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零参 欄干擬宝珠に駆引きの舞
五刀
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その夜は、先に言ってしまえば何も収穫がなかった。隣の紫煙がうるさくて何かを聞き落としたか、見落としたのではないかと、不安になるくらいに。
「何かあったのか、霜月」
「何もない」
「何もない、ねえ。お前さん、いつもそんなにぴりりとしてたか?」
「仔細変わりなくいつもの通りだ」
「そりゃ無理だ」
「……」
僕はむぐと口を閉じる。
「その顔で膨れっ面はあざといぜ」
紫煙は苦笑しながら、なんと頬を突いてきた! 僕は口内の息を吐いて、仕返しに脇腹に肘を打ち込む。
「痛っ。お前さん、力入りすぎだろ」
「やめろ」
「はいはい、分かったよ。ここらへんでやめとかないと今度は暗器が出てきそうだ」
……夜風を浴びたからか、少し、頭の中は落ち着いた。
紫煙が刀士の名を綴った帳面を持ってきたのは、次の昼のことだった。
「貰ってきた」
「……さすがに早いと思うが」
「ま、念のため前から話はかけてたのさ。そのうち力を借りるって」
「よく相手にしてもらえたな」
「女にうつつを抜かす奴らを赦せない御仁様が居るんだよ」
そういう刀士とも関わりがあるのか。くノ一衆「木蘭」や女刀士衆「灰桜」――男忍び衆「墨染」と刀士衆「礪茶」に相当する組織だ――とも仲の良い紫煙だが、女っ気のない御仁様とやらと関わる時には雰囲気を変えて行くのだろう。器用なものだ。
「だが結果は芳しくないぜ」
「どうした?」
「背の小さい奴がいない」
単純な答えだった。
「もちろん、あの夜の席には小さい奴も居たぜ。ただ、体格の合う奴は全員、他所に居たって裏が取れちまった。確かな裏だ。残ってるのはでかい奴ばっかり。流石にあいつらの図体を小さくするのは無理だ」
「それは……刀士ではない小柄な客が下手人という事か?」
「いや、ここの刀士以外には話しかけてないぞ? 顔を覚えているから間違いない」
なるほど。僕はぽんと無造作に放り出された帳面を手に取って、軽く眺めてみる。覚えのない名も多い。
「……霜月? そんな熱心に読んでも変わらないぞ」
「いや、後学になる」
「あのな」
「それにやはり、この帳面は必要になるだろう。これからの調べには」
「ん? どういうことだ」
「お前にしては頭が回らないな」
僕はわざと、空の手で煙管を回す仕草をした。
「小さい男が酒場に居なかったのなら、酒場に居た男から小男に香りが移ったと考えるのが自然だ」
「あの香はそう簡単に移りゃしないぞ? 洗えば落ちるし、酔っ払ったのを多少の間支えて帰ったくらいじゃ……」
「『女のような高い声なのを良い事に、よくもそんな嘘を吐く』」
「……ああ!」
煙管を突きつけるかに指を伸ばして、昨日聞いた「女子斬り」の台詞を唱えてやれば、ようやく紫煙は顔色を変えた。
「おそらくは服を替えたか、抱き」
「待て、分かったから」
「残り香は色濃かった。たまたまついたものではないだろう。お前の見立てでは男だというのだから、やはり、だん」
「分かった、分かったもう言わなくて良い」
紫煙は慌てた様子で僕の言葉を遮った。……別に男色、男同士の睦み事などそこまで珍しい話でも無いだろうに。
墨染衆では聞かないが、その傘下の技術屋衆椋実にさえ、召鼠のような男泣かせの男がいる。あれほど大っぴらにしている者も少ないだろうが、居るものは居るのだ。僕が知らないだけで何処かには女同士も居るだろう。
そうそう、互いの服を替えるというのも、色事によくみられる風習だ。男同士だと相手の服を着て平気で外に出る輩もいると聞くが、この場合あるいは……考えないことにしよう。今は、新しい可能性を追うだけだ。
「当てはまる者を洗い出せるか?」
「ううん、これは……別の奴に頼んでみるかな」
紫煙はほんの少し、眉を歪めた。
「御仁様はそちらには詳しくないのか?」
「いや、詳しく……はあるんだが、敵の話は売ってもお仲間を売りはしないだろうしな……」
「何と?」
「いや、何でもない。とにかく任せろ、お前さんは動かないでくれ。絶対だぞ?」
しつこく念を押されるので僕は首をすくめた。僕には伝手など無いのだから、動けないことも忘れているらしい。
「ならば大人しく、今夜の見回りに備えて寝るとしよう」
僕は軽く手を挙げて、その場を去った。僕には僕で、やることがあるのだ。やること、というよりも、検めることが。
僕は自室に戻って、部屋を二つに分けるつい立ての右側に行く。まだ寝はしない。手を伸ばし、近くにあった糸を音もなく手繰り寄せる。
(――目利きの確かさ、か)
さて、紫煙はどうやって、人を男か女か見極めている?
