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Ep.3:Eランクおじさん、現場へ行く(ギルドの洗礼)
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午前五時。スマホのアラームが振動を始めた瞬間、俺は反射的に手を伸ばして止めた。
長年の社畜生活で培われた、悲しい習性だ。あと五分、あと五分、と二度寝を貪りたい欲求を、鉄の意志でねじ伏せる。
隣で眠る友里の寝息を確認し、蛇のように音もなく布団を抜け出した。
リビングのテーブルに、昨夜書いておいたメモを残す。『運動不足解消のため、ちょっと遠くまでウォーキングに行ってくる。昼には戻る』 嘘ではない。場所が近所の公園か、モンスターが徘徊する地下迷宮かの違いだけだ。些細な違いだと思いたい。
ボストンバッグを肩に担ぎ、玄関を出る。
早朝の空気は冷たく、肌着一枚の背中を容赦なく刺してくる。
駅までの道すがら、俺はバッグの紐を強く握りしめた。中に入っているのは、十年前のジャージとヘルメットとモンキーレンチ。職務質問されたら、どんな言い訳をすればいいのか。「いやあ、ちょっと水道管の修理を頼まれまして」
早朝五時に? ジャージで? 怪しすぎる。絶対に署まで連行されるパターンだ。
俺はなるべく街灯の下を避け、猫背をさらに丸めて駅へと急いだ。
◇
始発の電車は、予想に反して席が埋まっていた。
釣り竿を持った老人、徹夜明け&始発帰りとおぼしきホスト風の若者、そして俺と同じように生気のない顔をした休日出勤のサラリーマンたち。
誰もがそれぞれの戦場へ向かうか、あるいは敗走して帰る途中なのだろう。
俺は車両の隅に立ち、ドアのガラスに映る自分の顔を見つめた。
目の下のクマ。無精髭。
どこからどう見ても、人生に疲れたおっさんだ。これからダンジョンという非日常へ挑む探索者のオーラなど、微塵もない。
電車に揺られること一時間。
到着したのは「東京第3ダンジョン――通称:桜ヶ丘ダンジョン」の最寄り駅だ。
かつて大規模なショッピングモールだった場所が、三十年前の「大発生」でダンジョン化したエリア。駅の改札を出ると、そこは既に異様な熱気に包まれていた。
「パーティーメンバー募集! Dランク以上、タンク急募!」
「ポーション安いよ! 今日の特売、三本セットで二千円!」
「魔石買い取ります! ギルドより高値保証!」
駅前広場は早朝にも関わらず、さながら祭りのような、これから始まる戦場のような、雑多な喧騒に支配されていた。
俺は圧倒されながら、人波をかき分けて進む。
すれ違う人々は、皆一様に派手な装備を身につけている。
革の鎧に剣を提げた若者。ローブを羽織り、杖を持った女性。全身を迷彩服で固めたミリタリーマニアのような集団。
その中で、ヨレヨレのスーツにボストンバッグを提げた俺は、完全に異物だった。
「おい、あのおっさん見ろよ。何しに来たんだ?」
「リーマンが迷い込んだか? カモられなきゃいいけどな」
ヒソヒソという嘲笑交じりの声が、背中に突き刺さる。
うるさい。俺だって着たくてこんな格好をしているわけじゃない。家庭の事情だ。……まあ、これから蛍光グリーンのジャージに着替えるわけだが。
広場を抜け、巨大なドーム状の建物――「探索者ギルド東京支部」へ向かう。
元はドーム球場だった建物を改装したその威容は、現代の要塞そのものだ。
入り口の回転ドアを抜けると、冷房の効いた広大なロビーが広がっていた。
高い天井。大理石(風)の床。そして、壁一面に設置された電光掲示板には、本日のモンスター出現予測や、素材の買取相場が証券取引所のように流れている。
だが、俺の目を奪ったのは、そこにある「現実」だった。
「最後尾はこちらです! 割り込まないでください!」
「Eランクの方ー! Eランクの受付はこちらじゃありません! あちらのCカウンターへ並んでください!」
怒号。長蛇の列。
SランクやAランクといった上級探索者は、専用のVIPラウンジへ直通のエレベーターで消えていく。B、Cランクの中堅層も、比較的空いている窓口でスムーズに手続きを済ませている。
問題は、俺たち底辺のD、Eランクだ。
ロビーの隅、一番照明が暗いエリアに追いやられた窓口には、コミケの待機列さながらの行列が形成されていた。
