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番外
裏側の欲望(完全に露見済)
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過去の思い出。それは確かに、宰相が私に対して持ち出し得る最凶の武器だ。
十年間。
私の人生の半分以上を一緒に過ごした。しかも、安心しきって、だ。
(一体、何の話を持ち出してくるつもりかしら)
彼の前で大きな失態を演じた記憶はない。宰相は常に私の側にいたけれど、家族が共有するようなあれこれ──怖い話を聞いて眠れなくなったとか、おねしょしたとか、お菓子を食べすぎて苦しくなったとか、そういう話を知っていて対処してくれたのは侍女や女官たちだ。私の周りにはいつも、有能で善良な女性たちが配備されてきたのだ。それが、宰相の口振りから察するに、情報をせっせと横流ししていた……?
「……宰相、私を監視していたの?」
「監視というと、いささか聞こえがよろしくないようですが。元を辿れば、職業的な必要からです。陛下の暗殺は幾度となく計画されておりましたので。未然に防ぐためには、ある程度陛下の身辺を把握している必要がございました」
宰相はあっさりと言う。
それはそうだろう。そして私は、実際に守られていた。即位してすぐ、国が荒れに荒れていた時だって、宰相と出会う前に比べたら、出会ってからの方がよっぽど平穏で安全な日々だった。それにしても、だ。
「私の体重の動向まで把握していると言っていたわね。そこまでする必要が?」
「陛下。かつてお教えしたことを覚えておいでですか。人を動かす表の理由ではなく、その裏にある真の動機を読むようにと」
「……」
私は眉根を寄せた。
勿論、そのことは覚えている。私が忘れるはずがない。
即位して、一年ほどが経過した頃のことだ。子供ながら必死で、あるいは子供だから必死だったのか、「求められている女王像」に少しでも近付こうとしていた頃。真剣に学び、何もかも完璧を目指し、出来ないことがあれば自分を責めて、そんな日々を過ごすうちに、私はすっかり疲れ果てていた。そんなとき、宰相が言ったのだ。
「王が絶対であり国が永遠のものだというのは、単なる共同幻想です。王が消えても、国が滅んでも世界は続く。ただ、今はこのような機構が出来上がっているというだけのことです。そしてその機構の中で、貴方に出来ることはそう多くはない」
ばっさりと切って捨てた後、彼は言った。
「陛下はただ、人を見る目をお養い下さい。表向きの建前の裏に、大抵の人間はドロドロした欲を隠している。理屈ではない。人を思い通りに動かすためには、その欲がどの方向に向かっているかを読むことです。それが貴方が一番成すべきことかと」
そう言われて、私は奮い立った。彼の期待に応えたいと思ったのだ。まさかその彼が、「私の椅子になりたい」などというとち狂った欲に突き動かされていたなんて、夢にも思わず。
(思い付けるはずがないわ)
狂人を理解できるのは狂人だけだ。
私はじっとりした目で宰相を睨んだ。
意に介した様子もなく、宰相はぼそりと呟く。
「四千ページ」
「!」
「十巻本程度の分量はございますな。一切の修正なしで」
「……」
しばらく睨み合ったけれど、状況は好転しなかった。
私は黙ったまま、カツカツと靴の踵を鳴らして宰相に歩み寄った。視線を逸らし、彼の上にすっと腰を下ろすと、遠巻きに見守っていた客人たちが詰めていた息を吐いて、ほう……と声を洩らすのが感じられた。
私は顔を強張らせながら、周囲の顔を見返した。彼らがどんな気持ちで見ているのか、一体何を期待しているのか、私には全く思い付けない。
「……もしかして、私はこれまで全く人の裏側を読めずに来たのかしら」
「ようやくそれに思い至られましたか。そもそも陛下には、裏の読み合い自体が向いておりません」
「……! では、何故私にそうしろと言ったの」
「陛下が目標を欲しがっておられたので」
淡々とした声が、頭の後ろに降ってくる。