すぐに思いつくのは、体の特徴だ。
男と女の体つきを大きく変えるのは乳房や男根だけではなく腰の骨、骨盤だ。女は骨盤が広がっており、それを支えるように体の骨や筋肉が男と異なる。背筋の盛り上がり方、腰の反り、太ももの角度など枚挙にいとまがない。それらを僕は、さらしや詰め物で外見だけは女らしくないように繕っている。胴を締める帯も、男には腹のくびれが無いのでほとんど尻の場所で締めている。幸い体が小さいから、よく見られても幼げな男として誤魔化せる程度には仕上がっているはずだ。
男と女の身体の違いは、脚の動きや力のかけ方にも現れる。それだけではない。男は太ももの裏に力がかかるように動くが女はふくらはぎに負荷がくる。もし女のような脚の痛め方をすればそれだけで感づかれるかもしれない。そういった細かな所も含め、外見では悟られないよう、慎重に気を遣ってきた。その、はずだった。
(でも紫煙には見抜かれた)
なぜ気づかれたのか。僕はそれを、ぼろを出したところを見られたのだと思っていた。女らしい動作、仕草、生理現象、何かをどこかで見られてしまったのだろうと。
(でもあいつは、遠目から見ただけの人物を、男だと言い切った)
あの落ち武者だ。
剣技さえ磨けば、女だってあの動きはできるだろう。邪魔な装飾の少ない男装をしているならなおさらだ。紫煙は、そのことを当然知っている。知っていて、男だと言い切った。「目利きの確かさ」とまで自信をつけて。
あいつは、遠目から見ただけで男女を見抜けるのか?
(もし、そうだったと、したら。あいつはどうして、僕を何年も泳がしていた……?)
僕が墨染に潜り込んでから五年。その間、僕と紫煙はずっと同じ部屋を仕切って使ってきた。それだけの目を持っているなら、近くで見続けてきた僕が女だと気づかないわけがない。気付けばすぐ陽炎さんに言うのが当たり前だろうに、どうして僕にも言わなかった。なぜ、今になって言った?
(今、僕を突いた理由は何だ……?)
――だらだらと動かしていた手が、止まった。手繰っていた糸が張りつめたのだ。
僕はゆっくりと糸の配置、感触を確かめた。高価だがよく透けて光を跳ね返さず、触れても気づかないほど細く、滑らかに滑って切れにくい、と仕掛けるには得ばかりの糸だ。あちらこちらの梁や隠された滑車、あるいは適当に置かれたように見える道具の鉄のかぎ爪の先までを通り、部屋中を張り巡って布団を包み込む、見えない糸の繭。僕の近くへ密かに寄ってくる者がいたとき、糸の動きはすぐに部屋を巡って僕の腕を引き、目覚めさせる。服の下には隠せない女がある以上、寝込みを調べられないための注意は欠かせない。
(……より細かに捉えられるよう、配置を変えるべきか?)
