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Ep.8:包帯男と社内の異変(覚醒と代償)
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月曜日の朝。窓の外は生憎の雨だった。
いつもの俺なら、低気圧のせいで偏頭痛を起こし、満員電車の湿気と他人の体臭に胃液を逆流させていたはずだ。
だが、今朝の俺は妙にスッキリとしていた。脳内の不要なキャッシュデータを全て削除した後のように、思考がクリアだ。
左腕には、昨日ドラッグストアで買った仰々しいの包帯と、分厚いサポーターが巻かれている。
Yシャツの袖は当然通らないので、袖を切り取り、上からジャケットを羽織って強引に隠している。
左手が不自然に膨れ上がっている姿は、傍から見れば異様だろう。
「おはようございます」
営業部のフロアに入ると、数人の視線が俺の左腕に突き刺さるのがわかった。
給湯室の近くで、若手の女性社員たちがヒソヒソと囁き合っている。
「ねえ、見た? 二条係長の腕」
「見た見た。あれ、絶対ただの怪我じゃないよね」
「奥さんにやられたのかな?」
「うわー、ありそう……」
聴覚が鋭敏になっているのか、彼女たちの小声がクリアな音声データとして鼓膜に届く。
以前の俺なら、この時点で心拍数が上がり、変な汗をかいてトイレに駆け込んでいただろう。
「部下に変な噂を立てられている」という事実は、中間管理職のメンタルを削るには十分すぎる攻撃力を持っている。
だが、今は何も感じない。
恥ずかしさも、情けなさも、怒りもない。
ただ、「ああ、そういう噂が流れているのか」というファクトチェックとして認識されるだけだ。
彼女たちの声は、コピー機の駆動音や雨音と同じ、環境音の一部に過ぎない。
俺は自分の席に着き、PCを起動した。
キーボードを打つ。
左手の包帯が邪魔で打ちにくいが、指先の感覚は以前よりも鋭敏だ。
ガントレットが神経に直結しているおかげか、ブラインドタッチの速度はむしろ上がっている。
淡々とメールをチェックし、タスクを消化していく。
自分でも驚くほど、心が凪いでいた。
◇
昼過ぎ。
その静寂は、大山部長の怒声によって破られた。
「二条! ちょっと来い!」
フロア中に響き渡る大声。
営業部の空気が一瞬で凍りつく。
大山部長。
典型的な体育会系で、自分のミスを部下になすりつけることを「教育」と呼ぶタイプの人間だ。
俺が今の窓際部署に追いやられた元凶の一人でもある。
俺は立ち上がり、部長席へと向かった。
周囲の社員たちが、同情と好奇心の入り混じった目で俺を見ている。
「また二条さんが生贄か」そんな心の声が聞こえてきそうだ。
「はい、何でしょうか」
俺が大山のデスクの前に立つと、彼は真っ赤な顔で書類を叩きつけた。
「何でしょうか、じゃないだろ! この『九州プロジェクト』の発注ミスはどうなってるんだ! 納期が三日も遅れてるぞ!」
九州プロジェクト。
先週、大山が直々に担当すると言い張り、俺たち部下を一切触らせなかった案件だ。
「それは、部長がご自身で進めると仰っていた案件では?」
「口答えするな! 俺の補佐をするのがお前の仕事だろ! 俺が忙しいのは分かってるはずだ。だったら、お前が裏でチェックして、不備があれば指摘するのが筋だろうが!」
めちゃくちゃな論理だ
大山は立ち上がり、俺に詰め寄った。
唾が飛ぶほどの至近距離。顔を紅潮させ、額に青筋を浮かべている。
「どうすんだよこれ! 損害が出たらお前の責任だぞ! 土下座でもして詫びるか? あぁ!?」
いつものパワハラ風景。
