スキルなし、聖女でもない。ただの「聞き上手」な私が異世界で幸せを探して旅に出ます~気づけば氷雪の騎士様に溺愛されています~

咲月ねむと

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1章 はじまりのパン屋、夕暮れの騎士

1話 異世界転移は突然に、お腹の虫は正直に

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​ 頬を撫でる風が私をほっとさせてくれる。
 オフィスの空調とは違う、草の匂いを含んだ湿った風。遠くで小鳥のさえずりも聞こえる。

 私はゆっくりと目を開けた。

​「……え?」

​ 目に飛び込んできたのは、見慣れた灰色の天井でも、積み上げられた書類の山でもなかった。どこまでも広がる青い空、風に揺れる緑の草原。

 私は呆然と体を起こす。
 着ている服は、昨日会社に着ていったベージュのオフィスカジュアル。足元は履き慣れたパンプス。けれど、スマホは圏外どころか電源も入らない。

​「ここ、どこなの……?」

 私の名前は神童しんどうエマ。元OL。

​ でも、これは夢、なのかな?
 それとも連日の残業続きで幻覚を見てるだけ? 

 そう思って頬をつねってみたけど痛い。
 しっかりと痛かった。

 私は立ち上がって周囲を見渡した。
 ビルも電柱もない。あるのは自然だけ。

 異世界転移。
 そんな言葉が頭をよぎる。小説や漫画でよくある展開だけど、もしそうなら神様的な人が出てきて「特別な力を授けよう」とか言うはずなんだよね。

 私はその場で両手を掲げてみた。

「ステータスオープン! ……出ない」

「ライト! ファイア! ……何も起きないって、どういうこと!!」

 しばらく怪しい動きを繰り返してみたけど、私の手から光が出ることも、空中に文字が浮かぶこともない。

 どうやら私は、ただ場所を移動しただけの「ただのエマ」らしい。いや、これ絶体絶命じゃん!

​「うそでしょ……」

​ 途方に暮れて座り込んだ。
 恐怖よりも先に襲ってきたのは、猛烈な虚無感。
 日本での生活に未練があるかと言われれば微妙だけど、毎朝満員電車に揺られ、上司の機嫌を伺い、理不尽なクレームに頭を下げる日々だった。
 帰宅すればコンビニ弁当を食べて寝るだけ。

「幸せになりたいなぁ……」

 誰に言うでもなく呟いた言葉が風の音で消える。

 その時だった。

​ ぐぅぅぅ――。

​ 盛大な音が静寂な草原に響いた。
 お腹が空いた。どんな状況でもお腹が空く自分の図太さに、少しだけ笑ってしまう。

「とりあえず歩こうかな。死ぬにしても、お腹いっぱい食べてからがいいし」

 私はパンプスを脱いで手に持って、ストッキングのまま草の上を歩いた。

​ ◇

​ どれくらい歩いたかな。

 太陽が少し傾きかけた頃、遠くに煙突から煙が上がっているのが見えた。

「家だ!」 

 疲れ切った足に力を込めて、私は煙の方へ向かった。たどり着いたのは、石造りの壁に囲まれた小さな町だった。門番のような男性がいたけど、私の服装を怪しむこともなく、「身分証がないなら仮滞在許可証を発行するから、銀貨一枚だ」と言った。

 もちろん銀貨など持っていない。

 私が困り果てていると、門番のおじさんはため息をつき、「……これでお店の手伝いでもして稼ぎな」とポケットから銅貨を数枚恵んでくれた。

 異世界、意外と世知辛いけど温かい場所なのかも。

​ 町の中は、中世ヨーロッパのような雰囲気だった。石畳の道、レンガ造りの家。行き交う人々は簡素な服を着ている。で、どこからか漂ってくる香ばしい匂いに、私は犬のように鼻をクンクンさせて匂いの元に吸い寄せられた。

