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第一章
一話
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1.
なんだか、今日は寒い。春とは言えど、長野県は五月あたりにならないと寒さは消えない。まあ、そういう環境にはもう慣れているので、今はそんなに気にならないが。殺風景な田んぼの風景は、もはや長野県ののっぺりとした特有の雰囲気で輝いて見える。
「亜美ー。おはよー」
朝の住宅街に、自分の名前が響いた。通学バックの持ち手を握りしめ、亜美は横に目を向けた。
「ああ、未来。おはよう」
「なんか、今日寒いねー」
「確かに」
ストレートボブのサイドに、ひょっこりと編み込みが施されている。和という言葉がよく似合う彼女は、白井未来という。ちなみに「未来」と書いて「みく」と読むので、そこは間違えないでいただきたいところである。これ以上肩が丸まってもらっては困る。未来とは幼稚園からの仲で家も近く、俗にいう幼馴染というものだ。そう思うとなんだか照れ臭くなってきた。深い関係のような気がして。
住宅街を抜けると、辺りはほんの少し活気づく。松本市街地の朝は、通勤・通学ラッシュで酷く込み合う。まあ、それは平日ならではだ。休日は、その数はいささか少ない。その上、制服を着ている学生など亜美と未来くらいだ。交差点を渡ると、その先にヒマラヤ杉で繁茂する大きな公園が見えてくる。癒し系の公園、あがたの森公園だ。この公園は、旧制高等学校記念館、多目的広場、遊びの広場と分かれており、小さい頃はよく遊びに行っていた。ここには鳩がたくさんいる上、池には鯉もたくさんいるので、行くときは食パンを一斤買っていくといいと祖母に言われたことがある。時々フリーマーケットも開催しているので、結構地元の人に愛されている公園だ。
そんな公園際の道に沿って歩けば、県ノ坂中学校は見えてくる。ここ、県ノ坂中学校は創立80年を迎える、そこそこの伝統校だ。だが、そういわれてもいまいち実感は湧かない。とはいえ全校生徒は八百人を超えており、他校からは『長野県のマンモス中学校』と揶揄されていたりする。そんな中学校に通い始めてから既に一か月弱。亜美は吹奏楽部に入り、それなりに現実を目の当たりにしていた。
「はあ、今日も部活かー。先輩に見捨てられないように頑張る」
「未来頑張ってるから大丈夫だよ。先輩たちもちゃんと知ってるだろうし」
「うーん、それは亜美だから言えるんだろうね。先輩たちも一目置いてるしさー」
そっか、と亜美は言葉を濁した。なんだか、レベルの高い人々にそういわれるのは照れ臭い。まあ、今日もそのレベルの高い人たちにしごかれるのだから、少し萎えた気がしなくもない。
やや長い階段をのぼり、校門抜ける。すると、すぐ近くに教訓の彫られた大きな石碑が見える。この石碑はかなり古いものらしく、その証拠に、文字のくぼみにはみっちりと苔が生していた。舞い散る花びらを横目に、校内の桜並木を進む。入学式当初は咲いていなかった桜も、ようやく花を咲かせたようだ。春の匂いをたっぷり含んだこの風を、我ながら気に入っていた。——と、風に乗ってかすかな音が聞こえてきた。美しいもの以外をすべて剥ぎ落とした、甘美で透き通った音色。遠くから吹いているはずなのに、その音の主はすぐに分かった。
「先輩来るの早いなあ」
未来が偶然にも亜美の思っていたことを代弁してくれた。きっと、未来もこの音は誰のなのか分かっている。
