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肆夜
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そんなことを考えている間に、男は軽々とイザベラを抱き上げる。彼の首に腕を回した魔女に、何をしてると言わんばかりの目を向けられた。
「早くそこを退け。扉の前にいられると、わたしも出られないだろう」
「あっ、すみません」
急かされるまま寝室を後にし、いつも通り過ぎるばかりだった居間に戻る。雑然とした部屋の中で、やはりどうすればいいかわからず右往左往すれば、「その辺に座れ」と投げやりに言われた。
イザベラは男に抱えられたまま、ひとつの椅子に座らされる。他のよりも上等なそれは、イザベラ専用なのかもしれない。アルバートは少し悩み、彼女とは斜め向かいの椅子に腰掛けた。
「失礼ですが、魔女様は足が悪くいらっしゃるのですか?」
「は?」
「いつもベッドにいらっしゃいますし、今も彼に抱えられて移動していましたから」
ちらりと男を見ながら言う。彼は居間と続きになっているキッチンでお湯をわかしていた。こちらに背を向けながらも、男がアルバートを警戒していることは伝わる。
アルバートの問いに、イザベラは瞳を細めた。頬杖をついたまま、ほんの少しの不快を混ぜて睨んでくる。
「失礼だという前置きさえすれば、無遠慮に他人の事情へ踏み込むことも許されると思っているのか?」
「申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」
「まあ、別に構わんがな。それより魔女様というのは堅苦しすぎる。ウィルソン殿なら、わたしのことを名で呼んでも構わんぞ」
その言葉には何故か、男がピクリと反応した。刺々しい視線を向けられ、息苦しくなる。イザベラは気にした様子もない。今日ばかりは心底早く帰りたいと思った。
「ありがたいお言葉ですが、あなたは偉大なる北の魔女です。そのような方をお名前でお呼びするなどできません」
「ああもう、堅苦しい堅苦しい! わたしが気楽にしろと言っているんだからそうしろ!」
「ですが……」
「ですがもクソもあるか。わたしのことはイザベラで構わん。ほら、早く呼んでみろ、ウィルソン」
「……では、イザベラ様」
渋々口の中で転がす。馴染み悪い言葉に顔を歪めてしまった。だがイザベラはまだ不満そうにジト目で見てくる。
「イザベラ」
「は?」
「様もいらん。イザベラでいい」
「それはさすがに……」
「ウィルソン」
「……かしこまりました、イザベラ」
敬称を取り除いただけで苦味が増す。酷い顔をするアルバートを、イザベラはひたすら楽しげに見つめてきた。その目は面白いおもちゃを見つけた子供同然であり、相変わらず性格が悪い魔女だと考える。
「ところで、最近の国王はどんな様子だ」
「陛下ですか?」
「お体が悪いのだろう。あまり先は長くないのか?」
「……この数日は体調も良さそうで、本日もシャルロット王太子殿下とチェスをされていたそうです」
「ふうん、死にかけのジジイかと思ったが、子供と遊ぶだけの体力はあるんだな。まだ当分はくたばらなそうか」
棘が含まれる言い方のわりに、イザベラの瞳には安堵の色が浮いていた。
それでも不敬な言動に眉根を寄せる。素直に彼女の言葉を咎めれば、呆れた様子で溜め息をつかれた。
「おまえはいちいち口うるさいな。どうせ師団でも面倒くさい奴だと思われているんだろう」
「私は副団長ですから、部下の手本となるように振る舞う必要があります。それに部下が命令にさえ従うならば、慕われる必要もありません」
「はは、煙たがられているのは否定しないのか」
喉の奥でクツクツと笑われる。そこでようやく、最初に聞いた質問をはぐらかされていることに気がついた。
だが会話はずいぶんと流れてしまっているし、今さら問いただすことも不自然だ。なによりイザベラも触れて欲しくないから、こうしてはぐらかしたのかもしれない。
しばらくして、男がティーカップを二つ持ってきた。
心を落ち着かせる香りに、すうと肩の力が抜ける。無意識のまま肩肘を張っていたらしい。それもこれも、魔女と仲良くテーブルにつくという状況のせいだろう。
男はお茶を運び終えると、当然のようにイザベラの隣に座る。二人が並べば、ことさらよく似た顔立ちに目を奪われた。イザベラを男に、男を女にと性別を逆転させれば、こんな顔が出来上がるはずだ。
「なんだ、ジロジロと見てきて」
イザベラが鼻を鳴らしながら言った。
誤魔化すつもりでカップに手を伸ばす。それでも二人を凝視してしまった事実は消えないのだから、居心地の悪い思いで喉をうるおした。
「いや、お二人は姉弟なのかなと思いまして」
「そう見えるか?」
「はい。よくお顔立ちが似ていらっしゃいますから」
疑問形に疑問形で返されたが、すぐさま返事をする。本心からでた言葉に、男がさも当然だという顔をした。
「わたしとロウは兄弟でなければ、血が繋がった親族でもない。先程も言った通り、こいつはわたしだけの男だ」
「で、ですからそのような不埒な言い方はいけません……!」
「ふふ、ではどのように表現すべきか困ってしまうな。ロウ、おまえはどう思う?」
イザベラは楽しそうに隣を見つめた。その視線に、男が大きな溜め息をつく。
「俺はお前の男で、ペットで、忠実な従僕だ」
「はは! どうだ、ウィルソン! よく躾ができているだろう!」
なにが楽しいのか、瞳をキラキラとさせながら見つめられる。だがアルバートは、ただ愕然とすることしかできなかった。
こいつはどうして、人をモノ扱いできるのか。
どうしてペットなどと自称させ、躾などとのたまえるのか!