「……嘘だろ」
俺は絶句した。
数百人はいるだろうか。最後尾のプラカードを持つ警備員に、恐る恐る尋ねる。「あの、これ、入場の手続きですか?」
警備員は気だるげに俺を一瞥し、顎で行列の先をしゃくった。
「そうだよ。ライセンス持ってる?」
「あ、はい。一応、Eランクのを」
十年前に会社の付き合いで一回だけ登録させられたカードを取り出す。
「じゃあ並んで。たぶん、三時間はかかるかな」
「さ、三時間!?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
「今日日曜だしね。スライム大量発生のニュースで、小遣い稼ぎのにわかが増えてんだよ。嫌なら平日来な」
警備員はそれだけ言うと、もう俺への興味を失ったようにあくびをした。
三時間。往復の通勤時間より長い。
ここで帰るという選択肢が頭をよぎる。
だが、手ぶらで帰れば、ただの「早朝からボストンバッグを持って散歩した変なおじさん」だ。それだけは避けたい。
俺は覚悟を決めて、行列の最後尾に並んだ。
◇
列は遅々として進まない。
前には、金髪ピアスの若者二人組。後ろには、借金取りに追われていそうな陰気な男。
俺はスーツ姿で小さくなりながら、ひたすらスマホのニュースアプリを更新し続けた。
一時間経過。腰が痛い。
二時間経過。足が棒のようだ。立ち仕事をしている営業部の連中は、毎日こんな苦行に耐えているのか。今度缶コーヒーでも奢ってやろう。
三時間経過。ようやく、窓口が見えてきた。
「はい次の方ー。ライセンス提示してください」
窓口に座っているのは、二十代半ばと思しき女性職員。
その目は死んでいた。
終わりの見えない残業、クレーマー対応、安月給。かつて俺の部下だった新入社員が、三ヶ月で辞める直前にしていた目と同じだ。親近感を覚えるのと同時に、恐怖も感じる。
俺は震える手でライセンスカードを差し出した。
「二条賢志郎さんですね。……最終更新が十年前。講習は受けてますか?」
「えっ、講習?」
「Eランク探索者は、半年に一度の安全講習が義務付けられています。受けてないなら、入場できません」
女性職員が無慈悲に告げる。
頭が真っ白になった。三時間並んで、門前払い? そんな理不尽が許されるのか。
「あ、あの! 今日どうしても入りたくて……何とかなりませんか? 追加料金とか払いますから!」
必死で食い下がる。会社で培った「土下座外交」のスキルを発動しそうな勢いだ。
職員は深く溜息をつき、キーボードを叩いた。
「……特別措置です。この場で誓約書にサインしてください。ダンジョン内での事故、怪我、死亡について、ギルドは一切の責任を負わないという内容です。あと、保険も適用外になりますけど、いいですね?」
「は、はい! 構いません!」
即答した。死んだら生命保険が下りる。ギルドの保険など知ったことか。
タブレットに表示された電子書類に、震える指でサインをする。
まるで悪魔との契約書だ。魂を売る代わりに、スライム狩りの権利を得る。安い魂だ。
「はい、手続き完了です。ゲートは地下二階です。次の方ー」
事務的に追い払われ、俺は逃げるようにその場を離れた。
冒険の始まりという高揚感など皆無。あるのは、免許更新センターで視力検査をパスした時のような、安堵感と疲労感だけだった。
◇
入場ゲートへ向かう前に、絶対に済ませなければならない儀式がある。
着替え(変身)だ。
ロッカールームは有料なので、トイレの個室に駆け込む。
狭い。駅のトイレより狭い個室の中で、俺はスーツを脱ぎ、ボストンバッグから例のブツを取り出した。
十年前の社内運動会で作らされた、蛍光グリーンのジャージ。
背中には『必勝』の文字がプリントされている。ダサい。死ぬほどダサい。
これを着るのか。四十二歳が。
ためらいがブレーキをかける。
だが、スーツを泥やスライムの体液で汚せば、友里に即バレする。クリーニング代も馬鹿にならない。
背に腹は代えられないのだ。文字通り、腹は出ているが。
意を決して袖を通す。
パツッ。
不吉な音がした。肩周りがきつい。
ズボンを履く。
ミチッ。
腹回りのゴムが悲鳴を上げる。内臓が圧迫され、軽い窒息感を覚える。
最後に、安全靴を履き、ヘルメットを被る。
個室の鏡を見る。
「……不審者だな」
そこにいたのは、工事現場から資材を盗んで逃走中の作業員にしか見えない中年男だった。
