夏霜の秘め事

山の端さっど

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零弐 狂わしい金ね板の楽譜

四音

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 とりおわり(十九時)、枯洲からす川の下流にある小さな古小屋。

「……こんにちは」

 護衛を倒したとは信じられぬほどの頼りなさげな体で、老いた角人つのびとはたった一人、靴のまま草を編んだ床に腰を下ろしていた。

「前カら思っていたノだガ、環樹たまキでは、夕方でも昼ノ挨拶をするノカ?」
「……少なくとも都ではそうですね。こちらでは、る内は昼、ですから」

 まるで世間話でもするかのような……実際そうなのだろうが、穏やかな口調に、僕も出来るだけ穏やかな声色を選んで答える。答えながら土足のまま中に踏み込む。

「……竜背りょぜでは竜ノ言い伝えニ倣い、夕陽を夜ノ先触れ、代わりニ朝陽を昼ノ先触れと扱う。面白いもノだナ」

 壁に空いた穴にしか見えない窓から差す夕陽に照らされて、雷継らいづきの角は鈍く光る。竜背の国では角を光るほど磨くのが流行りだと聞いていたが、彼は角も手入れしない主義のようだ。もっとも、ひと昔前は角に手を加えるのを良しとしない者が多かったはず。どれだけ詳しく書かれた帳面を学んでも、朝夕の挨拶の違いのように、異国の生きた機微というものはなかなか気づけないものだ。

「……お聞きしたい事があります」
「……」

 僕は帳面から一枚の紙を破り取り、雷継に向けて差し出した。
 そこに描かれていたのは、ばらばらと散らばる細かい点。消え人の男児の部屋で、床板にできていた奇妙な穴を写し取ったそのままのものだった。
 ただ乱雑に穴を穿っただけに見えるーーしかしこれを、僕は意味のあるものだと考えていた。

「このを、ご存知ですね?」
「何処でっ……いや、何故、コれを楽譜だと?」

 雷継は、かすかに震える手で紙を指差した。僕は一歩歩み寄ると、ほんの少しだけ唇を湿らす。

「穴の並びを見て、楽譜の音の並びに似ていると気づいた……なんて格好良い事を言えれば良かったのですが、残念ながらこれを見た時に気づいた訳ではありません。閃けたのはただの幸運でした。例えば、消え人に音楽に関わる者が多い事や……打楽器の太鼓の革が、環樹に来てから張り直されていた事」
「!」
幽理ゆうりの海を渡るとはいえ、太鼓の革を破るなどという事故は、今までに例がありません。太鼓はかなり丈夫な楽器、まして楽器を大切にする貴方の率いる楽団です。……彼らは、何があって太鼓を壊したのでしょうね」

 消え人の一人は打楽器の担当。これを偶然だとは思わない。

「……」
「それに、革を張り直すだけで何度も出掛ける必要があるのか、それも気になっていました。張るだけなら音を整える程度で良いはず。他にも太鼓には問題があったようですね。例えば、内側に傷がつき、音が変わってしまった事を恐れたとか」
「内側……」

 雷継は諦めたような声で言う。

「はい、内側です。舞踏会の荷物の事を考えていて思いついたのですが、太鼓は革で蓋をした大きなれ物として扱うこともできるのではないでしょうか。少なくとも、我が国で荷物を調べる時に太鼓の中を確かめようという者は居ないはずです。出し入れする時には皮を破かなければならないのは手間ですが」
「何故、太鼓を壊してまで容れ物扱いしたと考える? 楽団ノ荷物ナら他ニもあるだろう?」
「その理由はおそらく二つ。太鼓に入れなければ隠せないほどの大きさだったから。そして、楽団員……貴方にも気づかれないよう、隠して持ち込んだからです」

 そもそも、太鼓の革を剥がして物を入れ封じ、また破って取り出すなどという手を、音楽や「楽器」を何よりも大切にするこの男が知っていて許すはずがない。

「死んだ可能性の高い他の消え人の事もそう。音楽に明るい者たちばかりを、傷をつけたり連れ去ったり手首を落とす必要が貴方にはありません。大切ななのですから。まして壊すころすなど」

 雷継は人消しには関わっていない。これが僕の結論だった。紫煙あいつに雷継の事は問題ないと譲らなかったのも、彼自身に危険は少ないと考えたからだった。しかし……。

「……つまり、私は無関係だと」
「いいえ、貴方はこの事件に関わっています」

 無関係ならば、護衛を振り切ってまでこのあばら屋に来る理由がない。そして、あの護衛の妙な様子から察するに、嫌な予感がする。僕は内心だけで、警戒を深める。
 雷継は、小さく息を吐いた。