以前の俺なら、ここで胃がキリキリと痛み出し、「申し訳ありません」と頭を下げていただろう。
嵐が過ぎ去るのを待つ貝のように、ただ縮こまってやり過ごす。それが俺の処世術だった。
だが。
今の俺は、奇妙なほど冷静だった。
目の前で怒鳴り散らす大山を見ても、恐怖を感じない。
それどころか、俺の脳内では、勝手に「観察」と「分析」が始まっていた。
(……声量が大きいな。推定九十デシベル。電車のガード下並みか)
俺は冷めた目で大山を見た。
顔が赤い。
首の血管が浮き出ている。
瞳孔が開いている。
多量の発汗。
(血圧は一六〇を超えているな。興奮状態によるアドレナリン過多。呼吸が浅い。このまま叫び続ければ過呼吸になるリスクがある)
昨日のゴブリンを思い出す。
あのはぐれゴブリンの殺意に比べれば、この男の威圧感など、幼児の癇癪レベルだ。
ゴブリンは生きるために俺を殺そうとした。だが、この男はただ、自分の保身のために吠えているだけだ。殺気がない。命のやり取りをする緊張感がない。
つまり、脅威度Eランク以下。スライム未満だ。
「……聞いてんのか二条ォ!」
大山が俺の胸倉を掴もうと手を伸ばしてきた。
その動きが、スローモーションに見える。
避けるまでもない。
俺は一歩も動かず、大山の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「部長」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷徹に響いた。
大山の手が、俺の襟元でピタリと止まる。
「……あ?」
「その件につきましては、三日前にメールでリマインドを送っております。読んでいただけましたか?」
「は、はあ? 知らねえよそんなメール!」
「では、今ここで確認しましょう」
俺はポケットから社用スマホを取り出し、画面を大山に見せた。
そこには、『件名:九州PJ 発注期限の確認について【重要】』というメールが表示されている。
送信日時、三日前の午前十時。
そして、開封通知もしっかりとついている。
「開封済みですね。さらに、サーバーのログも確認しましたが、部長はこのメールを開いた五分後に、発注システムにログインされています。ですが、発注ボタンを押さずにログアウトされた。……操作ミス、ではありませんか?」
俺は淡々と事実だけを並べた。
感情を込めず、事実確認を行う機械のように。
大山の顔色が、赤から青へと変わっていく。
図星なのだ。
酒でも飲んで仕事をしていたのか、もしくはキャバクラの姉ちゃんのLINEに夢中だったのか。
いずれにせよ、これは彼の単純なオペレーションミスだ。
「な……お、お前……」
「ログは嘘をつきません。システム管理部に問い合わせれば、もっと詳細な操作履歴も出せますが……どうされますか?」
俺は首を傾げた。
脅しているつもりはない。
ただ、最適解を提案しているだけだ。
ここで騒げば騒ぐほど、部長の管理能力不足が露呈する。
静かに処理して、取引先に頭を下げるのが最善手だ。
大山が後ずさりした。
いつもなら「うるさい!」と怒鳴り返してくるはずの男が、今日は言葉を詰まらせている。
彼の目には、俺がどう映っているのだろうか。
大山の視線が泳ぎ、俺の目を見て、そしてすぐに逸らした。
本能的な恐怖。
野生動物が、天敵に出会った時に見せる反応だ。
「……ち、チッ! 分かったよ! 俺が先方に連絡すりゃいいんだろ!」
大山は捨て台詞を吐くと、逃げるように執務スペースを出ていった。
フロアに静寂が訪れる。
周囲の社員たちが、信じられないものを見る目で俺を見ていた。
あの「謝り屋」の二条係長が、あの大山部長を黙らせた。