たまらずに拳を握りしめる。怒りで震える拳は、テーブルの下に隠れているせいでイザベラの目にはうつっていないだろう。だがアルバートの怒りを感じ取った男が、一挙一動を監視してくる。これでもなおイザベラを守ろうとするその仕草に、とうとう我慢の糸が切れてしまった。
「あなたは本当に性根の腐った魔女だな!」
そう叫びながら立ち上がれば、イザベラの肩がビクリと跳ねた。怯えたように縮こまる彼女から、サアと血の気が失せていく。
その様子に一瞬臆してしまう。
流石に怒鳴るべきではなかったと反省したが、腹のうちでのたまう怒りは消えてくれなかった。
男にすがりつき、恐怖で揺れる瞳で見つめられる。アルバートは舌打ちをこぼすと、すぐさま踵を返した。こんな不快な場所、これ以上一秒たりともいたくない。
「ご馳走様でした。明日もよろしくお願いします」
「あっ……ま、待て、ウィルソン!」
大きな声に呼び止められるが、振り返らぬまま家を出る。そうしなければ、イザベラの胸ぐらを掴み説教をしてしまいそうだった。
大股でズカズカと進み、池のほとりを過ぎたところで、背後に獣の気配を感じた。魔女のすみか近くで獣と出くわしたことはなく、驚きながらも振り返る。腰の剣を抜きかけたところで、そこに先程の男が立っていることに気づいた。
薄闇の中で、琥珀色の瞳がギラギラと輝いている。アルバートを責める色をした双眸に見つめられ、ゴクリと喉が鳴った。
「さっきの言葉を撤回しろ」
「……それは彼女を、性根の腐った魔女だと表現したことですか。ですが魔女を魔女だと言うことのなにが間違いだと言うんです」
「人間は獣を飼えば、それをペットと呼ぶんだろう。だったらイザベラはなにも間違ってない」
どうにも会話が成り立たず、ことさら苛立ちがつのっていく。この男がイザベラをかばうことも、よけいにアルバートをイラつかせた。
無言のまま睨み合っていれば、男が視線をあげる。空を見上げる彼につられ、チラリとだけ天を仰いだ。
とっくに夜中を過ぎた空では、明朗に輝く月が頭上高くのぼっている。今宵は満月であったから、常より星の輝きは少なかった。
何故男は空を見上げたのかと、不思議に思いながらも視線を戻す。そうしてすぐに目を丸めた。
男はいつの間にか消えていたのだ。
代わりとばかりに、男がいた場所にあの狼がいる。黒々とした毛並みを風にたなびかせ、琥珀色の双眸でアルバートを睨んでいた。
どうしてだろうか。
一瞬、狼とあの男が重なって見える。
「イザベラは、俺の飼い主だ」
狼が、男と同じ声で、人語を放つ。
異質なその光景にゾクリと背筋が粟だった。あの男は狼のロウが化けていたのだと、合点がいく。
ここは何百年と生きる魔女のすみかで、狼が使い魔だと言うならなにもおかしなことはない。異常であることが、人ならざるものの普通であるのだから!