「……覚えておクと良い。太鼓ニ使う牛皮は背骨ノ部分ガやわい。しカし、背ノ半分程ノ大キい太鼓ニナると皮も背骨近クを使わナケればナらナい。片面ずつ違う牛ノ皮を使う訳ニはいカナいカらナ。大太鼓は、背筋を外して打たナケればすグニ傷む。決して頑丈ナばカりでは無い、とナ」
「……心得ました」
「では、続ケたまえ。彼らノ密輸ガ、どう、コノ『楽譜』ニ繋ガる」
「この印は、消え人の家の床にあった小さなへこみをそのまま写し取ったものです。これと、太鼓で大きな何かを運んだかもしれない事に気づいた時、思い出したのです。ごく最近、竜背で作られたという、の事を」
「流石は環樹ノ忍び、といったとコろカ。もう広まっているとはナ……」

 本当はまだ広まってはいないのだが、わざわざ言うこともない。

ね板の大きな楽譜を使うそうですね。この痕を考えれば、太鼓の中には一応入りそうです」

 楽譜といえば、環樹では記さずに口伝えか、簡単な印で表すのが普通だ。描くにしても紙か板。楽譜をしっかりと記す竜背にしたって、金ね板(金属の板)にわざわざ描く必要がない。……ただしそれは、この楽器には当てはまらない話だ。

「ああ。彼らガするまで考えもしナカったガ、確カニ、太鼓ニ丁度収まる形と大キさだった」

 雷継はゆっくりと立ち上がると、奥の戸を開けようとした。歪んでいるのかがたがたと音を立てた引き戸は、開けると同時に手前に外れてしまう。その奥に、屈んだ大人ほどの大きさの何かが置かれ、風呂敷をすっぽりと掛けられている。雷継は、風呂敷を静かに取り払った。

 そこにあったのは、歯車や棒が突き出した不恰好な機械仕掛けの「楽器」だった。所々に金ねの部品が使われているが、ほとんどは木と竹だ。
 最も目を引くのは、中央に置かれた円柱形の大きな金ね板だった。円の中心に軸を通して、回る仕組みになった、「楽譜」。その曲面には、「音符」……小さな突起が、数多く付いていた。そして、その突起に少し引っかかるように、櫛の歯のような細い金ね板や竹板がずらりと並べられている。

自鳴琴おるごおる……」

 糸を指で弾く琴の代わりに、「楽譜」の突起で櫛の歯を弾いて音を出す。楽譜そのものが曲を奏でる為に働く楽器。回すからくりさえ動かせば、後は楽器を弾かずとも勝手に奏でてくれるが、ただ楽をするばかりのものではなく、その音は特徴的で風情がある、らしい。
 雷継は鼻を鳴らして、機械に手を掛けた。

「ふン。まだまだコれは、おるゴーると呼べるようナもノではナい。コレは、楽器としてはあまりニも不完全だ」

 口ではそう言いながらも、楽器に触れる手は優しい。

「無駄ノ多い素人細工、見目ガ悪い、ナどという話ではナい。音ノ要はコノ櫛歯。コノようナ甘い細工では、正しい音を出せナい。まだ音量も小さい。だガ……今、最も相応しい楽器ナノだ」
「相応しい……?」
「先程、竜ノ言い伝えノ話をしたナ」

 急に話題を変えて、雷継はやけに明るい声を出す。

「夕陽が夜の先触れ、朝陽が昼の先触れ、という?」

 つい先ほどしたばかりの話だ。

「ああ……コノ曲を考えたノは、濁った夕方ノ事だった。昼を喰いナガら夜を強引ニ引キずり出す、醜い彩り。二度と無いようナ空だった」
「!」

 雷継が、この楽譜を作ったらしい。しかしそれが、どうこの事件に繋がるのか。

「……何故彼らが、此度ノ演奏で使う予定もナいおるゴーるを環樹国ニ持ち出したノカ、ずっと分カらナカった。それも、やっと手ニ入れた高価ナ機械をばらばらニして。腹立たしい話だったガ、気づいた時ニはもう、彼らは環樹ノ何処カニ楽譜を隠してしまい、極秘ノ品ゆえ私ガ大キク動いて探す訳ニもいカナカった。幸い、演奏会さえ終えれば時間はある。表だってノ被害は太鼓だケだ」

