【完結】ずっと一緒だった宰相閣下に、純潔より大事なものを持っていかれそうです

雪野原よる

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番外

この椅子……立ち上がれないだと?!

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「そもそもの前提を間違えておりましたな」

 私の背後から、私の耳にそっと言葉を吹き込むように、ユリウスか囁く。

「無理に陛下に座って頂く必要はない。最初から、陛下が二度と椅子から立てないようにしてしまえば良かったのです」

(は?)

 ぎょっとして、全身の毛が逆立った。無理矢理首を巡らせて、すぐ後ろにある彼の顔を仰ぎ見たけれど、彼はこちらを見ていなかった。その目線は群れなす人々の向こう、少し距離を置いて立つ人影に向けられている。

「ユリウス……いい加減にしなさい」

 私は警戒しながら言った。

「いい加減に?」

 気だるげな声が答える。

 宰相って、こんな声を出す人だったかしら……徹底的に無表情なのはいつものことだけれど、いかにもつまらなそうな、全てに倦んだような声音は普段はあまり聞かれなかったものだ。

 その声で、更に私の耳元に寄せて、

「陛下がお案じになるようなことは、何一つございません。私以外の椅子に御心を移されることもない。陛下が私の上から立たれることはもはや無いと思うと……非常に喜ばしいことですな」

 低い声で囁かれ、私はヒッと声を上げそうになって、彼の上から腰を浮かせかけた。しかしどんな仕組みなのか、全く身体が持ち上がらない。磁石でくっつけられ、縫い止められたかのように動かないのだ。

「……」

 冷や汗が流れた。

 これは……

 これは……

 修羅場だわ!!!






(なんでこんな修羅場になったのかしら……どうして)

 確実に魔王が降臨真っ只中の宰相の膝の上に、何かのおまけのようにくっつけられたまま、私は必死に頭を絞って考えていた。

 まず、今は夜会の真っ最中である。場所は蒼湖宮。人工林に囲まれた澄んだ泉に、浮かぶように張り出した外廊、月の光が差し込むように開かれた窓を持つ伽藍。私の曽祖父の代に建てられた離宮なのだけれど、長く荒れ果てていたのを改修して、ようやく、こうしてお披露目の時が巡ってきた。

 そこに諸国の客人を招いて開かれた夜会は、この国がすっかり国力を取り戻し、私の統治が揺るぎないものとなっているのを内外に見せつける機会になる、はずだった。

(はずだったんだけど……)

 見せつけているのはいつものように椅子(宰相)。どうしてこうなった?

(いや、それ以前に)

 怒っていたのは私の方だったはずだ。

 それも、つい二十分前かそこらの話なのだけれど。美々しく贅を凝らしたドレスを纏い、今夜の主役となるべく離宮に現れた私は、人影もまばらな回廊の片隅に佇む二人を発見した。
 見飽きるほど見た二人。宰相とレルゲイト将軍だ。

「いや、おかしいだろう?」

 将軍の声がする。特に声をひそめるでもなく、ユリウスが答えるのが聞こえた。

「おかしい? ならば卿の鈍い頭に叩き込めるように、分かりやすい事例を出して教えてやろう。卿は最近、ご息女のために仔兎を一羽、生け捕りにして持ち帰っていたな?」
「ああ? そうだな、うちの娘は生き物が好きでな」
「料理の材料は鮮度の良さが重要ということか。いい趣味だな」
「そういう話じゃないだろうが。わざと言ってるな、こいつは!」
「脱線したな。ともあれ、想像してみろ。自分の膝の上に乗って、ふるふる震えている可哀想な兎と、すっかり気を許してくつろいでいる兎と、お前ならどちらを選ぶ」
「ええ? 何言ってるんだお前は……まあ、兎が幸せな方がいいんじゃないのか」
「私の意見は違うな。どちらもそれ相応の良さがある、だ」

(……何を言ってるの、あの男は?)

 一国の宰相と将軍が頭を寄せ合って、真剣な顔で話し合っている内容が、兎。

 レルゲイト将軍は常識人として、宰相の軌道修正をしてくれると期待していたのだが……今のところ、宰相の停止装置ストッパーにはなり得ていないようだ。

「陛下がいずれ私という椅子に馴染まれるのは確定している。あの方は身内に甘い。家族全員を一度に失われたこともあって、半ば身内判定の我々に対して、決して冷酷になり得ない。それが問題というわけではないが……実際に私と婚姻を結ばれたら、どうなると思う」
「……いや、何となくお前の言いたいことは分かりかけてきたが……待てよ。つまり、さっき、陛下を可哀想な兎ちゃん呼ばわりしたな?」
「何か問題が?」
「不敬だってこと以外にはないが……俺は今、お前の忠誠心に疑いを抱きかけてるところだ」
「ほう? 私ほど忠義に厚い者はいないはずだが?」
「否定はできん……変態のくせに……。だが、やっぱり、忠誠を誓う相手を兎呼ばわりするお前って何なんだ。違和感だらけなんだが」
「私には無いな。私の中では問題なく繋がっている」

 堂々と言い切る宰相。渋面を作りながら話の流れに乗せられている将軍。だんだん無の境地に達しつつある私。

(……何なのこれ?)

「ともあれ、そういうことだ。陛下が私に完全に気を許して馴染まれるまで、今の威嚇し怯え震えている陛下を丸ごと、じっくりと堪能させて頂くまでのことだ」
「お前、言い方が何かおかしいぞ」

 レルゲイト将軍は気が抜けた感じで突っ込みを入れたけれど、

(違う、そうじゃない!)

 できればもっと鋭く、痛いところを的確に突くような突っ込みを入れてもらいたい。

「じっくりねっとりとあらゆる角度から鑑賞させて頂くとでも言えば納得するか、卿は」
「悪化させるな!」
「他に言いようがない」
「あるだろう」

 ああ、やっぱり将軍に任せておいては駄目だ。将軍では狂人相手は荷が重い。

 私は深く息を吸い込み、足を踏み出して、

「ユリウス、レルゲイト将軍。貴方がたはこんなところで──」
「女王陛下!」

 傍らから飛び込んできた弾むような声が、私の台詞を途中で遮った。

(ん?)

 気勢を削がれて、私は振り返った。益体もない話に没頭していた二人も、こちらに視線を向けている。私たちの視線の先にいたのは、綺麗な赤髪をした小柄な少年で、ここ一番のおめかしをして来ましたと言わんばかりに綺羅びやかな礼服を纏っていた。

「ジュリオ公子」

 私が呼び掛けると、その目が嬉しそうに輝いた。

 私の従妹で、よく文を交わし合っているイネスの弟。つまり彼は私の従弟で、大陸の端、かなり離れたところにある大公国の第三公子だ。十歳になったばかりの少年。

 そしてこの彼が、宰相に魔王を降臨させ、私に散々な悪夢を見させることになった人物だ。
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