桜並木を抜けると視界は一気に広がる。ロータリーに佇む、花を着飾った枝垂桜。この枝垂桜は開校当時からあるらしく、想像するにかなりの老樹だろう。どっしりと根を張った枝垂桜は確かに見た目はいいのだけれど、車からの見通しは最悪かもしれない。まあ、亜美の知ったこっちゃないが。昇降口は日に当たっていたのかほのかに暖かい。下駄箱から上履きを取り出し、それを無造作に床へ置く。コテン、と倒れた上履きを爪先でちょいちょいと立て直し、そのまま上履きの奥へ爪先を押し入れる。人差し指で靴の踵をひっかけ、足を靴の中に収めた。
木造の廊下を進んでいくと、桜並木で聞こえてこなかった音色が聞こえてきた。二人分の足音に紛れて、低音がわずかに響いている。
「バスクラの音。部長か」
自然と言葉が漏れ、亜美は思わず口をふさいだ。練習を邪魔してしまった気分になったからだ。ちらりと未来を見ると、見てしまったといわんばかりにニッと微笑んだ。そっと上履きを踏むと、未来は数歩歩いてからやり返してきた。意外とノリがいい。
「やっぱり、五幹の人達って来るの早いよねー」
「うん、そう思う」
未来の言葉に、亜美はふんふんとうなずいた。ちなみに五幹とは五役幹部の略で、部長・副部長二名・指導係二名で構成されている。部長はその名の通り部のまとめ役、副部長は部長補佐と経営で分かれており、指導係は初心者の指導を行っている。音楽室の中からはバスクラリネットの音が途切れなく響いており、扉を開けるのを憚られた。未来と目を見合わせ、亜美は気まずくはにかんだ。
すると突如後ろからけたたましい足音が響いた。なんだ、この騒音。振り向いてみると二人の女子生徒がこちらに向かって早足で歩いてきている。
「おっはよーさん!お二人さん!」
「置いてくとかひどいよー?」
ああ、やっぱこの子らかと亜美は内心でほっとした。神尾楓と木口華子。吹奏楽に入ってから知り合った子たちで、彼女たちとはパートが同じだ。
鎖骨に触れる程度のミディアムヘアが特徴的な楓は、とても明るい性格をしている。なんというか、ムードメーカー気質だ。毛量の多い髪をポニーテールでまとめた華子は、楓の逆で少し控えめな性格をしている。本当に少しだが。
楓はコテンと首を傾げると音楽室の扉を指さした。その意図を理解するのに少々時間がかかった。応答に困っていると、華子が呆れ顔で楓の肩をたたいた。華子と楓が見つめ合い、何とも言えない空気になった。朝日が差してきて、なんだか眩しい。すると突然楓が「ああ!」と飛び跳ね、くるりと踵を返した。その動きに華子はうなずいている。どうやらこの二人はテレパシーが使えるようだ。楓は音楽室の扉に手をかけると、勢い良く右にスライドさせた。行動力の塊だ、と亜美は漠然と思う。
「おはよーございます!」
「おはようございます」
楓の続けざまに挨拶をした華子にやや引きながら、亜美と未来は控えめに挨拶を返す。音楽室の中にいた先輩部員たちはその声の大きさに驚いたのか、びくりと身を震わせたのが見えた。
「ああ、おはよう」
やはり部長がいた。バスクラリネット担当の轟純良こと、轟部長。黒縁眼鏡に清潔感を覚える短髪が特徴的な男子生徒だ。華子いわく、轟部長は眼鏡を取ったらイケメンなのでは?と専ら言われているらしい。まあ、定かではないことは間違いない。副部長といるところを見るに、今後の予定を確認していたのだろう。さっきの音は暇つぶしだろうか。
ふと、ぐるりと音楽室を見渡してみた。だが、校舎から聞こえてきた音色を奏でる生徒は音楽室にはいない。どうやら別の場所で練習しているらしい。
「佐藤さん、練習しないの?」
