【完結】ずっと一緒だった宰相閣下に、純潔より大事なものを持っていかれそうです

雪野原よる

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番外

椅子と夜更かし(できない)

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 私は宰相の企みを聞き流すことにした。

 随意にやれ、というお墨付きを与えたのに等しい。それはまさしく……苦渋の判断だった。

 フレンジル王子のあの服装や、突飛な髪型、頭上の帆船までは許せる。線が細くてどこか浮世離れした容姿に似合っていないわけではないし、あれはあれで王族らしく、飛び抜けた高貴さと美的感覚の顕れ……と言えなくもない。多分。常識的な発言をしたり、私を思い遣ってくれたりするところを見ていても、根はいい人なのだし。でも、「存在が罪デビリッシュ・センセーション」……あれは無理。

 想像してみて欲しい。何も聞こえなかったふりをしていても、そのうち聞き流せなくなるほど絶え間なく、陶酔しきった高い作り声で繰り出される謎言語。浴びるたびに、どうしようもなく心が疲弊する。

 隣国の民衆は、彼が即位した後は事あるごとにあの種の発言を聞かされることになるわけだけれど……心を強くして生きていって欲しい。私は無理だ。

(まあ、実際に叩き出すわけではないのだし、ね)

 わらわらと群れ寄ってくるご機嫌伺いの客人たちに囲まれ、丁重な挨拶を交わし合いながら、広間の向こう側、ひときわ賑わっている界隈にチラリと視線を流す。

 よくもまあ集めたものだ。ざっと見は三十人ほどいる集団に囲まれて、媚びに媚びた黄色い歓声を浴びている王子様の姿はすっかり埋もれていて、ここからは見えない。模型船の白い帆だけが、塔の上に掲げられた旗のようにたなびいている。

(だんだん遠ざかっているわね)

 最初のうちは、私たちのすぐ近くで楽しそうにちやほやされていたフレンジル王子だけれど、本人も気付かないうちに誘導されているのか、どんどん距離が開いていっている。まあ、王子は楽しんでいるみたいだし、周りの取り巻き(偽)も宰相から報奨金が貰えるかもしれないとあって熱心に励んでいるし、私が罪悪感を抱く必要は微塵も無さそうだ。

(このまま、そこそこの距離を保ってお付き合いしていけたらいいわ)

 遠い目をして眺めていると、

「……ご存知ですかな、陛下。この離宮の泉には、ややありふれた伝説がありまして。不幸な人生の果てに溺死した貴婦人の霊が水面を彷徨い、泉を覗き込む者の顔が美しいものであれば、男女構わず嫉妬して死界に引き摺り込むとか。美貌を誇る王子の末期としてはそう悪くないと、ご本人も満足されるのでは?」

 椅子が、ひそひそと私の耳に囁いてきた。悪いことばかり吹き込んでくる、呪いの椅子か何かなのかしら?

 少し緩んでいた気分が、一瞬で引き締まる。私はむっつりと答えた。

「あからさまに他国の王族の暗殺を示唆しないで頂戴、ユリウス。そのうち不敬罪だか反逆罪だかで捕まりそうな気がするけれど、そうなっても私は庇わないわよ」
「陛下が自ら捕まえて下さるのでは?」
「期待している……だと……? どこに貴方を期待させるような要素があったの?」
「陛下が私を唯一の椅子として、他の誰にも座らせないよう牢屋に繋ぎ止めると仰って下されば、私は国の一つ二つ、王子の一人二人はこの世から消し去ってご覧に入れようと思っておりました」
「まだ悪化する余地があったのね、貴方……凄いわ……」

 お互いにだけ届く程度のひそひそ声。傍目からすれば、悪辣な宰相が毒のような囁きを女王の耳に落とし込んでいるところ。人によっては、距離の近い婚約者同士が親密な言葉をやり取りしているように見えるかもしれない。

「お二人は今夜もとても仲がよろしいことで」
「少しばかり目に毒ですなあ」

 どうやら世評は後者に傾いているらしい。

 和やかな笑みを浮かべて頷き合う廷臣たちを見遣りながら、私は唇を引き攣らせないように注意しながらも笑みを形作った。

「まるで熟年夫婦のような雰囲気を醸し出していらっしゃる」
「全くですなハハハ」

 ……違う、違うぞ廷臣ども。

 私の笑顔が思い切り引き攣った。

(それが褒め言葉だと思ったら大間違いだわ)

 きっと今頃、フレンジル王子はずっと洗練された褒め言葉の数々を浴びているに違いないのに。これが私の希求した平和の結果、平和ボケというものなの?

 




 暗い水を湛えた泉に向かって開け放たれた部屋では、楽団が陽気な音楽を奏で、老若男女が手を取り合って踊っている。夜も大分更けて、広間には新たな夜食の数々が運び込まれてきた。

 繊細優美な離宮の雰囲気に合わせて、花の香りがついた水や、シャーベット、二色の層ができた果実酒なんかがずらりと並ぶ。私は柑橘の蜜が垂らされたアイスクリームを手に取った。

「陛下。就寝時刻を過ぎておいででは?」

 椅子が言う。貴方はいつ時計になったの。

 私はついつい癖になりつつある半眼で、背後を見遣った。

 最近の彼は椅子なのによく喋る。それに食事も摂る。一時、私の椅子に徹しすぎて何も食べず、水分も取らず、完全に凝固して過ごしていた彼を見て、その生命維持が心配になった私が命じて、少しは人間らしい生活を送らせるようにしたのだ。プロの椅子である彼は不本意この上なさそうだったけれど、重ねて強く王命だと念押しすれば逆らわなかった。私はまだ、自分が座っている椅子の死亡事件を引き起こしたくない。

 そんなことになったら、後の史書に何と書かれるやら。

「まだまだこれからという時間でしょう」

 貴族階層というものは、とにかく夜が遅いものだ。夜通し着飾って遊んで暮らし、翌日は昼も過ぎてから起き出し、午後から社交を始める、というような頽廃しきった者たちが沢山いる。それに引き替え、王城の時間割に沿って暮らしている私は、朝早くに仕事始めの朝議があり、引見の儀があって、ほぼ太陽の進行と同じような生活を送っている。

「陛下の御歳では、もうお休みになるべき時刻です」

 喉を焼く、と評判の火酒を水のように飲み下しながら、ユリウスが無表情な藍色の目で見下ろしてくる。その表情を見て、(あ、これは駄目ね)と察した。王命でも動かし得ない、頑なで有無を言わさぬ顔をしている。

 私がほんの子供で即位したせいもあるが、ユリウスは私の夜更かしを絶対に許さないのだ。どんな事情があっても寝台に突っ込まれるし、そのためならどんな黒い手段でも躊躇わない。本当に悪だ。

「貴方、たまに私の乳母みたいになるわよね」
「椅子です」
「それは数ヶ月前からでしょう」
「生まれつきです」
「事実の改竄はどうかと思うわ、宰相として」

 実を言えば、私は確かに眠くなってきていた。結い上げられた頭が重くなってきて、このままテーブルにつっぷして眠ってしまいたいほどだ。その場合、私の椅子が速やかに運んでくれると思うけれど、それって椅子と言っていいのかしら。
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