頬が若干緩む。
それにしても太い。何が入ったらこんなにぶよぶよになるのだろう。わざとではあるがぶつかってやった相手の腹の弾力に、これじゃあ痛くもねえだろうよというのは口に出さず、白狼はすぐさま振り返って頭を下げた。
「大変失礼を。急いでおりましたので道が狭いのも気が付かず」
「な……無礼な……」
言外に「邪魔」をにおわせたのを気が付いたのだろう。男の顔が真っ赤に染まる。そんな男をちらと見上げて、白狼は息を飲んだ。
「こら白狼!」
ごつっと後頭部に衝撃が走る。また拳骨かよ、と白狼は口の中でつぶやいた。
「陳殿、失礼した。これは小間使いとして雇った新人の宦官でして、宮中での振る舞いも知らず申し訳ない」
慌てたような周に首根っこを捕らえられ、白狼はしょげたふりをしながら再度頭を下げた。しかしその頭の中ではここ数日分の記憶が目まぐるしく回転する。今見上げた男の顔は、確かに見覚えがあるものだったのだ。
「しゅ、周殿……いやこちらこそお騒がせを……」
いやいやどうも、などという中身のない挨拶を交わすと、男はばつが悪くなったのか立ちすくんでいた女官をしっしっと手で追い払う。そそくさと立ち去る男と申し訳なさそうな女官の後姿を見送り、白狼は周の袖を引っ張った。
「なあおっさん」
「だからおっさんと呼ぶな」
「そんなことよりさ。見つけたかもしれないぜ」
「なんだと?」
にやりと笑い、白狼は袖の中に隠し持った男の「財布」を周に見せた。
それはつい先日の朝市で白狼が「拝借」した財布と同じ生地のものだったのだ。
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