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Ep.17:第2章完結・消えた「味覚」
しおりを挟むタナカという珍妙な「協力者」と別れ、俺が帰宅したのは午後七時を回った頃だった。
心地よい疲労感がある。
今日はよく働いた。
アイアン・タートルの撃破に、ミスリル銀の採取、そしてダンジョンの情報網――タナカの確保。
業務日報を書くなら、花丸がつくレベルの成果だ。
「ただいま」
玄関を開けると、美味しそうな匂いが漂ってきた。
肉が焼ける香ばしい匂いと、炒めた玉ねぎの甘い香り。
今日はハンバーグか。
俺の好物だ。
以前なら、この匂いを嗅いだだけで唾液が分泌され、腹の虫が鳴いたものだ。
だが、今の俺は冷静だった。
「空腹」というよりは、「エネルギー残量が低下している。補給が必要だ」という、機械的なアラートを脳内で感じるだけだ。
「おかえりなさい、あなた」
リビングに入ると、妻の友里がエプロン姿で迎えてくれた。
娘、凛の姿はない。
テスト勉強中だろうか、それともまだパパと顔を合わせるのが気まずいのか。
「いい匂いだね。ハンバーグだね?」
「ええ。今日はミンチが安かったから。あなたの好きな煮込みハンバーグよ」
友里が食卓に皿を並べる。
湯気を立てるハンバーグ。付け合わせのニンジンのグラッセと、ブロッコリー。
完璧なビジュアルだ。
俺はジャケットを脱ぎ、手を洗って席についた。
左手の擬態は完璧だ。水に濡れても解けることはない。
「いただきます」
俺はナイフとフォークを手に取り、ハンバーグを切り分けた。
断面から肉汁が溢れ出す。
それを口へと運ぶ。
モグ、モグ。
熱い。
肉の弾力がある。
噛むたびに、液体が口の中に広がる。
食感は完璧だ。
焼き加減も申し分ない。
だが。
(……ん?)
俺は咀嚼の手を止めずに、違和感を覚えた。
味が……しない。
肉の旨味も、玉ねぎの甘みも、スパイスの香りも。
何も感じない。
まるで、温かいゴムか、濡れたスポンジを噛んでいるようだ。
舌の上にあるのは、ただの「有機物」の塊。
(風邪か? いや、体調は万全だ)
(味覚障害? ストレス性の?)
脳内で原因を検索する。
だが、答えが出る前に、目の前で友里がじっとこちらを見ていることに気づいた。
感想を待っているのだ。
シェフに対するフィードバックは、食事のマナーだ。
俺は脳内のデータベースを参照した。
『対象:友里のハンバーグ』
『過去の評価:非常に美味しい。ご飯が進む』
『推奨される反応:笑顔で絶賛する』
出力すべき回答は決まっている。
俺は口の中の無味な物体を飲み込み、満面の笑みを作った。
「美味い! やっぱり友里のハンバーグは最高だな。肉汁が凄くて、ソースとの相性も抜群だ」
完璧なコメントだ。
声のトーン、表情筋の動き、間。
どれをとっても、幸福な夫の演技として申し分ないはずだ。
だが。
友里の表情は、晴れるどころか、曇っていった。
彼女は困惑したように眉を寄せ、俺の手元と顔を交互に見た。
「……あなた?」
「ん? どうした? 本当に美味いよ」
「あのね……」
友里が、恐る恐る指摘した。
「それ、まだソースかけてないのよ」
「……え?」
俺は自分の皿を見た。
確かに。
ハンバーグは焼かれたままで、茶色いデミグラスソースは、テーブルの中央にあるソースポットに入ったままだった。
俺が食べたのは、下味だけの素のハンバーグだ。
もちろん、下味がしっかりしていれば美味しいはずだが、「ソースとの相性が抜群」という感想は、物理的にあり得ない。
やってしまった。
状況証拠と証言の不一致。
致命的な論理エラーだ。
「あ、ああ! ごめんごめん! 肉の味がしっかりしてるから、てっきりソースがかかってるのかと錯覚したんだよ! それくらいジューシーだってことさ!」
俺は慌てて取り繕った。
額に冷や汗が流れる……はずだが、やはり汗は出ない。
焦りすらも、どこか遠い出来事のように感じる。
「……そう?」
友里はまだ納得していない様子だったが、それ以上は追求してこなかった。
彼女は静かにソースポットを取り、俺の皿にソースをかけた。
「どうぞ。……無理してない? 仕事、大変なんでしょ?」
「いやいや、全然。新しい部署はやりがいがあるよ」
俺はソースのかかったハンバーグを口に運んだ。
やはり、味はしない。
ただ、ドロリとした液体の感触が追加されただけだ。
俺はそれを「美味しい」という情報として処理し、胃袋へと流し込んだ。
◇
食後。
俺は逃げるように風呂場へと向かった。
鍵をかけ、洗面台の鏡に向き合う。
そこには、健康的な血色の、中年男の顔がある。
どこも悪くないように見える。
俺は棚にあった歯磨き粉を指に取り、舐めてみた。
ミントの刺激臭は鼻に届く。
だが、舌は「冷たい」と感じるだけで、「辛い」とも「苦い」とも感じない。
次に、塩を舐めてみる。
ジャリジャリとした砂のような感触。
塩辛さは皆無。
「……味覚が、消えたか」
俺は鏡の中の自分に呟いた。
ガントレットの代償。
最初は「恐怖心」だった。次は「羞恥心」。
そして今度は、「味覚」という五感の一部を持っていかれたらしい。
人間としての機能が、少しずつ削ぎ落とされていく。
不必要なパーツを外され、戦闘と作業に特化したマシーンへと改造されていくような感覚。
怖いか?
いや、怖くない。
それが一番怖いことなのかもしれないが、その恐怖すらも薄い。
ただ、「食事が楽しくなくなるのは不便だな」という、機能的な損失として認識している自分がいる。
俺は左手の擬態を解いた。
黒い金属の肌が露わになる。
以前よりも黒光りが増し、血管のような赤いラインが微かに脈打っている。
こいつは成長している。
俺という宿主を苗床にして。
「……構わんさ」
俺はガントレットを撫でた。
味覚くらい、くれてやる。
恐怖も、羞恥心も、要らない。
それと引き換えに、家族を守れる力が手に入るなら、安いものだ。
俺は拳を握りしめた。
ギチギチと、金属が軋む音がした。
リビングからは、友里と凛がテレビを見て笑う声が聞こえてくる。
あの平穏を守るためなら、俺は喜んで怪物になろう。
だが、俺はまだ知らなかった。
失うものは、味覚だけでは済まないことを。
そして、次に俺の前に立ちはだかる敵が、モンスターではなく、「金」と「名声」を武器にする、最も厄介な人間であることを。
風呂場の換気扇が、ゴーッと低い唸り声を上げて回っていた。
それはまるで、これから始まる嵐を予兆するかのように。
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