副部長に声をかけられ、亜美はハッとした。未来たちを見てみると既に楽器の準備を始めていた。立ち尽くしていたと思うと恥ずかしさが込み上げてきた。慌てて亜美は最前列に座った。やや中心に近い、下手でも上手くもない生徒が座るポジションだ。膝の上に楽器ケースを乗せ、ケースの蓋をそっと開く。分解された銀色の横笛。この楽器の名をフルートという。フルートというと、銀色の筒にたくさんのキーを備えた横笛を指すが、昔は笛全般だったという。ルネサンス音楽からバロック音楽の時代のフルートというと、リコーダーと呼ばれる縦笛を指していた。ちなみに、現在のフルートの前身楽器である横笛は、「トラヴェルソ(横向きの)」という修飾語を付けて「フラウト・トラヴェルソ」と呼ばれていたらしい。ところが、17世紀後半のフランス宮廷で、ジャック=マルタン・オトテールとその一族が改良した横笛フルートが高い人気を博した。その後ヨーロッパにも広まったため、表現力に劣る縦笛は次第に廃れ、フルートといえば横笛を指すようになったのだ。
ざっとフルートの歴史はこんなものだ。いつからか、この知識が亜美の一部となっていた。頭部管をケースから取り出し、リッププレートを下唇に当てる。軽く口を動かし息を吹き込む。ぽー、という無機質な音が音楽室に響いた。口の筋肉がほぐれたのを確認し、主管と足部管を組み立て、頭部管を差し込めばフルートの完成だ。ちらりと三人のほうを見てみると、フルートを慣れない手つきで組み立てていた。彼女たちは初心者だ。亜美は小学校からずっとフルートをやっていたが、彼女たちは違う楽器を担当していた。まあ、楽譜はまあまあ読めるらしいので、あとは感覚をたたきこむしかないだろう。よし、吹こう。肩幅程度に足を開き、楽器に息を吹き込んだ。すると同時に音楽室の扉が開いた。思わず亜美はそちらへ視線を向けた。
「おはようございまーす」
「おはよう」
その声を聞き、亜美たちは即座に挨拶を返す。フルート担当の飯島小春と、ピッコロ担当の本郷すすきだ。つまり、パートの先輩である。ちなみに小春は「こは」、すすきは「つきみ」というあだ名がついている。この部では、入部者全員にあだ名がつけられるのだ。
「って、四人とも来るの早いね。練習熱心なのは感心感心!」
すすきが丸縁の眼鏡をくいと上げて腕を振り下ろす。この行動の意味は、未だに知らない。小春は知っているらしいのだが、そこまで知りたい事実でもない。すすきの称賛に楓がすぐさま「ありがとうございます」と満面の笑みを浮かべる。その表情に小春が眩しそうに目を細め、近くの窓をガラ、と開けた。やわらかい風が室内に吹き込んでくる。小春は窓の桟に腕を置くと、東校舎の方をじっと見ていた。どこか遠くから、先ほど聞こえてきた音が聞こえる。
「ま、あの子は来るの早すぎだけどね」
揶揄するように告げられた言葉に、すすきはふんふんとうなずく。まあそうか、と時計を一瞥した。今はちょうど七時半を過ぎたところで、亜美たちが来たのは七時ごろだ。そうなると、五幹や音の主は六時代から来ていることになる。よほど早起きなのか、それとも家がとてつもなく近いのか。あるいは両者なのか。
すると、ロングトーンを吹いていた華子が楽器を下ろし、窓の外へ目を向けた。
「島先輩のほうが、よっぽど練習熱心だと思います」
「そう、島先輩は恐らく努力家!」
この二人も分かっていたのか、と内心思ったが決して悪口ではない。
島先輩。その言葉に亜美ははくりと息をのむ。我らフルートパートの絶対的エース。実力は計り知れない。そのフルートの音色は、本当に濁りがない。まるで研磨された宝石のように、キラキラとしていて透き通っている音。そんな音に、憧れる後輩も少なくはない。
だが、亜美はその先輩のことを去年から知っていた。去年の八月に行われた、全日本吹奏楽コンクール県大会。