「イザベラを傷つけることは許さない。イザベラを傷つける奴は、俺が罰を与える」
唸り声とともにそう言われた。獣からは殺気が溢れている。数秒後には、喉元を噛み切られかねない緊張感があった。
だがアルバートは剣に触れていた手を離す。しっかりと両足を踏みしめ、腹の底から大声を出した。
「あなたが獣だからと、家族をペットなどと呼んでいい道理はない!」
「かぞ、く……?」
ロウが間抜けな声をだす。その言葉にアルバートは胸を張った。
「共に暮らし、語らい、思いあっているなら、それは家族と呼ばれる存在でしょう! それなのに躾や従僕などと侮辱するなど、許されることではありません!」
「……何も知らないくせに、善人面で口を挟むな」
「何故魔女をかばうんですか。あなただって大切な家族に見下されれば傷つくはずでしょう」
「イザベラは人間の心がわからないだけだ。俺はあいつの不器用さを理解しているし、従僕として飼われている立場にも満足している。俺がムカつくのは、自己満足で俺達の関係を貶すお前にだ」
犬歯をむいて唸るロウは、今にも飛びかかってこんばかりだった。
アルバートは短く考え込むと、「……そうですか」と呟く。ロウの殺気が肌をきりつけた。
「貴君の言う通りであれば、確かに出過ぎた真似をしました。申し訳ありません」
「……は?」
「それでもやはり、魔女様の言動は許されることではありません。彼女が人の心がわからないと言うなら、なおさら怒鳴り散らすだけではいかなかった。改めて謝罪と、彼女の言動のなにがいけなかったか話すことを許してはもらえないでしょうか」
心の底から嘆願するが、中々返事が返ってこない。「ロウ殿?」と促せば、大きな溜め息をつかれた。
「イザベラには俺が話しておく。今夜はもう帰れ」
「ですが魔女様に失礼なことを言ったまま帰るわけにはいきません」
「お前と話していると疲れる。イザベラと話したいなら明日にしろ」
そう言うロウからは、確かに疲労の色が滲んでいた。それも自分のせいかと思えば、食い下がるわけにもいかなかった。
仕方なく頷けば、物言いたげな目に見つめられる。もう殺気は感じられなくなっていた。
「お前は良い奴だな。まともな環境で育ったんだろう」
脈絡ない言葉に、どういう意味かと戸惑う。
ロウは振り返ると、のっそりとした動きで家に戻っていった。間際、風に紛れてか細い怨嗟が聞こえる。
「それでもお前は、人間なんだろうな」
それはどこか、諦めと絶望にも似た声色をしていた。
アルバートはなにも言えないまま、ロウを見送った。頭上の月に薄い雲がかかる。地面にうつしだされる自分の影が、小さく揺れた。
「早くそこを退け。扉の前にいられると、わたしも出られないだろう」
「あっ、すみません」
急かされるまま寝室を後にし、いつも通り過ぎるばかりだった居間に戻る。雑然とした部屋の中で、やはりどうすればいいかわからず右往左往すれば、「その辺に座れ」と投げやりに言われた。
イザベラは男に抱えられたまま、ひとつの椅子に座らされる。他のよりも上等なそれは、イザベラ専用なのかもしれない。アルバートは少し悩み、彼女とは斜め向かいの椅子に腰掛けた。
「失礼ですが、魔女様は足が悪くいらっしゃるのですか?」
「は?」
「いつもベッドにいらっしゃいますし、今も彼に抱えられて移動していましたから」
ちらりと男を見ながら言う。彼は居間と続きになっているキッチンでお湯をわかしていた。こちらに背を向けながらも、男がアルバートを警戒していることは伝わる。
アルバートの問いに、イザベラは瞳を細めた。頬杖をついたまま、ほんの少しの不快を混ぜて睨んでくる。
「失礼だという前置きさえすれば、無遠慮に他人の事情へ踏み込むことも許されると思っているのか?」
「申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」
「まあ、別に構わんがな。それより魔女様というのは堅苦しすぎる。ウィルソン殿なら、わたしのことを名で呼んでも構わんぞ」