ざわめきが広がるが、俺にはそれすらもBGMにしか聞こえない。
「さて、仕事に戻るか」
俺は包帯を巻いた左手でジャケットの襟を正し、自分の席へと戻った。
心拍数は、平常時のまま。
かつてあれほど恐ろしかった上司の怒号が、今はただの「不快な音波」にしか感じられない。
胸のすくような勝利のはずだ。
ざまぁみろ、と思っていい場面だ。
なのに、俺の胸の中には、喜びも興奮もない。
あるのは、冷たい水のような静寂だけだった。
◇
深夜二時。
家族が寝静まった後、俺は自宅のガレージにいた。
今日の会社での出来事を反芻するが、やはり感情が湧いてこない
。
それよりも、問題はこの左手だ。
今日はなんとかなったが、この包帯ぐるぐる巻きの状態を続けるのは限界がある。
キーボードは打ちにくいし、何より目立つ。
部長を撃退しても、この左手がバレたら社会的に死ぬことには変わりない。
「……なぁ、お前も不便だろ?」
俺はサポーターと包帯を解き、黒いガントレットを剥き出しにした。
蛍光灯の下で、艶消しの黒い装甲が鈍く光る。
昨日のDIYでスライムの不純物を吸って以来、ガントレットは以前より俺の腕に馴染んでいる。そう、皮膚の下に根を張ったかのようにだ。
「もっと、目立たなくできないか? 普通の腕みたいにさ」
俺は念じた。
命令ではない。
相棒への相談だ。
俺の社会生活を守ることは、宿主である俺を生かすことにも繋がるはずだ。
ドクン。
ガントレットが応えた。
脈動と共に、黒い装甲の表面が波打つ。
次の瞬間、ガントレットの周囲の空気が揺らいだ。
シュゥゥゥ……。
黒かった装甲の色が、薄れていく。
いや、色が消えたのではない。
表面に周囲の景色――俺の机や、壁の色――を映し出し、さらに俺の肌の色を再現しているのだ。
数秒後。
そこには、ごく普通の、中年男性の腕があった。
血管の浮き具合、産毛、そして日焼けの跡まで完璧に再現されている。
「……すげぇ」
俺は恐る恐る右手で触れてみた。
感触は硬い。コンクリートのようだ。
見た目は皮膚だが、実体は金属のまま。
光学迷彩。
カメレオンの擬態を、魔法レベルで再現している。
『スキル:影の偽装(シャドウ・スキン)を習得しました』
脳内にインフォメーションが流れる。
成功だ。
これなら、明日から包帯なしで出社できる。温泉だって入れるぞ。完璧だ。
俺は喜びを感じるはずだった。
だが。
ゾワリ。
背筋に、冷たいものが走った。
ガントレットが擬態を完了した瞬間、胸の奥から「何か」が吸い出される感覚があったのだ。
痛みではない。
スプーンで脳みその一部をすくい取られたような、喪失感。
「……ッ」
俺は作業机に手をつき、荒い息を吐いた。
なんだ、今の感覚は。
ガントレットが、代償を持っていったのか? 俺の中にある「何か」を?
ふと、ガレージの窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこに映っている男は、笑っていた。
口角は上がっている。
「やったぞ」という表情を作っている。
だが、目が笑っていない。
まるで精巧に作られた能面のように、瞳の奥が空洞だ。
「……あれ?」
俺は自分の頬を触った。
今日一日。
俺は一度でも、本気で笑ったか? 一度でも、本気で怒ったか? 部長に詰め寄られた時、俺は「怖い」と感じなかった。
同僚に噂された時、俺は「恥ずかしい」と感じなかった。
それは、「強くなった」からなのか? それとも、「感じなくなってしまった」のか?
恐怖心。羞恥心。
人間が社会で生きるために必要な、ブレーキとなる感情。
それを、この左手は「不要な不純物」として食べてしまったんじゃないか?