顔から火が出るほど恥ずかしい。
穴があったら入りたい。今から入るのはダンジョンという巨大な穴だが、そういう意味じゃない。
俺はヘルメットを目深に被り、顔を隠した。
大丈夫だ。誰も俺のことなど見ていない。俺はモブだ。背景だ。風景の一部だ。
そう自分に言い聞かせ、トイレを出た。
地下へのエスカレーターを降りると、巨大な金属製のゲートが口を開けていた。
空港の保安検査場のようなゲートの向こうには、暗い闇が広がっている。
警備員にライセンスカードを見せる。「はい、Eランク一名。いってらっしゃい」
気のない声に見送られ、俺はゲートをくぐった。
瞬間、空気が変わった。
重い。
物理的な重圧ではない。湿度が極端に高く、酸素濃度が少し薄いような、息苦しさ。
そして、臭い。
下水の腐敗臭と、カビの臭い、そして野生動物の獣臭を煮詰めたような、強烈な悪臭が鼻腔を直撃する。「うっぷ……」
思わず口元を押さえる。
テレビのダンジョン配信で見るような、神秘的な遺跡? 光る鉱石? そんなものはない。
ここは、ただの巨大な洞窟だ。
薄暗い通路の壁はヌルヌルと湿っており、床には誰かが捨てたポーションの空き瓶や、得体の知れない骨が転がっている。
歩き出して数分。
俺の息は、早くも上がり始めていた。
「はあ……はあ……マジかよ……」
安全靴が重い。一歩踏み出すたびに、鉛の塊を持ち上げているようだ。
ジャージのゴムが腹に食い込み、呼吸を阻害する。
まだモンスターに遭遇すらしていない。スライム一匹見ていない。
なのに、心拍数は既にレッドゾーンだ。
医師の言葉がリフレインする。『このままだと、死にますよ』 先生、あんたは正しかった。
ダンジョンで死ぬ前に、俺は自分の脂肪と運動不足に殺されそうだ。
額から噴き出した汗が、目に入って染みる。
俺はモンキーレンチを握りしめた。その冷たい感触だけが、今の俺を現実に繋ぎ止めていた。
引き返したい。今すぐ冷房の効いた部屋で発泡酒を飲みたい。
だが、俺の足は止まらなかった。
ボストンバッグの底には、凛の体操着と一緒に洗えなかった俺のシャツが入っている。
あの拒絶の目を思い出すたび、萎えそうな足にわずかな力が戻るのだ。
行こう。
パパの威厳を取り戻すための、泥臭い行軍の始まりだ。
長年の社畜生活で培われた、悲しい習性だ。あと五分、あと五分、と二度寝を貪りたい欲求を、鉄の意志でねじ伏せる。
隣で眠る友里の寝息を確認し、蛇のように音もなく布団を抜け出した。
リビングのテーブルに、昨夜書いておいたメモを残す。『運動不足解消のため、ちょっと遠くまでウォーキングに行ってくる。昼には戻る』 嘘ではない。場所が近所の公園か、モンスターが徘徊する地下迷宮かの違いだけだ。些細な違いだと思いたい。
ボストンバッグを肩に担ぎ、玄関を出る。
早朝の空気は冷たく、肌着一枚の背中を容赦なく刺してくる。
駅までの道すがら、俺はバッグの紐を強く握りしめた。中に入っているのは、十年前のジャージとヘルメットとモンキーレンチ。職務質問されたら、どんな言い訳をすればいいのか。「いやあ、ちょっと水道管の修理を頼まれまして」
早朝五時に? ジャージで? 怪しすぎる。絶対に署まで連行されるパターンだ。
俺はなるべく街灯の下を避け、猫背をさらに丸めて駅へと急いだ。
◇
始発の電車は、予想に反して席が埋まっていた。
釣り竿を持った老人、徹夜明け&始発帰りとおぼしきホスト風の若者、そして俺と同じように生気のない顔をした休日出勤のサラリーマンたち。
誰もがそれぞれの戦場へ向かうか、あるいは敗走して帰る途中なのだろう。
俺は車両の隅に立ち、ドアのガラスに映る自分の顔を見つめた。
目の下のクマ。無精髭。
どこからどう見ても、人生に疲れたおっさんだ。これからダンジョンという非日常へ挑む探索者のオーラなど、微塵もない。
電車に揺られること一時間。
到着したのは「東京第3ダンジョン――通称:桜ヶ丘ダンジョン」の最寄り駅だ。
かつて大規模なショッピングモールだった場所が、三十年前の「大発生」でダンジョン化したエリア。駅の改札を出ると、そこは既に異様な熱気に包まれていた。
「パーティーメンバー募集! Dランク以上、タンク急募!」
「ポーション安いよ! 今日の特売、三本セットで二千円!」
「魔石買い取ります! ギルドより高値保証!」