その言葉には何故か、男がピクリと反応した。刺々しい視線を向けられ、息苦しくなる。イザベラは気にした様子もない。今日ばかりは心底早く帰りたいと思った。
「ありがたいお言葉ですが、あなたは偉大なる北の魔女です。そのような方をお名前でお呼びするなどできません」
「ああもう、堅苦しい堅苦しい! わたしが気楽にしろと言っているんだからそうしろ!」
「ですが……」
「ですがもクソもあるか。わたしのことはイザベラで構わん。ほら、早く呼んでみろ、ウィルソン」
「……では、イザベラ様」
渋々口の中で転がす。馴染み悪い言葉に顔を歪めてしまった。だがイザベラはまだ不満そうにジト目で見てくる。
「イザベラ」
「は?」
「様もいらん。イザベラでいい」
「それはさすがに……」
「ウィルソン」
「……かしこまりました、イザベラ」
敬称を取り除いただけで苦味が増す。酷い顔をするアルバートを、イザベラはひたすら楽しげに見つめてきた。その目は面白いおもちゃを見つけた子供同然であり、相変わらず性格が悪い魔女だと考える。
「ところで、最近の国王はどんな様子だ」
「陛下ですか?」
「お体が悪いのだろう。あまり先は長くないのか?」
「……この数日は体調も良さそうで、本日もシャルロット王太子殿下とチェスをされていたそうです」
「ふうん、死にかけのジジイかと思ったが、子供と遊ぶだけの体力はあるんだな。まだ当分はくたばらなそうか」
棘が含まれる言い方のわりに、イザベラの瞳には安堵の色が浮いていた。
それでも不敬な言動に眉根を寄せる。素直に彼女の言葉を咎めれば、呆れた様子で溜め息をつかれた。
「おまえはいちいち口うるさいな。どうせ師団でも面倒くさい奴だと思われているんだろう」
「私は副団長ですから、部下の手本となるように振る舞う必要があります。それに部下が命令にさえ従うならば、慕われる必要もありません」
「はは、煙たがられているのは否定しないのか」
喉の奥でクツクツと笑われる。そこでようやく、最初に聞いた質問をはぐらかされていることに気がついた。
だが会話はずいぶんと流れてしまっているし、今さら問いただすことも不自然だ。なによりイザベラも触れて欲しくないから、こうしてはぐらかしたのかもしれない。
しばらくして、男がティーカップを二つ持ってきた。
心を落ち着かせる香りに、すうと肩の力が抜ける。無意識のまま肩肘を張っていたらしい。それもこれも、魔女と仲良くテーブルにつくという状況のせいだろう。
男はお茶を運び終えると、当然のようにイザベラの隣に座る。二人が並べば、ことさらよく似た顔立ちに目を奪われた。イザベラを男に、男を女にと性別を逆転させれば、こんな顔が出来上がるはずだ。
「なんだ、ジロジロと見てきて」
イザベラが鼻を鳴らしながら言った。
誤魔化すつもりでカップに手を伸ばす。それでも二人を凝視してしまった事実は消えないのだから、居心地の悪い思いで喉をうるおした。
「いや、お二人は姉弟なのかなと思いまして」
「そう見えるか?」
「はい。よくお顔立ちが似ていらっしゃいますから」
疑問形に疑問形で返されたが、すぐさま返事をする。本心からでた言葉に、男がさも当然だという顔をした。
「わたしとロウは兄弟でなければ、血が繋がった親族でもない。先程も言った通り、こいつはわたしだけの男だ」
「で、ですからそのような不埒な言い方はいけません……!」
「ふふ、ではどのように表現すべきか困ってしまうな。ロウ、おまえはどう思う?」
イザベラは楽しそうに隣を見つめた。その視線に、男が大きな溜め息をつく。
「俺はお前の男で、ペットで、忠実な従僕だ」
「はは! どうだ、ウィルソン! よく躾ができているだろう!」
なにが楽しいのか、瞳をキラキラとさせながら見つめられる。だがアルバートは、ただ愕然とすることしかできなかった。
こいつはどうして、人をモノ扱いできるのか。
どうしてペットなどと自称させ、躾などとのたまえるのか!