滑車をずらし、梁に新しく溝を刻みながら、ゆっくりと瞬きをする。この糸と違い、昨夜からずっと張りつめていた気は切れてしまいそうだ。
(少しだけ)
僕は適当なところで諦めると、繭の中に身をうずめた。横倒しになって足を縮め、少し背を丸めれば、ゆっくりと柔布が僕を包み込んでいく。
(もう少しだけ……このままで僕をここに居させてくれ、紫煙)
僕は女として環樹に居ることは、できないのだから。
ヰヰヰヰヰヰヰ
その夜、紫煙は浮かない顔で山吹橋に現れた。
「よっ」
「うまくいっていないのか」
「……分かるか?」
そんな焦ったような顔で、分かるか、も何もない。
「それとも、そういう演技か?」
「いや。素が出ちまったらしい」
そう言うと、紫煙はふらり、人気のない路地に踏み出した。
「今度はなかなか、すんなりとは話が集まらなくってな」
「半日もかけずにあの手の話が集まる方が異常だ。誰も責めはしないだろう」
「早く済ませたいんだよ」
「次の刃傷を出す前に早く終わらせたい気持ちは分かるが、急きすぎだ」
「……あ、ああ、そうだな」
なんだ、その顔は。調子が狂う。早くいつも通りの、感情の分からぬ余裕ぶった笑みでも浮かべてみせろ。
「今晩は?」
「ああ……少し、橋を離れて見回ろうかと思ってな。良いか?」
既に踏み出しているし、僕も後についている。無言で頷くと紫煙は、やっといつもの読めない表情で微笑んだ。
その顔だ。それなら、僕の心は乱れない。
「この通りの奥に、刀士の屋敷が並んでるのは知ってるよな?」
「ああ。城下には近いが町人街にもかなり近い、珍しい場所だ」
確か、屋敷が建った頃には城下の民を取り締まるお役目の刀士のものだったらしい。今は大分違うだろうが。
「うん。で、俺の知ってる男があそこに住んでいる」
「?」
「刀士じゃあなくて賄い方、まあ料理人だ。えらく作る飯が美味くてな。この近くの家で雇われてるんだが、よく他の屋敷にも行くらしい」
「料理人を貸し出す? 刀士もそんなことをするんだな」
「だーから、言ったろ。刀士様だって人だよ、人。食に一家言ある奴もいる。お前さんも、いつもいつも『忍び』って一括りにされちゃたまらないだろ?」
それはよく分からない。
「……それで?」
「その男がこの間、気になる話を聞いてきてな……お、ちょうど見えてきたな。あの大きな青瓦だ」
屋敷が山稜のように立ち並ぶ中に一つ、山のように青々とした屋根瓦の峰が見えた。雪の少ない環樹の天下街にあえて鋭い屋根を張るのは、力のある家だけに許されたものだ。
「眠瞳って刀士の家、聞いたことは?」
「今日の昼、名綴で見た。あの夜酒場に居たんだろう?」
「ああ、そうだったな」
「それに、昨年の冬によく聞いた。確か、凶作で流行った強盗騒ぎを中心になって鎮めたとか」
「そうそう! ちゃんと覚えてるな。平時にも刀を研ぎ、大きな荒事には必ず駆り出されるような家なんだよ」
「……気になっている、というのは?」
「下手人は刀狂いじゃあないかって言ってただろう、お前さん」
「ああ」
刀を持つ手に触れた悪意の響を思い返しながら、僕はうなずく。
「眠瞳には、いま二十歳の然牙って若坊がいてな。背は俺より少し下だががたいが良い。これがかなりの刀好きの暴れ者で、一年ほど前、金と家宝の刀を持ち出してどこぞへ出奔したのさ。見つかって家に連れ戻されたのが、ごく最近だ」
「最近、というのは」
「落ち武者の噂が始まる十日ほど前。それだけで疑いたくはないんだが」
その然牙といくらかしか年違わないだろうに、大人ぶった様子で紫煙は頭に手をやった。
「その刀士は、男好きなのか」
「分からない」
「失踪中の足取りは?」
「分からない」
それもそうか。……いや。
「……一年もの間、刀まで持ち出した家出からやっと連れ戻された息子殿が居て、使用人の噂話を聞けるだろう賄い方が何も聞き出せなかったのか? 主人らの話を盗み聞くこともできなかったと?」