窓ガラスの中の俺が、他人行儀に俺を見つめ返している。
その不気味さに、俺は背筋が凍るのを感じた。
いや、正確には、「背筋が凍るべきだ」と頭で理解しているだけで、心臓の鼓動は一定のリズムを刻み続けていた。
俺は静かにガレージの電気を消した。
闇の中で、左手だけが微かに熱を帯びていた。
いつもの俺なら、低気圧のせいで偏頭痛を起こし、満員電車の湿気と他人の体臭に胃液を逆流させていたはずだ。
だが、今朝の俺は妙にスッキリとしていた。脳内の不要なキャッシュデータを全て削除した後のように、思考がクリアだ。
左腕には、昨日ドラッグストアで買った仰々しいの包帯と、分厚いサポーターが巻かれている。
Yシャツの袖は当然通らないので、袖を切り取り、上からジャケットを羽織って強引に隠している。
左手が不自然に膨れ上がっている姿は、傍から見れば異様だろう。
「おはようございます」
営業部のフロアに入ると、数人の視線が俺の左腕に突き刺さるのがわかった。
給湯室の近くで、若手の女性社員たちがヒソヒソと囁き合っている。
「ねえ、見た? 二条係長の腕」
「見た見た。あれ、絶対ただの怪我じゃないよね」
「奥さんにやられたのかな?」
「うわー、ありそう……」
聴覚が鋭敏になっているのか、彼女たちの小声がクリアな音声データとして鼓膜に届く。
以前の俺なら、この時点で心拍数が上がり、変な汗をかいてトイレに駆け込んでいただろう。
「部下に変な噂を立てられている」という事実は、中間管理職のメンタルを削るには十分すぎる攻撃力を持っている。
だが、今は何も感じない。
恥ずかしさも、情けなさも、怒りもない。
ただ、「ああ、そういう噂が流れているのか」というファクトチェックとして認識されるだけだ。
彼女たちの声は、コピー機の駆動音や雨音と同じ、環境音の一部に過ぎない。
俺は自分の席に着き、PCを起動した。
キーボードを打つ。
左手の包帯が邪魔で打ちにくいが、指先の感覚は以前よりも鋭敏だ。
ガントレットが神経に直結しているおかげか、ブラインドタッチの速度はむしろ上がっている。
淡々とメールをチェックし、タスクを消化していく。
自分でも驚くほど、心が凪いでいた。
◇
昼過ぎ。
その静寂は、大山部長の怒声によって破られた。
「二条! ちょっと来い!」
フロア中に響き渡る大声。
営業部の空気が一瞬で凍りつく。
大山部長。
典型的な体育会系で、自分のミスを部下になすりつけることを「教育」と呼ぶタイプの人間だ。
俺が今の窓際部署に追いやられた元凶の一人でもある。
俺は立ち上がり、部長席へと向かった。
周囲の社員たちが、同情と好奇心の入り混じった目で俺を見ている。
「また二条さんが生贄か」そんな心の声が聞こえてきそうだ。
「はい、何でしょうか」
俺が大山のデスクの前に立つと、彼は真っ赤な顔で書類を叩きつけた。
「何でしょうか、じゃないだろ! この『九州プロジェクト』の発注ミスはどうなってるんだ! 納期が三日も遅れてるぞ!」
九州プロジェクト。
先週、大山が直々に担当すると言い張り、俺たち部下を一切触らせなかった案件だ。
「それは、部長がご自身で進めると仰っていた案件では?」
「口答えするな! 俺の補佐をするのがお前の仕事だろ! 俺が忙しいのは分かってるはずだ。だったら、お前が裏でチェックして、不備があれば指摘するのが筋だろうが!」
めちゃくちゃな論理だ
大山は立ち上がり、俺に詰め寄った。
唾が飛ぶほどの至近距離。顔を紅潮させ、額に青筋を浮かべている。
「どうすんだよこれ! 損害が出たらお前の責任だぞ! 土下座でもして詫びるか? あぁ!?」
いつものパワハラ風景。
以前の俺なら、ここで胃がキリキリと痛み出し、「申し訳ありません」と頭を下げていただろう。
嵐が過ぎ去るのを待つ貝のように、ただ縮こまってやり過ごす。それが俺の処世術だった。