駅前広場は早朝にも関わらず、さながら祭りのような、これから始まる戦場のような、雑多な喧騒に支配されていた。
俺は圧倒されながら、人波をかき分けて進む。
すれ違う人々は、皆一様に派手な装備を身につけている。
革の鎧に剣を提げた若者。ローブを羽織り、杖を持った女性。全身を迷彩服で固めたミリタリーマニアのような集団。
その中で、ヨレヨレのスーツにボストンバッグを提げた俺は、完全に異物だった。
「おい、あのおっさん見ろよ。何しに来たんだ?」
「リーマンが迷い込んだか? カモられなきゃいいけどな」
ヒソヒソという嘲笑交じりの声が、背中に突き刺さる。
うるさい。俺だって着たくてこんな格好をしているわけじゃない。家庭の事情だ。……まあ、これから蛍光グリーンのジャージに着替えるわけだが。
広場を抜け、巨大なドーム状の建物――「探索者ギルド東京支部」へ向かう。
元はドーム球場だった建物を改装したその威容は、現代の要塞そのものだ。
入り口の回転ドアを抜けると、冷房の効いた広大なロビーが広がっていた。
高い天井。大理石(風)の床。そして、壁一面に設置された電光掲示板には、本日のモンスター出現予測や、素材の買取相場が証券取引所のように流れている。
だが、俺の目を奪ったのは、そこにある「現実」だった。
「最後尾はこちらです! 割り込まないでください!」
「Eランクの方ー! Eランクの受付はこちらじゃありません! あちらのCカウンターへ並んでください!」
怒号。長蛇の列。
SランクやAランクといった上級探索者は、専用のVIPラウンジへ直通のエレベーターで消えていく。B、Cランクの中堅層も、比較的空いている窓口でスムーズに手続きを済ませている。
問題は、俺たち底辺のD、Eランクだ。
ロビーの隅、一番照明が暗いエリアに追いやられた窓口には、コミケの待機列さながらの行列が形成されていた。
「……嘘だろ」
俺は絶句した。
数百人はいるだろうか。最後尾のプラカードを持つ警備員に、恐る恐る尋ねる。「あの、これ、入場の手続きですか?」
警備員は気だるげに俺を一瞥し、顎で行列の先をしゃくった。
「そうだよ。ライセンス持ってる?」
「あ、はい。一応、Eランクのを」
十年前に会社の付き合いで一回だけ登録させられたカードを取り出す。
「じゃあ並んで。たぶん、三時間はかかるかな」
「さ、三時間!?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
「今日日曜だしね。スライム大量発生のニュースで、小遣い稼ぎのにわかが増えてんだよ。嫌なら平日来な」
警備員はそれだけ言うと、もう俺への興味を失ったようにあくびをした。
三時間。往復の通勤時間より長い。
ここで帰るという選択肢が頭をよぎる。
だが、手ぶらで帰れば、ただの「早朝からボストンバッグを持って散歩した変なおじさん」だ。それだけは避けたい。
俺は覚悟を決めて、行列の最後尾に並んだ。
◇
列は遅々として進まない。
前には、金髪ピアスの若者二人組。後ろには、借金取りに追われていそうな陰気な男。
俺はスーツ姿で小さくなりながら、ひたすらスマホのニュースアプリを更新し続けた。
一時間経過。腰が痛い。
二時間経過。足が棒のようだ。立ち仕事をしている営業部の連中は、毎日こんな苦行に耐えているのか。今度缶コーヒーでも奢ってやろう。
三時間経過。ようやく、窓口が見えてきた。
「はい次の方ー。ライセンス提示してください」
窓口に座っているのは、二十代半ばと思しき女性職員。
その目は死んでいた。
終わりの見えない残業、クレーマー対応、安月給。かつて俺の部下だった新入社員が、三ヶ月で辞める直前にしていた目と同じだ。親近感を覚えるのと同時に、恐怖も感じる。
俺は震える手でライセンスカードを差し出した。
「二条賢志郎さんですね。……最終更新が十年前。講習は受けてますか?」
「えっ、講習?」
「Eランク探索者は、半年に一度の安全講習が義務付けられています。受けてないなら、入場できません」
女性職員が無慈悲に告げる。
頭が真っ白になった。三時間並んで、門前払い? そんな理不尽が許されるのか。
「あ、あの! 今日どうしても入りたくて……何とかなりませんか? 追加料金とか払いますから!」
必死で食い下がる。会社で培った「土下座外交」のスキルを発動しそうな勢いだ。