「あー」
「おまけに、その放蕩息子殿がなぜ、あの日、町人酒場に来ていた? 連れ戻されて間もないのだから、まだ謹慎させられているはずだ。目付け役がついていてもおかしくないだろう」
「そうだよな、やはりそこらが気になるよなあ」
紫煙はふうと息を吐く。
「まず賄い方の方だが、不思議なことに屋敷じゃ誰も詳しい話を知らなかった。使用人の様子を聞くに、事情を知る少しの奴には固く口止めしてるな、あれは。そもそも何も話さないから盗み聞きの機会もない。そんで酒場の方だが、……俺も驚いたんだよ、然牙が居たのには。連れもいなかったし、連れ戻されたすぐ後とは思えない機嫌の良さだ」
やけに慣れた調子でかの方の名を呼ぶ。出奔する前にも関わりがあったのだろうか。
「酒場で話を聞いたのか?」
「軽くな。不思議なことにあいつ、こう言ったんだよ。『最近、いいものを見つけたんっすよ』ってな」
「いいもの……刀か?」
「さてな。あいつは体が大きいし」
「話を聞き出せそうか?」
「まあ、やるさ」
存外に迷いのない声だ。すっかり憔悴は消え失せている。分かりやすい。
「ふ」
「今笑ったな?」
「まさか。僕の役目を勘案していただけだ」
「いや、お前さんは別に……」
「お前が昼に夜に駆けずり回っているのを横目に、いつまでも昼寝などしていられるか」
「昼寝はしてくれよ」
そういう訳にいくものか。僕にできるものならば今ごろ、この格好付け男を今すぐ目隠しでもして寝室に蹴入れている。
何か、僕にも落ち武者に迫れる道は無いのか?
そう考え始めてから半日後の翌昼。
僕は椋実衆巴の大問題児、紛い屋召鼠と共に芸者小屋に居た。
「何かあったのか、霜月」
「何もない」
「何もない、ねえ。お前さん、いつもそんなにぴりりとしてたか?」
「仔細変わりなくいつもの通りだ」
「そりゃ無理だ」
「……」
僕はむぐと口を閉じる。
「その顔で膨れっ面はあざといぜ」
紫煙は苦笑しながら、なんと頬を突いてきた! 僕は口内の息を吐いて、仕返しに脇腹に肘を打ち込む。
「痛っ。お前さん、力入りすぎだろ」
「やめろ」
「はいはい、分かったよ。ここらへんでやめとかないと今度は暗器が出てきそうだ」
……夜風を浴びたからか、少し、頭の中は落ち着いた。
紫煙が刀士の名を綴った帳面を持ってきたのは、次の昼のことだった。
「貰ってきた」
「……さすがに早いと思うが」
「ま、念のため前から話はかけてたのさ。そのうち力を借りるって」
「よく相手にしてもらえたな」
「女にうつつを抜かす奴らを赦せない御仁様が居るんだよ」
そういう刀士とも関わりがあるのか。くノ一衆「木蘭」や女刀士衆「灰桜」――男忍び衆「墨染」と刀士衆「礪茶」に相当する組織だ――とも仲の良い紫煙だが、女っ気のない御仁様とやらと関わる時には雰囲気を変えて行くのだろう。器用なものだ。
「だが結果は芳しくないぜ」
「どうした?」
「背の小さい奴がいない」
単純な答えだった。
「もちろん、あの夜の席には小さい奴も居たぜ。ただ、体格の合う奴は全員、他所に居たって裏が取れちまった。確かな裏だ。残ってるのはでかい奴ばっかり。流石にあいつらの図体を小さくするのは無理だ」
「それは……刀士ではない小柄な客が下手人という事か?」
「いや、ここの刀士以外には話しかけてないぞ? 顔を覚えているから間違いない」
なるほど。僕はぽんと無造作に放り出された帳面を手に取って、軽く眺めてみる。覚えのない名も多い。
「……霜月? そんな熱心に読んでも変わらないぞ」
「いや、後学になる」
「あのな」
「それにやはり、この帳面は必要になるだろう。これからの調べには」
「ん? どういうことだ」
「お前にしては頭が回らないな」