 その太鼓を足がかりに疑われるとは思ってもいなかったのだろう。

「なぜ、彼らはそのような事を?」
「聞キ出す事は出来なカったガ、つい先日、彼らが隠していたコレを見つケて、全てガ分カった。……コノ曲を奏でるニは、環樹ノ竹と環樹ノ木を使った櫛歯を一部ニ使うノガ最も相応しいノダ。あノ夕方ガ、夜を告ゲる時ガ、私ニ、私自身も気づカヌ天啓を与えていたノだろう」
「どういう……」
「コノ曲ニはちからガある。消えた彼らガ何処へ行ったカは知らナいガ……コノ曲を完成させる為ニ彼らは犠牲とナった。
「そんな……」

 僕は思わず、素で呟いていた。

「何よりも『楽器』を大切にしていた貴方が、この犠牲を、それだけの事、と言うのですか」
「ふン」

 雷継は、鼻で笑った。

「コノ曲を聴いていナいカら……コノ魔力を知らヌカら、そう思うノだ。知れば、多クノ事はどうでも良クナる」
「魔力……?」
さばきノ国ノ者は異能を持つというガ……コれは、ただノ人を越した力や神力とは違う……魔ノ力だ。新しい、そして究極ノ音楽ノ境地だ……」

 雷継の口調は次第に、落ち着きを失い早口になっていく。どこか恍惚こうこつとした表情が、不気味ですらあった。

(この男は……もう、魅入られている)

 宗教に、熱情に、絶望に侵された者達と同じだ。僕はゆっくりと首を振った。



「……一度ひとたび聴ケば心を囚われ、二度聴ケば心を操られる。そノようナ旋律ニ、触れた事はあるカ?」

 雷継はおもむろに、楽器に手を掛けた。
 ゆっくりとした動作は、止めようと思えば止められたのだろう。自然な動きだった訳でもない。それなのに、止められなかった。止めようと踏み出したところで、足が止まり腕が下がった。

(不用意に近づけば大事な証拠を壊されてしまうかもしれない)

 そんな事を考えた気はする。しかしその本心は、……僕がすでに、一度曲を聴いてしまったから。もう一度聴きたいと思ってしまったから、かもしれなかった。止めようとして、止められなかった。動けなかったのだ。



 そして、音楽が流れ始めた。

 楽譜が金ね板を、竹を、木の板を弾く。弾みのある音が次々と重なり合って流れていく。初めて聴くおるごおるの音色は、思ったよりも柔らかく、とても美しかった。
 しかし同時に、僕は襲い来る目眩に耐えきれず、肘と膝をついて、浅い呼吸を繰り返した。

 櫛歯が弾かれるたびに、音が一つ一つ跳ねるたびに、体内を泡が弾けるような感覚が体に響く。一つ一つの悪意の響だ。悪意と悪意が響き合って、僕の体内で「曲」という、大きな悪意に育とうとする。川下りの舟、えび橋の下で感じたものが、より鮮明に襲ってくる。気が狂うような音、というのは、まさにこの曲のことを言うのだろう。



「分カるだろう、コノ魔力ガ。二度も聴ケば、コノ曲を取り上ゲる気も失せるだろう」

 雷継は知らない、これが二度目だという事を。僕がすでに一度、この「曲」を「聴いて」いる事を。もちろん演奏を聴いた訳ではない、ただ、悪意の残り香が曲に聞こえただけだった。しかし、僕の体に響いてくるものは同じだ。

(……操られて、たまるか……)

 そう思うも、急激に頭が回らなくなってくる。頭痛と震えが止まらない。それは、感動した時の感覚を無理矢理大きくしたかのようで……雷継はこんな僕の様子を見て、「曲に心囚われている」だけの状態だと思っているのか。

(こんな……ところで、我を失うなんて……)

 僕はゆっくりと、目を閉じた……





 意識が本当に飛びかけた、その瞬間。
 ……急に漂ったが、僕を辛うじて正気に引き戻した。



「ゔ……」

 雑な素人造りの楽器は、あまり強度が無いのか、取っ手を回すうちに少しずつ全体が歪んでいくらしい。そして、最も歪んだその時、回る歯車が取っ手を持つ手をかすめていた。
 かすり傷も溜まれば皮膚を裂き、の傷が、赤く甲に刻まれる。回すごとに軋み、歪み、食い込み、傷は深くなっていく。赤い色が歯車の歯を濡らし、噛み合う歯車へと移っていく。……それでも、彼は演奏を止めなかった。

(……狂っている)

 その姿は確かに、心を操られているとしか思えなかった。稲妻の傷を負った者は皆、こうして、この演奏に溺れていったのか。
 もはや、誰が彼らをのか、その生死の追求すらも僕の頭からは消え失せていた。ほとんど動けないまま、気が狂うや否やの淵で、僕はただ、一つの考えだけを絞り出していた。