職員は深く溜息をつき、キーボードを叩いた。
「……特別措置です。この場で誓約書にサインしてください。ダンジョン内での事故、怪我、死亡について、ギルドは一切の責任を負わないという内容です。あと、保険も適用外になりますけど、いいですね?」
「は、はい! 構いません!」
即答した。死んだら生命保険が下りる。ギルドの保険など知ったことか。
タブレットに表示された電子書類に、震える指でサインをする。
まるで悪魔との契約書だ。魂を売る代わりに、スライム狩りの権利を得る。安い魂だ。
「はい、手続き完了です。ゲートは地下二階です。次の方ー」
事務的に追い払われ、俺は逃げるようにその場を離れた。
冒険の始まりという高揚感など皆無。あるのは、免許更新センターで視力検査をパスした時のような、安堵感と疲労感だけだった。
◇
入場ゲートへ向かう前に、絶対に済ませなければならない儀式がある。
着替え(変身)だ。
ロッカールームは有料なので、トイレの個室に駆け込む。
狭い。駅のトイレより狭い個室の中で、俺はスーツを脱ぎ、ボストンバッグから例のブツを取り出した。
十年前の社内運動会で作らされた、蛍光グリーンのジャージ。
背中には『必勝』の文字がプリントされている。ダサい。死ぬほどダサい。
これを着るのか。四十二歳が。
ためらいがブレーキをかける。
だが、スーツを泥やスライムの体液で汚せば、友里に即バレする。クリーニング代も馬鹿にならない。
背に腹は代えられないのだ。文字通り、腹は出ているが。
意を決して袖を通す。
パツッ。
不吉な音がした。肩周りがきつい。
ズボンを履く。
ミチッ。
腹回りのゴムが悲鳴を上げる。内臓が圧迫され、軽い窒息感を覚える。
最後に、安全靴を履き、ヘルメットを被る。
個室の鏡を見る。
「……不審者だな」
そこにいたのは、工事現場から資材を盗んで逃走中の作業員にしか見えない中年男だった。
顔から火が出るほど恥ずかしい。
穴があったら入りたい。今から入るのはダンジョンという巨大な穴だが、そういう意味じゃない。
俺はヘルメットを目深に被り、顔を隠した。
大丈夫だ。誰も俺のことなど見ていない。俺はモブだ。背景だ。風景の一部だ。
そう自分に言い聞かせ、トイレを出た。
地下へのエスカレーターを降りると、巨大な金属製のゲートが口を開けていた。
空港の保安検査場のようなゲートの向こうには、暗い闇が広がっている。
警備員にライセンスカードを見せる。「はい、Eランク一名。いってらっしゃい」
気のない声に見送られ、俺はゲートをくぐった。
瞬間、空気が変わった。
重い。
物理的な重圧ではない。湿度が極端に高く、酸素濃度が少し薄いような、息苦しさ。
そして、臭い。
下水の腐敗臭と、カビの臭い、そして野生動物の獣臭を煮詰めたような、強烈な悪臭が鼻腔を直撃する。「うっぷ……」
思わず口元を押さえる。
テレビのダンジョン配信で見るような、神秘的な遺跡? 光る鉱石? そんなものはない。
ここは、ただの巨大な洞窟だ。
薄暗い通路の壁はヌルヌルと湿っており、床には誰かが捨てたポーションの空き瓶や、得体の知れない骨が転がっている。
歩き出して数分。
俺の息は、早くも上がり始めていた。
「はあ……はあ……マジかよ……」
安全靴が重い。一歩踏み出すたびに、鉛の塊を持ち上げているようだ。
ジャージのゴムが腹に食い込み、呼吸を阻害する。
まだモンスターに遭遇すらしていない。スライム一匹見ていない。
なのに、心拍数は既にレッドゾーンだ。
医師の言葉がリフレインする。『このままだと、死にますよ』 先生、あんたは正しかった。
ダンジョンで死ぬ前に、俺は自分の脂肪と運動不足に殺されそうだ。
額から噴き出した汗が、目に入って染みる。
俺はモンキーレンチを握りしめた。その冷たい感触だけが、今の俺を現実に繋ぎ止めていた。
引き返したい。今すぐ冷房の効いた部屋で発泡酒を飲みたい。
だが、俺の足は止まらなかった。
ボストンバッグの底には、凛の体操着と一緒に洗えなかった俺のシャツが入っている。
あの拒絶の目を思い出すたび、萎えそうな足にわずかな力が戻るのだ。
行こう。
パパの威厳を取り戻すための、泥臭い行軍の始まりだ。
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