僕はわざと、空の手で煙管を回す仕草をした。
「小さい男が酒場に居なかったのなら、酒場に居た男から小男に香りが移ったと考えるのが自然だ」
「あの香はそう簡単に移りゃしないぞ? 洗えば落ちるし、酔っ払ったのを多少の間支えて帰ったくらいじゃ……」
「『女のような高い声なのを良い事に、よくもそんな嘘を吐く』」
「……ああ!」
煙管を突きつけるかに指を伸ばして、昨日聞いた「女子斬り」の台詞を唱えてやれば、ようやく紫煙は顔色を変えた。
「おそらくは服を替えたか、抱き」
「待て、分かったから」
「残り香は色濃かった。たまたまついたものではないだろう。お前の見立てでは男だというのだから、やはり、だん」
「分かった、分かったもう言わなくて良い」
紫煙は慌てた様子で僕の言葉を遮った。……別に男色、男同士の睦み事などそこまで珍しい話でも無いだろうに。
墨染衆では聞かないが、その傘下の技術屋衆椋実にさえ、召鼠のような男泣かせの男がいる。あれほど大っぴらにしている者も少ないだろうが、居るものは居るのだ。僕が知らないだけで何処かには女同士も居るだろう。
そうそう、互いの服を替えるというのも、色事によくみられる風習だ。男同士だと相手の服を着て平気で外に出る輩もいると聞くが、この場合あるいは……考えないことにしよう。今は、新しい可能性を追うだけだ。
「当てはまる者を洗い出せるか?」
「ううん、これは……別の奴に頼んでみるかな」
紫煙はほんの少し、眉を歪めた。
「御仁様はそちらには詳しくないのか?」
「いや、詳しく……はあるんだが、敵の話は売ってもお仲間を売りはしないだろうしな……」
「何と?」
「いや、何でもない。とにかく任せろ、お前さんは動かないでくれ。絶対だぞ?」
しつこく念を押されるので僕は首をすくめた。僕には伝手など無いのだから、動けないことも忘れているらしい。
「ならば大人しく、今夜の見回りに備えて寝るとしよう」
僕は軽く手を挙げて、その場を去った。僕には僕で、やることがあるのだ。やること、というよりも、検めることが。
僕は自室に戻って、部屋を二つに分けるつい立ての右側に行く。まだ寝はしない。手を伸ばし、近くにあった糸を音もなく手繰り寄せる。
(――目利きの確かさ、か)
さて、紫煙はどうやって、人を男か女か見極めている?
すぐに思いつくのは、体の特徴だ。
男と女の体つきを大きく変えるのは乳房や男根だけではなく腰の骨、骨盤だ。女は骨盤が広がっており、それを支えるように体の骨や筋肉が男と異なる。背筋の盛り上がり方、腰の反り、太ももの角度など枚挙にいとまがない。それらを僕は、さらしや詰め物で外見だけは女らしくないように繕っている。胴を締める帯も、男には腹のくびれが無いのでほとんど尻の場所で締めている。幸い体が小さいから、よく見られても幼げな男として誤魔化せる程度には仕上がっているはずだ。
男と女の身体の違いは、脚の動きや力のかけ方にも現れる。それだけではない。男は太ももの裏に力がかかるように動くが女はふくらはぎに負荷がくる。もし女のような脚の痛め方をすればそれだけで感づかれるかもしれない。そういった細かな所も含め、外見では悟られないよう、慎重に気を遣ってきた。その、はずだった。
(でも紫煙には見抜かれた)
なぜ気づかれたのか。僕はそれを、ぼろを出したところを見られたのだと思っていた。女らしい動作、仕草、生理現象、何かをどこかで見られてしまったのだろうと。
(でもあいつは、遠目から見ただけの人物を、男だと言い切った)
あの落ち武者だ。
剣技さえ磨けば、女だってあの動きはできるだろう。邪魔な装飾の少ない男装をしているならなおさらだ。紫煙は、そのことを当然知っている。知っていて、男だと言い切った。「目利きの確かさ」とまで自信をつけて。
あいつは、遠目から見ただけで男女を見抜けるのか?