(この楽器を、この曲を、これ以上存在させてはいけない)



 僕はなんとか、握りしめていた拳を開き、親指と薬指の爪の腹を打ち合わせた。

 僕の爪には薄く、石や金の粉を伸ばしたものが貼り付けてある。親指の爪には火打ち金。薬指には火打ち石。打ち合わせれば、ぱっと一瞬光が飛んでーー火花が、乾いた草の床に火をつけた。

「ナニっ?」

 狂わしい演奏が、止まった。僕は冷や汗を軽く拭って立ち上がる。炎が広がり始めたのを確認して、踏み込む。

「燃え、ますよ……この家は」

 湿り気の篭りようがない穴だらけの古い木小屋、昨日今日と雨もなく、座っていられるのだから十分乾いているだろう。見た限りではかびも無さそうだ。古びてぼろぼろに繊維のほつれた草の床は、綺麗に火を吸い取った。

「金ね板は燃えにくいかもしれないが、竹はどうでしょうね。爆竹というものがあります。よく乾いた竹は熱で弾け……楽器を、壊す」

 狼狽した様子の雷継の手を取っ手から叩き落とす。軽く蹴りつければ、「楽器」は大きく歪む。火が梁に燃え移る音に混じって、確かに壊れた、音がした。

「はぁ……」

 僕は一つ息をついて、茫然として座り込んでいた雷継の腕を取り、背負った。
 火は思った以上に早く広がり、あばら屋を壊していく。屋根が落ちるのも時間の問題だろう。一番優先するべきは、賓客を傷一つなく確保することだ。僕は全体を見回し、裏手の窓、もとい壁に空いた穴から飛び出した。当然、火に包まれて退路を失うようなはしていない。
 背後から、バチッ、と竹の爆ぜる音がした。

 外に出ると、火消隊はまだだったが、すでにぼろ小屋の表の方には野次馬が一人二人寄ってきていた。僕はそっと裏手から離れ、気を失ったらしい雷継を近くに降ろす。

(目立つ火を放つ事になるなど、大の失態だった)

 今すぐにでもあの「楽譜」を確認しに行きたかったが、流石に彼を独りでここに置いてゆく訳にはいかない。連絡は飛ばしたので、墨染すみぞめから誰か忍びが派遣されるのを待つしかない……。



 その時ーー檸檬れもんの香が、ふわりとくゆる。

「おいおい、過ぎじゃあないか。どうして『お話』しに行った帰りにこんな事になっちまったんだ?」

 紫煙しえんが、ふらりと現れた。手には細い煙管、着流し姿は嫌味なほどに様になっている。

「何故」

 こいつにはこいつの任務があるはず。少なくとも僕のところに回される訳がない。つまり勝手に来たのだろう……連絡を受けた忍びよりも早くに。

「外れとはいえ、ここは天下の都だぞ。道が繋がっているなら誰がどこに居たって不思議じゃあないだろう?」

 食えない笑みを浮かべてこいつは僕を見るのだ。

「ならば、話のついでに小火が起きる事もあり得るだろう」
「ははははっ!」

 皮肉ってやれば、体を折り曲げて笑われる。面白くもないだろうに、嫌味な笑いではないのが、逆に気に食わない。本当に食えない奴なのだ。

「……僕にも分からない」
「ふうん? お前が『分からない』と言い切るのも珍しいな」
「……分からない。人を獣か何かのように駆り立てる悪意が、何によるものなのか。僕には、『魔が差した』などという言葉一つで片付ける事は出来ないよ」

 説明する気にもなれず、僕はただ胸の内を吐く。
 魔、とやらはさぞや都合の良い悪の権化なのだろう。全ての悪が魔から生み出されるのならば、おとぎ話のように全てが幸せになる結末などが待ち受けていたかもしれなかった。

(魔の力。魔力、か……)

 はっきりしない事が多すぎる。報告には何を記すかさえ、簡単には決められなさそうだった。

「ふうん……ま、行ってこいよ」

 紫煙はくるりと煙管を回した。

「だが」
「雷継なら俺が見ててやるから。急いだ方が良いぜ」

 あばら屋は早くも屋根を揺らし始めている。流石に屋根が落ちては僕も簡単には見に行けないだろう。

「……頼む」

 僕は水筒の水を頭と服に掛けて、先ほどの窓から中に飛び込んだ。まだ、まだ、かろうじて中に入れる。まだ確認できる。まだ、あの楽譜が人の目に入る前に壊す事ができる。僕は一文字いちもんじに楽器だったものへと駆け寄った。駆け寄って……足を、止める事になる。


 楽器の残骸からは、金ね板の楽譜だけが
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