「ですが、悩まれる必要はございません。陛下のお出来にならないことは、他の者がその任を担う。それが王権というものです」
「もっともらしく聞こえるけど。貴方の正論風の言葉は、今後何一つ信じないわよ」
「よく学ばれましたな」
嫌味か。
それとも、私に対して思ったことを言うと、それが全部嫌味になる病気なのかしら。
私が唇を噛んで、こみ上げて来る罵詈雑言を抑え込んでいると、
「ご安心を。現在の私は、陛下に対して裏の欲求全てを隠しておりませんので」
「少しは隠しなさい!」
本当に、隠してほしい。私に対して欲の一つも抱いていないと錯覚するぐらい、冷静で実務的な、常に私に対して一定の距離を保っていた頃の宰相に戻って欲しい。私の頭を撫でることもなく、舞踏会でエスコートすることもなく、そもそも指一本触れることもなかったというのに、なんでこんな風にこじらせてしまったのか。
「暗殺を防ぐための情報収集、と先程は申し上げましたが。お察しのとおり、その建前の裏の真相は、椅子として陛下の情報の全てを集めなくてはという義務感と欲でございますな」
「ユリウス、黙って頂戴」
私は全身全霊でうんざりしていた。
宰相が言っていたとおり、私は彼を「半ば身内」だと思っているし、実はそれ以上に依存しているところがあるのだけれど、今はそんなことは脇に置いておいて。
(椅子なんて、その気になったら倉庫に押し込めて忘れても構わない存在のはずだわ)
もはや、放置プレイとか言っている場合ではない。目の届かないところにやってしまおう。最悪、近衛兵を周りに配備して、宰相と物理的な距離を開けてもいい。約束を守って一日立ちっぱなしで過ごしたとしても、書簡のやり取りだけで済ませた方がよほど効率的だ。王城に戻ったら早速、効率的な配置を考えよう。
「……陛下」
そんなことを考えていたせいか、またもや、宰相がとんでもない……いや、ろくでもないことを企てていたのに気付かなかった。繰り返すけど、宰相の思惑に気付けるほど、私はまだ狂っていない。
「そもそもの前提を間違えておりましたな」
低い囁き声が聞こえた。
こうして、話は少し前まで巻き戻る。私が宰相の膝の上から立てなくなって引き起こされた、絶体絶命の謎の修羅場へと。
十年間。
私の人生の半分以上を一緒に過ごした。しかも、安心しきって、だ。
(一体、何の話を持ち出してくるつもりかしら)
彼の前で大きな失態を演じた記憶はない。宰相は常に私の側にいたけれど、家族が共有するようなあれこれ──怖い話を聞いて眠れなくなったとか、おねしょしたとか、お菓子を食べすぎて苦しくなったとか、そういう話を知っていて対処してくれたのは侍女や女官たちだ。私の周りにはいつも、有能で善良な女性たちが配備されてきたのだ。それが、宰相の口振りから察するに、情報をせっせと横流ししていた……?
「……宰相、私を監視していたの?」
「監視というと、いささか聞こえがよろしくないようですが。元を辿れば、職業的な必要からです。陛下の暗殺は幾度となく計画されておりましたので。未然に防ぐためには、ある程度陛下の身辺を把握している必要がございました」
宰相はあっさりと言う。
それはそうだろう。そして私は、実際に守られていた。即位してすぐ、国が荒れに荒れていた時だって、宰相と出会う前に比べたら、出会ってからの方がよっぽど平穏で安全な日々だった。それにしても、だ。
「私の体重の動向まで把握していると言っていたわね。そこまでする必要が?」
「陛下。かつてお教えしたことを覚えておいでですか。人を動かす表の理由ではなく、その裏にある真の動機を読むようにと」
「……」
私は眉根を寄せた。
勿論、そのことは覚えている。私が忘れるはずがない。
即位して、一年ほどが経過した頃のことだ。子供ながら必死で、あるいは子供だから必死だったのか、「求められている女王像」に少しでも近付こうとしていた頃。真剣に学び、何もかも完璧を目指し、出来ないことがあれば自分を責めて、そんな日々を過ごすうちに、私はすっかり疲れ果てていた。そんなとき、宰相が言ったのだ。
