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[76]決断の前に
しおりを挟む夜中、あてがわれた客室を抜け出し、ヴィの部屋へと向かった。もちろん、部屋の場所は調査済み。ただ、真っ暗な廊下を一人で歩くのは慣れていなくて、目当ての部屋を探し出すのに手間取ってしまった。
やっと部屋の前に辿り着いたとき。意気込む私の前で、ノックをするまでもなく扉が開いた。
闇の中に、ぬっと赤い瞳が浮かび上がる。驚きに固まる私の耳に、ヴィの憂鬱そうなため息が聞こえた。
「監視役は仕事をしてないのか」
部屋から漏れるわずかな光が、ヴィの姿を照らし出す。見慣れつつある、青い瞳が私を射抜く。───そうよね、まだ魔力を封じられたままなのだから、瞳が赤いわけがない。だとすると、さっきのはきっと見間違いね。
「ティナは眠ったわ」
「まったく」
「来ちゃ、だめだった?」
急に、不安になってくる。もしかして、私、とんでもないことをしてる? こんな時間に男性の部屋を訪ねるなんて、はしたないと思われた?
「結婚まで、無垢な体でいたいならな」
途端、ヴィの雰囲気が危険なものに変わった。
眠っていたのか、髪が乱れていた。栗色のゆるい巻毛が、頬と首筋に垂れていて──
「あ、あの、私」
あの首筋に顔を埋めたら、きっと素晴らしい香りがするはず。ムスクのように芳醇な。
ふっと、ヴィが笑う気配がした。顔を上げると、穏やかに微笑む彼がいる。
「少し、散歩に出ないか」
濃淡しかない夜の世界は、昼とは明らかに趣が違う。この時間、世界は人間や動物とは別の存在のための場所に変わるんだと、私は考えている。たとえば、幽霊とか、精霊とか、そういう不確かな者達の。彼らの聖域に足を踏み入れるようで、その背徳感にドキドキする。
「心配して来てくれたんだろ?」
気をつけて、そう声をかけながら手を引くヴィが言った。
心配………違う。私は、ヴィを止めに来た。
ヴィを、王太子に。無理だと即答したヴィは、だけど、私の名前が出た途端、考えを改めたようだった。私に苦労をさせたくないというお兄様の話を、誰よりも真剣に聞いていたのはヴィだ。彼も、これまで散々言っていたことだった。俺と一緒になっても、幸せになれない。それはヴィが平民だから、悪魔と揶揄される黒髪の魔法使いだから。
だけど、ヴィが王太子になれば。
お父様も、お兄様も、喜んで私を彼の妃に差し出すだろう。地位は保証され、もちろん、お金で苦労することもないから。
でも………
「俺、王太子になるよ」
───ええ、貴方なら、そういう結論を出してしまうとわかってた。
「私のために、自分を犠牲にするのはやめて」
ヴィは眉根を寄せ、困惑を顕にした。
「俺と一緒に生きていきたいって、言ったろ? それとも、やっぱり嫌になった?」
「違うわ!ずっと一緒にいたいわよ、私だって。でも、そのために、ヴィが王太子にならなくったっていいでしょ。私、ヴィが平民だっていいの。貴方に嫁いで、私自身が平民になったっていい」
12歳で前世の記憶を取り戻してから、私を救うために翻弄してきたヴィ。
いま、彼はまた、私を幸せにすることを第一に考えて、自分の人生を犠牲にしようとしている。
「ねぇ、ヴィ。王族なんて堅苦しい身分にしばられるなんて、貴方らしくない。生きるって、もっと自由なものでしょう?」
両の手を、ヴィの手に包み込まれる。大きくて、作り物のように綺麗な手。
ヴィは笑っていた。私がこんなに深刻になっているのに、ヴィったら、楽しんでいるふうすらある。
「もう、真面目に話してるのよ」
「わかってる。そんなふうに顔をしかめてたら、シワが寄るぞ」
私の眉間を、彼の親指が揉む。まったく、レディに"シワ"なんて、失礼しちゃう。