たまらずに拳を握りしめる。怒りで震える拳は、テーブルの下に隠れているせいでイザベラの目にはうつっていないだろう。だがアルバートの怒りを感じ取った男が、一挙一動を監視してくる。これでもなおイザベラを守ろうとするその仕草に、とうとう我慢の糸が切れてしまった。
「あなたは本当に性根の腐った魔女だな!」
そう叫びながら立ち上がれば、イザベラの肩がビクリと跳ねた。怯えたように縮こまる彼女から、サアと血の気が失せていく。
その様子に一瞬臆してしまう。
流石に怒鳴るべきではなかったと反省したが、腹のうちでのたまう怒りは消えてくれなかった。
男にすがりつき、恐怖で揺れる瞳で見つめられる。アルバートは舌打ちをこぼすと、すぐさま踵を返した。こんな不快な場所、これ以上一秒たりともいたくない。
「ご馳走様でした。明日もよろしくお願いします」
「あっ……ま、待て、ウィルソン!」
大きな声に呼び止められるが、振り返らぬまま家を出る。そうしなければ、イザベラの胸ぐらを掴み説教をしてしまいそうだった。
大股でズカズカと進み、池のほとりを過ぎたところで、背後に獣の気配を感じた。魔女のすみか近くで獣と出くわしたことはなく、驚きながらも振り返る。腰の剣を抜きかけたところで、そこに先程の男が立っていることに気づいた。
薄闇の中で、琥珀色の瞳がギラギラと輝いている。アルバートを責める色をした双眸に見つめられ、ゴクリと喉が鳴った。
「さっきの言葉を撤回しろ」
「……それは彼女を、性根の腐った魔女だと表現したことですか。ですが魔女を魔女だと言うことのなにが間違いだと言うんです」
「人間は獣を飼えば、それをペットと呼ぶんだろう。だったらイザベラはなにも間違ってない」
どうにも会話が成り立たず、ことさら苛立ちがつのっていく。この男がイザベラをかばうことも、よけいにアルバートをイラつかせた。
無言のまま睨み合っていれば、男が視線をあげる。空を見上げる彼につられ、チラリとだけ天を仰いだ。
とっくに夜中を過ぎた空では、明朗に輝く月が頭上高くのぼっている。今宵は満月であったから、常より星の輝きは少なかった。
何故男は空を見上げたのかと、不思議に思いながらも視線を戻す。そうしてすぐに目を丸めた。
男はいつの間にか消えていたのだ。
代わりとばかりに、男がいた場所にあの狼がいる。黒々とした毛並みを風にたなびかせ、琥珀色の双眸でアルバートを睨んでいた。
どうしてだろうか。
一瞬、狼とあの男が重なって見える。
「イザベラは、俺の飼い主だ」
狼が、男と同じ声で、人語を放つ。
異質なその光景にゾクリと背筋が粟だった。あの男は狼のロウが化けていたのだと、合点がいく。
ここは何百年と生きる魔女のすみかで、狼が使い魔だと言うならなにもおかしなことはない。異常であることが、人ならざるものの普通であるのだから!
「イザベラを傷つけることは許さない。イザベラを傷つける奴は、俺が罰を与える」
唸り声とともにそう言われた。獣からは殺気が溢れている。数秒後には、喉元を噛み切られかねない緊張感があった。
だがアルバートは剣に触れていた手を離す。しっかりと両足を踏みしめ、腹の底から大声を出した。
「あなたが獣だからと、家族をペットなどと呼んでいい道理はない!」
「かぞ、く……?」
ロウが間抜けな声をだす。その言葉にアルバートは胸を張った。
「共に暮らし、語らい、思いあっているなら、それは家族と呼ばれる存在でしょう! それなのに躾や従僕などと侮辱するなど、許されることではありません!」
「……何も知らないくせに、善人面で口を挟むな」
「何故魔女をかばうんですか。あなただって大切な家族に見下されれば傷つくはずでしょう」
「イザベラは人間の心がわからないだけだ。俺はあいつの不器用さを理解しているし、従僕として飼われている立場にも満足している。俺がムカつくのは、自己満足で俺達の関係を貶すお前にだ」
犬歯をむいて唸るロウは、今にも飛びかかってこんばかりだった。
アルバートは短く考え込むと、「……そうですか」と呟く。ロウの殺気が肌をきりつけた。
「貴君の言う通りであれば、確かに出過ぎた真似をしました。申し訳ありません」
「……は?」
「それでもやはり、魔女様の言動は許されることではありません。彼女が人の心がわからないと言うなら、なおさら怒鳴り散らすだけではいかなかった。改めて謝罪と、彼女の言動のなにがいけなかったか話すことを許してはもらえないでしょうか」
心の底から嘆願するが、中々返事が返ってこない。「ロウ殿?」と促せば、大きな溜め息をつかれた。
「イザベラには俺が話しておく。今夜はもう帰れ」
「ですが魔女様に失礼なことを言ったまま帰るわけにはいきません」
「お前と話していると疲れる。イザベラと話したいなら明日にしろ」
そう言うロウからは、確かに疲労の色が滲んでいた。それも自分のせいかと思えば、食い下がるわけにもいかなかった。
仕方なく頷けば、物言いたげな目に見つめられる。もう殺気は感じられなくなっていた。
「お前は良い奴だな。まともな環境で育ったんだろう」
脈絡ない言葉に、どういう意味かと戸惑う。
ロウは振り返ると、のっそりとした動きで家に戻っていった。間際、風に紛れてか細い怨嗟が聞こえる。
「それでもお前は、人間なんだろうな」
それはどこか、諦めと絶望にも似た声色をしていた。
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