だが。
今の俺は、奇妙なほど冷静だった。
目の前で怒鳴り散らす大山を見ても、恐怖を感じない。
それどころか、俺の脳内では、勝手に「観察」と「分析」が始まっていた。
(……声量が大きいな。推定九十デシベル。電車のガード下並みか)
俺は冷めた目で大山を見た。
顔が赤い。
首の血管が浮き出ている。
瞳孔が開いている。
多量の発汗。
(血圧は一六〇を超えているな。興奮状態によるアドレナリン過多。呼吸が浅い。このまま叫び続ければ過呼吸になるリスクがある)
昨日のゴブリンを思い出す。
あのはぐれゴブリンの殺意に比べれば、この男の威圧感など、幼児の癇癪レベルだ。
ゴブリンは生きるために俺を殺そうとした。だが、この男はただ、自分の保身のために吠えているだけだ。殺気がない。命のやり取りをする緊張感がない。
つまり、脅威度Eランク以下。スライム未満だ。
「……聞いてんのか二条ォ!」
大山が俺の胸倉を掴もうと手を伸ばしてきた。
その動きが、スローモーションに見える。
避けるまでもない。
俺は一歩も動かず、大山の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「部長」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷徹に響いた。
大山の手が、俺の襟元でピタリと止まる。
「……あ?」
「その件につきましては、三日前にメールでリマインドを送っております。読んでいただけましたか?」
「は、はあ? 知らねえよそんなメール!」
「では、今ここで確認しましょう」
俺はポケットから社用スマホを取り出し、画面を大山に見せた。
そこには、『件名:九州PJ 発注期限の確認について【重要】』というメールが表示されている。
送信日時、三日前の午前十時。
そして、開封通知もしっかりとついている。
「開封済みですね。さらに、サーバーのログも確認しましたが、部長はこのメールを開いた五分後に、発注システムにログインされています。ですが、発注ボタンを押さずにログアウトされた。……操作ミス、ではありませんか?」
俺は淡々と事実だけを並べた。
感情を込めず、事実確認を行う機械のように。
大山の顔色が、赤から青へと変わっていく。
図星なのだ。
酒でも飲んで仕事をしていたのか、もしくはキャバクラの姉ちゃんのLINEに夢中だったのか。
いずれにせよ、これは彼の単純なオペレーションミスだ。
「な……お、お前……」
「ログは嘘をつきません。システム管理部に問い合わせれば、もっと詳細な操作履歴も出せますが……どうされますか?」
俺は首を傾げた。
脅しているつもりはない。
ただ、最適解を提案しているだけだ。
ここで騒げば騒ぐほど、部長の管理能力不足が露呈する。
静かに処理して、取引先に頭を下げるのが最善手だ。
大山が後ずさりした。
いつもなら「うるさい!」と怒鳴り返してくるはずの男が、今日は言葉を詰まらせている。
彼の目には、俺がどう映っているのだろうか。
大山の視線が泳ぎ、俺の目を見て、そしてすぐに逸らした。
本能的な恐怖。
野生動物が、天敵に出会った時に見せる反応だ。
「……ち、チッ! 分かったよ! 俺が先方に連絡すりゃいいんだろ!」
大山は捨て台詞を吐くと、逃げるように執務スペースを出ていった。
フロアに静寂が訪れる。
周囲の社員たちが、信じられないものを見る目で俺を見ていた。
あの「謝り屋」の二条係長が、あの大山部長を黙らせた。
ざわめきが広がるが、俺にはそれすらもBGMにしか聞こえない。
「さて、仕事に戻るか」
俺は包帯を巻いた左手でジャケットの襟を正し、自分の席へと戻った。
心拍数は、平常時のまま。
かつてあれほど恐ろしかった上司の怒号が、今はただの「不快な音波」にしか感じられない。