(もし、そうだったと、したら。あいつはどうして、僕を何年も泳がしていた……?)
僕が墨染に潜り込んでから五年。その間、僕と紫煙はずっと同じ部屋を仕切って使ってきた。それだけの目を持っているなら、近くで見続けてきた僕が女だと気づかないわけがない。気付けばすぐ陽炎さんに言うのが当たり前だろうに、どうして僕にも言わなかった。なぜ、今になって言った?
(今、僕を突いた理由は何だ……?)
――だらだらと動かしていた手が、止まった。手繰っていた糸が張りつめたのだ。
僕はゆっくりと糸の配置、感触を確かめた。高価だがよく透けて光を跳ね返さず、触れても気づかないほど細く、滑らかに滑って切れにくい、と仕掛けるには得ばかりの糸だ。あちらこちらの梁や隠された滑車、あるいは適当に置かれたように見える道具の鉄のかぎ爪の先までを通り、部屋中を張り巡って布団を包み込む、見えない糸の繭。僕の近くへ密かに寄ってくる者がいたとき、糸の動きはすぐに部屋を巡って僕の腕を引き、目覚めさせる。服の下には隠せない女がある以上、寝込みを調べられないための注意は欠かせない。
(……より細かに捉えられるよう、配置を変えるべきか?)
滑車をずらし、梁に新しく溝を刻みながら、ゆっくりと瞬きをする。この糸と違い、昨夜からずっと張りつめていた気は切れてしまいそうだ。
(少しだけ)
僕は適当なところで諦めると、繭の中に身をうずめた。横倒しになって足を縮め、少し背を丸めれば、ゆっくりと柔布が僕を包み込んでいく。
(もう少しだけ……このままで僕をここに居させてくれ、紫煙)
僕は女として環樹に居ることは、できないのだから。
ヰヰヰヰヰヰヰ
その夜、紫煙は浮かない顔で山吹橋に現れた。
「よっ」
「うまくいっていないのか」
「……分かるか?」
そんな焦ったような顔で、分かるか、も何もない。
「それとも、そういう演技か?」
「いや。素が出ちまったらしい」
そう言うと、紫煙はふらり、人気のない路地に踏み出した。
「今度はなかなか、すんなりとは話が集まらなくってな」
「半日もかけずにあの手の話が集まる方が異常だ。誰も責めはしないだろう」
「早く済ませたいんだよ」
「次の刃傷を出す前に早く終わらせたい気持ちは分かるが、急きすぎだ」
「……あ、ああ、そうだな」
なんだ、その顔は。調子が狂う。早くいつも通りの、感情の分からぬ余裕ぶった笑みでも浮かべてみせろ。
「今晩は?」
「ああ……少し、橋を離れて見回ろうかと思ってな。良いか?」
既に踏み出しているし、僕も後についている。無言で頷くと紫煙は、やっといつもの読めない表情で微笑んだ。
その顔だ。それなら、僕の心は乱れない。
「この通りの奥に、刀士の屋敷が並んでるのは知ってるよな?」
「ああ。城下には近いが町人街にもかなり近い、珍しい場所だ」
確か、屋敷が建った頃には城下の民を取り締まるお役目の刀士のものだったらしい。今は大分違うだろうが。
「うん。で、俺の知ってる男があそこに住んでいる」
「?」
「刀士じゃあなくて賄い方、まあ料理人だ。えらく作る飯が美味くてな。この近くの家で雇われてるんだが、よく他の屋敷にも行くらしい」
「料理人を貸し出す? 刀士もそんなことをするんだな」
「だーから、言ったろ。刀士様だって人だよ、人。食に一家言ある奴もいる。お前さんも、いつもいつも『忍び』って一括りにされちゃたまらないだろ?」
それはよく分からない。
「……それで?」