その時の演奏を、恐らく亜美が忘れることはない。これからも、ずっと。
なんだか、今日は寒い。春とは言えど、長野県は五月あたりにならないと寒さは消えない。まあ、そういう環境にはもう慣れているので、今はそんなに気にならないが。殺風景な田んぼの風景は、もはや長野県ののっぺりとした特有の雰囲気で輝いて見える。
「亜美ー。おはよー」
朝の住宅街に、自分の名前が響いた。通学バックの持ち手を握りしめ、亜美は横に目を向けた。
「ああ、未来。おはよう」
「なんか、今日寒いねー」
「確かに」
ストレートボブのサイドに、ひょっこりと編み込みが施されている。和という言葉がよく似合う彼女は、白井未来という。ちなみに「未来」と書いて「みく」と読むので、そこは間違えないでいただきたいところである。これ以上肩が丸まってもらっては困る。未来とは幼稚園からの仲で家も近く、俗にいう幼馴染というものだ。そう思うとなんだか照れ臭くなってきた。深い関係のような気がして。
住宅街を抜けると、辺りはほんの少し活気づく。松本市街地の朝は、通勤・通学ラッシュで酷く込み合う。まあ、それは平日ならではだ。休日は、その数はいささか少ない。その上、制服を着ている学生など亜美と未来くらいだ。交差点を渡ると、その先にヒマラヤ杉で繁茂する大きな公園が見えてくる。癒し系の公園、あがたの森公園だ。この公園は、旧制高等学校記念館、多目的広場、遊びの広場と分かれており、小さい頃はよく遊びに行っていた。ここには鳩がたくさんいる上、池には鯉もたくさんいるので、行くときは食パンを一斤買っていくといいと祖母に言われたことがある。時々フリーマーケットも開催しているので、結構地元の人に愛されている公園だ。
そんな公園際の道に沿って歩けば、県ノ坂中学校は見えてくる。ここ、県ノ坂中学校は創立80年を迎える、そこそこの伝統校だ。だが、そういわれてもいまいち実感は湧かない。とはいえ全校生徒は八百人を超えており、他校からは『長野県のマンモス中学校』と揶揄されていたりする。そんな中学校に通い始めてから既に一か月弱。亜美は吹奏楽部に入り、それなりに現実を目の当たりにしていた。
「はあ、今日も部活かー。先輩に見捨てられないように頑張る」
「未来頑張ってるから大丈夫だよ。先輩たちもちゃんと知ってるだろうし」
「うーん、それは亜美だから言えるんだろうね。先輩たちも一目置いてるしさー」
そっか、と亜美は言葉を濁した。なんだか、レベルの高い人々にそういわれるのは照れ臭い。まあ、今日もそのレベルの高い人たちにしごかれるのだから、少し萎えた気がしなくもない。
やや長い階段をのぼり、校門抜ける。すると、すぐ近くに教訓の彫られた大きな石碑が見える。この石碑はかなり古いものらしく、その証拠に、文字のくぼみにはみっちりと苔が生していた。舞い散る花びらを横目に、校内の桜並木を進む。入学式当初は咲いていなかった桜も、ようやく花を咲かせたようだ。春の匂いをたっぷり含んだこの風を、我ながら気に入っていた。——と、風に乗ってかすかな音が聞こえてきた。美しいもの以外をすべて剥ぎ落とした、甘美で透き通った音色。遠くから吹いているはずなのに、その音の主はすぐに分かった。
「先輩来るの早いなあ」
未来が偶然にも亜美の思っていたことを代弁してくれた。きっと、未来もこの音は誰のなのか分かっている。
桜並木を抜けると視界は一気に広がる。ロータリーに佇む、花を着飾った枝垂桜。この枝垂桜は開校当時からあるらしく、想像するにかなりの老樹だろう。どっしりと根を張った枝垂桜は確かに見た目はいいのだけれど、車からの見通しは最悪かもしれない。まあ、亜美の知ったこっちゃないが。昇降口は日に当たっていたのかほのかに暖かい。下駄箱から上履きを取り出し、それを無造作に床へ置く。コテン、と倒れた上履きを爪先でちょいちょいと立て直し、そのまま上履きの奥へ爪先を押し入れる。人差し指で靴の踵をひっかけ、足を靴の中に収めた。