​ そこは町の外れにある古びたパン屋さんだった。
 看板は塗装が剥げかけ、『……のパン屋』としか読めない。店先には誰もいない。
 けれど、匂いだけは本物だ。焼きたての小麦の香り。バターの甘い匂い。

 私はゴクリと喉を鳴らし、重たい木の扉を押し開けた。
​ カランコロン、と乾いた鐘の音が鳴る。

「いらっしゃい……」

 店番をしていたのは老婆だった。
 白髪をきっちりとまとめ、眉間に深い皺がある。正直、魔女と言われたら信じてしまいそうな雰囲気だった。
 棚には、数種類のパンが並んでいた。どれも少し焼き色が濃く、無造作に置かれている。

「あの、この銅貨で買えるパンはありますか?」

 私は門番のおじさんにもらった銅貨を差し出した。
 老婆は私の手と顔をじろりと見る。

「……あんた、旅人かい。ずいぶんと奇妙な格好してるね」

「はい、まあ……ちょっと遠くから来て、荷物をなくしてしまって」

「ふん。訳ありか……」

 老婆は棚から一番大きな丸いパンを掴むと、紙にも包まず私の手に押し付けた。

「ほらよ。売れ残りだ。その金でいい」

「え、でもこれ、大きすぎますよ?」

「うるさいね。どうせ誰も来やしないんだ。捨てちまうよりマシだよ」

 ぶっきらぼうな言い方だった。でも、渡されたパンはほんのりと温かかった。

​ 私は店の隅にあるガタついた椅子とテーブルを使わせてもらうことにした。
 椅子に座り、パンを両手で持つ。
 焼きたての熱が冷えた指先に伝わってくる。

「いただきます」

 小さく手を合わせ、パンにかじりついた。

​ カリッ。

 表面は香ばしく、中は驚くほどふんわりとしていた。噛みしめれば小麦本来の甘みが口いっぱいに広がる。余計な味付けはない。塩と小麦の味。
 シンプルだけど、すごく優しい味だった。 

「……おいしい」

 思わず声が出た。
 コンビニのパンとは違う。高級ホテルのパンとも違った。作り手の温もり伝わってくるような味。

 気づけば、目から涙がこぼれていた。
 不安だった。怖かった。
 でも、このパンの温かさが張り詰めていた心をほぐしてくれた。

​「……何泣いてんだい、気味が悪い」

 カウンターの奥から老婆の声がした。

 私は涙を拭いながら、老婆に向かって精一杯微笑んだ。

「ごめんなさい。あまりに美味しくて。……私、こんなに美味しいパン、初めて食べました」

 お世辞ではない。空腹というスパイスを差し引いても、このパンはすごく美味しかった。

​ 老婆は目を見開き、照れたように視線を逸らした。

「……ふん。当たり前だ。私はこれでも、五十年パンを焼いてるんだ」

「五十年! すごいですね。おばあちゃん、お名前は?」

「……マーサだ」

「マーサさん。私、エマです。……あの、お願いがあるんですけど」

 私はパンを飲み込み、まっすぐマーサさんを見た。

「私、行く当てもお金もありません。でも、掃除でも皿洗いでもなんでもします。だから、しばらくここに置いてもらえませんか? このパンの味、もっとたくさんの人に知ってもらいたいんです」

​ 特別なスキルはない。魔力もない。
 でも、美味しいものを食べて「美味しい」と伝えることならできる。誰かのために働いて「ありがとう」と言われる喜びを知っている。

​ マーサさんは呆れたようにため息をついた。

「……宿無しを拾う趣味はないんだけどね」

 そう言いながらも、彼女はカウンターの下から、マグカップに入った温かいミルクを出してくれた。

「パンだけじゃ喉が詰まるだろ。飲みな」

​ 湯気の向こうでマーサさんの口元がほんの少しだけ緩んだ。

 これが私の異世界での最初の出会い。
 幸せ探しの旅、その始まりなのかもしれない。
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