「王が絶対であり国が永遠のものだというのは、単なる共同幻想です。王が消えても、国が滅んでも世界は続く。ただ、今はこのような機構が出来上がっているというだけのことです。そしてその機構の中で、貴方に出来ることはそう多くはない」
ばっさりと切って捨てた後、彼は言った。
「陛下はただ、人を見る目をお養い下さい。表向きの建前の裏に、大抵の人間はドロドロした欲を隠している。理屈ではない。人を思い通りに動かすためには、その欲がどの方向に向かっているかを読むことです。それが貴方が一番成すべきことかと」
そう言われて、私は奮い立った。彼の期待に応えたいと思ったのだ。まさかその彼が、「私の椅子になりたい」などというとち狂った欲に突き動かされていたなんて、夢にも思わず。
(思い付けるはずがないわ)
狂人を理解できるのは狂人だけだ。
私はじっとりした目で宰相を睨んだ。
意に介した様子もなく、宰相はぼそりと呟く。
「四千ページ」
「!」
「十巻本程度の分量はございますな。一切の修正なしで」
「……」
しばらく睨み合ったけれど、状況は好転しなかった。
私は黙ったまま、カツカツと靴の踵を鳴らして宰相に歩み寄った。視線を逸らし、彼の上にすっと腰を下ろすと、遠巻きに見守っていた客人たちが詰めていた息を吐いて、ほう……と声を洩らすのが感じられた。
私は顔を強張らせながら、周囲の顔を見返した。彼らがどんな気持ちで見ているのか、一体何を期待しているのか、私には全く思い付けない。
「……もしかして、私はこれまで全く人の裏側を読めずに来たのかしら」
「ようやくそれに思い至られましたか。そもそも陛下には、裏の読み合い自体が向いておりません」
「……! では、何故私にそうしろと言ったの」
「陛下が目標を欲しがっておられたので」
淡々とした声が、頭の後ろに降ってくる。
「ですが、悩まれる必要はございません。陛下のお出来にならないことは、他の者がその任を担う。それが王権というものです」
「もっともらしく聞こえるけど。貴方の正論風の言葉は、今後何一つ信じないわよ」
「よく学ばれましたな」
嫌味か。
それとも、私に対して思ったことを言うと、それが全部嫌味になる病気なのかしら。
私が唇を噛んで、こみ上げて来る罵詈雑言を抑え込んでいると、
「ご安心を。現在の私は、陛下に対して裏の欲求全てを隠しておりませんので」
「少しは隠しなさい!」
本当に、隠してほしい。私に対して欲の一つも抱いていないと錯覚するぐらい、冷静で実務的な、常に私に対して一定の距離を保っていた頃の宰相に戻って欲しい。私の頭を撫でることもなく、舞踏会でエスコートすることもなく、そもそも指一本触れることもなかったというのに、なんでこんな風にこじらせてしまったのか。
「暗殺を防ぐための情報収集、と先程は申し上げましたが。お察しのとおり、その建前の裏の真相は、椅子として陛下の情報の全てを集めなくてはという義務感と欲でございますな」
「ユリウス、黙って頂戴」
私は全身全霊でうんざりしていた。
宰相が言っていたとおり、私は彼を「半ば身内」だと思っているし、実はそれ以上に依存しているところがあるのだけれど、今はそんなことは脇に置いておいて。
(椅子なんて、その気になったら倉庫に押し込めて忘れても構わない存在のはずだわ)
もはや、放置プレイとか言っている場合ではない。目の届かないところにやってしまおう。最悪、近衛兵を周りに配備して、宰相と物理的な距離を開けてもいい。約束を守って一日立ちっぱなしで過ごしたとしても、書簡のやり取りだけで済ませた方がよほど効率的だ。王城に戻ったら早速、効率的な配置を考えよう。
「……陛下」
そんなことを考えていたせいか、またもや、宰相がとんでもない……いや、ろくでもないことを企てていたのに気付かなかった。繰り返すけど、宰相の思惑に気付けるほど、私はまだ狂っていない。
「そもそもの前提を間違えておりましたな」
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