木造の廊下を進んでいくと、桜並木で聞こえてこなかった音色が聞こえてきた。二人分の足音に紛れて、低音がわずかに響いている。
「バスクラの音。部長か」
自然と言葉が漏れ、亜美は思わず口をふさいだ。練習を邪魔してしまった気分になったからだ。ちらりと未来を見ると、見てしまったといわんばかりにニッと微笑んだ。そっと上履きを踏むと、未来は数歩歩いてからやり返してきた。意外とノリがいい。
「やっぱり、五幹の人達って来るの早いよねー」
「うん、そう思う」
未来の言葉に、亜美はふんふんとうなずいた。ちなみに五幹とは五役幹部の略で、部長・副部長二名・指導係二名で構成されている。部長はその名の通り部のまとめ役、副部長は部長補佐と経営で分かれており、指導係は初心者の指導を行っている。音楽室の中からはバスクラリネットの音が途切れなく響いており、扉を開けるのを憚られた。未来と目を見合わせ、亜美は気まずくはにかんだ。
すると突如後ろからけたたましい足音が響いた。なんだ、この騒音。振り向いてみると二人の女子生徒がこちらに向かって早足で歩いてきている。
「おっはよーさん!お二人さん!」
「置いてくとかひどいよー?」
ああ、やっぱこの子らかと亜美は内心でほっとした。神尾楓と木口華子。吹奏楽に入ってから知り合った子たちで、彼女たちとはパートが同じだ。
鎖骨に触れる程度のミディアムヘアが特徴的な楓は、とても明るい性格をしている。なんというか、ムードメーカー気質だ。毛量の多い髪をポニーテールでまとめた華子は、楓の逆で少し控えめな性格をしている。本当に少しだが。
楓はコテンと首を傾げると音楽室の扉を指さした。その意図を理解するのに少々時間がかかった。応答に困っていると、華子が呆れ顔で楓の肩をたたいた。華子と楓が見つめ合い、何とも言えない空気になった。朝日が差してきて、なんだか眩しい。すると突然楓が「ああ!」と飛び跳ね、くるりと踵を返した。その動きに華子はうなずいている。どうやらこの二人はテレパシーが使えるようだ。楓は音楽室の扉に手をかけると、勢い良く右にスライドさせた。行動力の塊だ、と亜美は漠然と思う。
「おはよーございます!」
「おはようございます」
楓の続けざまに挨拶をした華子にやや引きながら、亜美と未来は控えめに挨拶を返す。音楽室の中にいた先輩部員たちはその声の大きさに驚いたのか、びくりと身を震わせたのが見えた。
「ああ、おはよう」
やはり部長がいた。バスクラリネット担当の轟純良こと、轟部長。黒縁眼鏡に清潔感を覚える短髪が特徴的な男子生徒だ。華子いわく、轟部長は眼鏡を取ったらイケメンなのでは?と専ら言われているらしい。まあ、定かではないことは間違いない。副部長といるところを見るに、今後の予定を確認していたのだろう。さっきの音は暇つぶしだろうか。
ふと、ぐるりと音楽室を見渡してみた。だが、校舎から聞こえてきた音色を奏でる生徒は音楽室にはいない。どうやら別の場所で練習しているらしい。
「佐藤さん、練習しないの?」