胸のすくような勝利のはずだ。
ざまぁみろ、と思っていい場面だ。
なのに、俺の胸の中には、喜びも興奮もない。
あるのは、冷たい水のような静寂だけだった。
◇
深夜二時。
家族が寝静まった後、俺は自宅のガレージにいた。
今日の会社での出来事を反芻するが、やはり感情が湧いてこない
。
それよりも、問題はこの左手だ。
今日はなんとかなったが、この包帯ぐるぐる巻きの状態を続けるのは限界がある。
キーボードは打ちにくいし、何より目立つ。
部長を撃退しても、この左手がバレたら社会的に死ぬことには変わりない。
「……なぁ、お前も不便だろ?」
俺はサポーターと包帯を解き、黒いガントレットを剥き出しにした。
蛍光灯の下で、艶消しの黒い装甲が鈍く光る。
昨日のDIYでスライムの不純物を吸って以来、ガントレットは以前より俺の腕に馴染んでいる。そう、皮膚の下に根を張ったかのようにだ。
「もっと、目立たなくできないか? 普通の腕みたいにさ」
俺は念じた。
命令ではない。
相棒への相談だ。
俺の社会生活を守ることは、宿主である俺を生かすことにも繋がるはずだ。
ドクン。
ガントレットが応えた。
脈動と共に、黒い装甲の表面が波打つ。
次の瞬間、ガントレットの周囲の空気が揺らいだ。
シュゥゥゥ……。
黒かった装甲の色が、薄れていく。
いや、色が消えたのではない。
表面に周囲の景色――俺の机や、壁の色――を映し出し、さらに俺の肌の色を再現しているのだ。
数秒後。
そこには、ごく普通の、中年男性の腕があった。
血管の浮き具合、産毛、そして日焼けの跡まで完璧に再現されている。
「……すげぇ」
俺は恐る恐る右手で触れてみた。
感触は硬い。コンクリートのようだ。
見た目は皮膚だが、実体は金属のまま。
光学迷彩。
カメレオンの擬態を、魔法レベルで再現している。
『スキル:影の偽装(シャドウ・スキン)を習得しました』
脳内にインフォメーションが流れる。
成功だ。
これなら、明日から包帯なしで出社できる。温泉だって入れるぞ。完璧だ。
俺は喜びを感じるはずだった。
だが。
ゾワリ。
背筋に、冷たいものが走った。
ガントレットが擬態を完了した瞬間、胸の奥から「何か」が吸い出される感覚があったのだ。
痛みではない。
スプーンで脳みその一部をすくい取られたような、喪失感。
「……ッ」
俺は作業机に手をつき、荒い息を吐いた。
なんだ、今の感覚は。
ガントレットが、代償を持っていったのか? 俺の中にある「何か」を?
ふと、ガレージの窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこに映っている男は、笑っていた。
口角は上がっている。
「やったぞ」という表情を作っている。
だが、目が笑っていない。
まるで精巧に作られた能面のように、瞳の奥が空洞だ。
「……あれ?」
俺は自分の頬を触った。
今日一日。
俺は一度でも、本気で笑ったか? 一度でも、本気で怒ったか? 部長に詰め寄られた時、俺は「怖い」と感じなかった。
同僚に噂された時、俺は「恥ずかしい」と感じなかった。
それは、「強くなった」からなのか? それとも、「感じなくなってしまった」のか?
恐怖心。羞恥心。
人間が社会で生きるために必要な、ブレーキとなる感情。
それを、この左手は「不要な不純物」として食べてしまったんじゃないか?
窓ガラスの中の俺が、他人行儀に俺を見つめ返している。
その不気味さに、俺は背筋が凍るのを感じた。
いや、正確には、「背筋が凍るべきだ」と頭で理解しているだけで、心臓の鼓動は一定のリズムを刻み続けていた。
俺は静かにガレージの電気を消した。
闇の中で、左手だけが微かに熱を帯びていた。
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