「その男がこの間、気になる話を聞いてきてな……お、ちょうど見えてきたな。あの大きな青瓦だ」
屋敷が山稜のように立ち並ぶ中に一つ、山のように青々とした屋根瓦の峰が見えた。雪の少ない環樹の天下街にあえて鋭い屋根を張るのは、力のある家だけに許されたものだ。
「眠瞳って刀士の家、聞いたことは?」
「今日の昼、名綴で見た。あの夜酒場に居たんだろう?」
「ああ、そうだったな」
「それに、昨年の冬によく聞いた。確か、凶作で流行った強盗騒ぎを中心になって鎮めたとか」
「そうそう! ちゃんと覚えてるな。平時にも刀を研ぎ、大きな荒事には必ず駆り出されるような家なんだよ」
「……気になっている、というのは?」
「下手人は刀狂いじゃあないかって言ってただろう、お前さん」
「ああ」
刀を持つ手に触れた悪意の響を思い返しながら、僕はうなずく。
「眠瞳には、いま二十歳の然牙って若坊がいてな。背は俺より少し下だががたいが良い。これがかなりの刀好きの暴れ者で、一年ほど前、金と家宝の刀を持ち出してどこぞへ出奔したのさ。見つかって家に連れ戻されたのが、ごく最近だ」
「最近、というのは」
「落ち武者の噂が始まる十日ほど前。それだけで疑いたくはないんだが」
その然牙といくらかしか年違わないだろうに、大人ぶった様子で紫煙は頭に手をやった。
「その刀士は、男好きなのか」
「分からない」
「失踪中の足取りは?」
「分からない」
それもそうか。……いや。
「……一年もの間、刀まで持ち出した家出からやっと連れ戻された息子殿が居て、使用人の噂話を聞けるだろう賄い方が何も聞き出せなかったのか? 主人らの話を盗み聞くこともできなかったと?」
「あー」
「おまけに、その放蕩息子殿がなぜ、あの日、町人酒場に来ていた? 連れ戻されて間もないのだから、まだ謹慎させられているはずだ。目付け役がついていてもおかしくないだろう」
「そうだよな、やはりそこらが気になるよなあ」
紫煙はふうと息を吐く。
「まず賄い方の方だが、不思議なことに屋敷じゃ誰も詳しい話を知らなかった。使用人の様子を聞くに、事情を知る少しの奴には固く口止めしてるな、あれは。そもそも何も話さないから盗み聞きの機会もない。そんで酒場の方だが、……俺も驚いたんだよ、然牙が居たのには。連れもいなかったし、連れ戻されたすぐ後とは思えない機嫌の良さだ」
やけに慣れた調子でかの方の名を呼ぶ。出奔する前にも関わりがあったのだろうか。
「酒場で話を聞いたのか?」
「軽くな。不思議なことにあいつ、こう言ったんだよ。『最近、いいものを見つけたんっすよ』ってな」
「いいもの……刀か?」
「さてな。あいつは体が大きいし」
「話を聞き出せそうか?」
「まあ、やるさ」
存外に迷いのない声だ。すっかり憔悴は消え失せている。分かりやすい。
「ふ」
「今笑ったな?」
「まさか。僕の役目を勘案していただけだ」
「いや、お前さんは別に……」
「お前が昼に夜に駆けずり回っているのを横目に、いつまでも昼寝などしていられるか」
「昼寝はしてくれよ」
そういう訳にいくものか。僕にできるものならば今ごろ、この格好付け男を今すぐ目隠しでもして寝室に蹴入れている。
何か、僕にも落ち武者に迫れる道は無いのか?
そう考え始めてから半日後の翌昼。
僕は椋実衆巴の大問題児、紛い屋召鼠と共に芸者小屋に居た。
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