副部長に声をかけられ、亜美はハッとした。未来たちを見てみると既に楽器の準備を始めていた。立ち尽くしていたと思うと恥ずかしさが込み上げてきた。慌てて亜美は最前列に座った。やや中心に近い、下手でも上手くもない生徒が座るポジションだ。膝の上に楽器ケースを乗せ、ケースの蓋をそっと開く。分解された銀色の横笛。この楽器の名をフルートという。フルートというと、銀色の筒にたくさんのキーを備えた横笛を指すが、昔は笛全般だったという。ルネサンス音楽からバロック音楽の時代のフルートというと、リコーダーと呼ばれる縦笛を指していた。ちなみに、現在のフルートの前身楽器である横笛は、「トラヴェルソ(横向きの)」という修飾語を付けて「フラウト・トラヴェルソ」と呼ばれていたらしい。ところが、17世紀後半のフランス宮廷で、ジャック=マルタン・オトテールとその一族が改良した横笛フルートが高い人気を博した。その後ヨーロッパにも広まったため、表現力に劣る縦笛は次第に廃れ、フルートといえば横笛を指すようになったのだ。
ざっとフルートの歴史はこんなものだ。いつからか、この知識が亜美の一部となっていた。頭部管をケースから取り出し、リッププレートを下唇に当てる。軽く口を動かし息を吹き込む。ぽー、という無機質な音が音楽室に響いた。口の筋肉がほぐれたのを確認し、主管と足部管を組み立て、頭部管を差し込めばフルートの完成だ。ちらりと三人のほうを見てみると、フルートを慣れない手つきで組み立てていた。彼女たちは初心者だ。亜美は小学校からずっとフルートをやっていたが、彼女たちは違う楽器を担当していた。まあ、楽譜はまあまあ読めるらしいので、あとは感覚をたたきこむしかないだろう。よし、吹こう。肩幅程度に足を開き、楽器に息を吹き込んだ。すると同時に音楽室の扉が開いた。思わず亜美はそちらへ視線を向けた。
「おはようございまーす」
「おはよう」
その声を聞き、亜美たちは即座に挨拶を返す。フルート担当の飯島小春と、ピッコロ担当の本郷すすきだ。つまり、パートの先輩である。ちなみに小春は「こは」、すすきは「つきみ」というあだ名がついている。この部では、入部者全員にあだ名がつけられるのだ。
「って、四人とも来るの早いね。練習熱心なのは感心感心!」
すすきが丸縁の眼鏡をくいと上げて腕を振り下ろす。この行動の意味は、未だに知らない。小春は知っているらしいのだが、そこまで知りたい事実でもない。すすきの称賛に楓がすぐさま「ありがとうございます」と満面の笑みを浮かべる。その表情に小春が眩しそうに目を細め、近くの窓をガラ、と開けた。やわらかい風が室内に吹き込んでくる。小春は窓の桟に腕を置くと、東校舎の方をじっと見ていた。どこか遠くから、先ほど聞こえてきた音が聞こえる。
「ま、あの子は来るの早すぎだけどね」
揶揄するように告げられた言葉に、すすきはふんふんとうなずく。まあそうか、と時計を一瞥した。今はちょうど七時半を過ぎたところで、亜美たちが来たのは七時ごろだ。そうなると、五幹や音の主は六時代から来ていることになる。よほど早起きなのか、それとも家がとてつもなく近いのか。あるいは両者なのか。
すると、ロングトーンを吹いていた華子が楽器を下ろし、窓の外へ目を向けた。
「島先輩のほうが、よっぽど練習熱心だと思います」
「そう、島先輩は恐らく努力家!」
この二人も分かっていたのか、と内心思ったが決して悪口ではない。
島先輩。その言葉に亜美ははくりと息をのむ。我らフルートパートの絶対的エース。実力は計り知れない。そのフルートの音色は、本当に濁りがない。まるで研磨された宝石のように、キラキラとしていて透き通っている音。そんな音に、憧れる後輩も少なくはない。
だが、亜美はその先輩のことを去年から知っていた。去年の八月に行われた、全日本吹奏楽コンクール県大会。
その時の演奏を、恐らく亜美が忘れることはない。これからも、ずっと。
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