「俺はさ、7歳で、母親だと思ってた女に捨てられて、周りの人間からは悪魔だなんだと罵られて、親父に引き取られたあとも、この黒髪のせいで、魔法使いの中にもいまいち溶け込めなくて。俺、何のために産まれてきたんだろうって。ずっと、自分の存在に疑問を持ちながら、死んだみたいに生きてた。だけど、12歳の頃お前と出会って、俺は久しぶりに生きてるって気がしたんだ」
と、次の瞬間には抱きしめられていた。心の準備なんて間に合わなくて、身体がびっくりする。
「───好きなんだ。どうしようもなく」
微かな呟き。ずくん、と大きく心臓が跳ねた。体温が一気に上がり、耳の奥まで鼓動が迫ってくる。
───不意打ちなんて、ずるいわ。
ヴィは顔を離して、輝かんばかりの笑顔を見せた。
「俺はもう、フィオリアにしばられてる。俺の中心には、お前がいて、すべての判断基準になってるんだ。変えられないし、変えるつもりもない。俺はフィオリアのため、そうやって生きていきたい。それで幸せなんだよ」
心が揺さぶられて、頭が追いつかない。こんなに、幸せな気分になるなんて、いいのかしら。私に、許されるのかしら。たくさん傷つけられたし、傷つけてきた。どうあがいても幸せが手に入らなくて、あれだけ、世界に絶望していたのに。ふと、思う。
「私ね、この世界には運命の神様が二人いるんじゃないかって思うの。一人は、私のことが大嫌いな神様。私を絶望させて、喜ぶの。もう一人は、私のことを愛してくれている神様。絶望した私に手を差し伸べて、救ってくれる」
そう、そうなんだわ。話していて、どんどん、それが真実なんじゃないかと思えてくる。
「後者の神様が、ヴィとお兄様を、私のもとに連れてきてくれたんだわ」
ヴィは目を見開いて、沈黙する。ああ、とゆっくり同意した。
「───そうかもな。俺はフィオリアを幸せにするために、この世界にやってきた」
「ねぇ。私、いまとても幸せ」
微笑みかけると、ぎゅうっと抱きしめられた。
「俺も幸せでたまらない。これから一生、フィオリアを独占できるなんて」
いきなり、ヴィが跪いた。
「え、なに?」
「こういうことはちゃんとしないと」
すっと、手を取られる。これって、もしかして───
信じられない。私が、だって、これは物語のヒロインだけに許されたハッピーエンドだ。
「俺の妃に、なってくれる?」
堪えきれず、涙が溢れた。
「はい。よろしくお願いしますわ、王子殿下」
慣れない呼び方に、くすくすと笑いあった。
「明日、フェルナンデスに言うよ」
私を部屋の前まで送ってくれたところで、ヴィが言った。
「ええ」
なんだか、離れ難くて、いつまでも繋いだ手が離せなかった。
そうだわ、今なんじゃない? タイミングとしては、完璧なはず。
目を瞑って、唇を突き出す。
「え、なに」
「ん!」
「え?」
「んー!!」
「う?ん?え、そういうこと?」
なけなしの勇気は、あっという間に底をついた。両手で顔を覆う。
「もう、やだ。どうしてわからないの。頑張ったのに」
"可愛くお願い"はこれが限界なのよ!
「だって、もう~、いきなりそういうことするから……」
ヴィは力が抜けたように、その場にへたりこんだ。
顔は見えないけれど、耳の先が少し赤くなっている。見つけなければよかった。益々恥ずかしくなっちゃったわ。前はあんなに強引だったくせにどうしてなのって、問い詰めたくなる。でも、私、聞かなくても理由を知ってる。本当の彼は恥ずかしがり屋なのだ。
「よし!」
勢いをつけて起き上がったヴィに、びくりと肩が震えた。いやいや、と首を振りつつ後退するも、両肩に手を置かれ、捕まってしまう。
お互いに視線を合わせられず、どぎまぎした。我慢ならず、目を瞑ってしまう。と、唇に柔らかな熱が押し付けられた。一瞬で重みは消えたのに、熱は永遠に引かない。目を、開ける。顔を真っ赤に染める、未来の夫がそこにいた。
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